Photos by Satoshi Fujiwara

若き写真家が見る歪んだ世界 vol.10 藤原聡志

若き写真家が見る歪んだ世界、第10回目はドイツを拠点に活動し、写真、画像という媒体が現代の社会でどのような役割を担うのか、その秘められた可能性を模索する藤原聡志の作品とインタビューを紹介します。

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nov 25 2015, 7:25am

Photos by Satoshi Fujiwara

街を何気なく歩いているとき、知り合いとすれ違っても全く気付けないことが多く、あれっ誰々かな?と思ったとしても、その確信が持てずやり過ごしてみたり、逆に声をかけられても全く誰か分からず、とりあえずお疲れ様ですと誤魔化し通りすぎることがあまりにも多い。もちろん視力が悪いということも影響しているのかもしれないが、そもそも人と接しているとき、着ているものや髪型を雰囲気で捉え、その人自身としっかりと対峙できていないのではないかと、よく反省させられることがある。逆に、自分の生活圏の中で、その人が乗ってる車を見かけたときの方が、絶対誰々だなんて確信できたりするから余計恐ろしくなったりもする。
若き写真家が見る歪んだ世界、第10回目はドイツを拠点に活動し、写真、画像という媒体が現代の社会でどのような役割を担うのか、その秘められた可能性を模索する藤原聡志の作品とインタビューを紹介します。

まず写真を始めたきっかけを教えてください。

社会人になり最初は広告の企画、デザインの仕事に携わっていたのですが、そこでクライアントのメッセージをターゲットにいかに魅力的、かつ簡潔に表現するかという作業をしていくなかで、そもそも写真だったり画像自体が人々にどのような影響を与えるのかという、根本的なことに興味が移っていったことがきっかけです。

なぜそのような考え方を持つようになり、写真というメディアに興味を持ったのですか?

ひとつはトーマス・ルフという写真家を知ったことが大きかったです。彼の写真や画像というものの概念を次々と破壊している作品に大変感銘を受けました。そこから広告の世界で身につけた技術や視点を活かして、視覚イメージや写真について独学を始め、現在は尊敬している写真家が多かったことを理由に、ドイツを活動の拠点においています。まだまだ勉強しなければならないことが山のようにあるので、そういった期間を過ごす場所として、比較的ゆっくりと時間が流れているベルリンは適しているのかなと今は感じています。

©Satoshi Fujiwara, Code Unknown, 2014, Courtesy of IMA gallery

では、そんな藤原さんのコンセプトを、作品を通して具体的に教えて下さい。

まずは上記の「Code Unknown」についてですが、いっけんモデルをブッキングし、撮影場所をあらかじめ用意しセットアップして撮影したかのように見えるかも知れませんが、実際には主にベルリンの地下鉄内で撮影したストレート写真です。しかも無許可で、被写体となった人々に気付かれないように撮影しています。したがって、撮影の時点で対象自体をコントロールすることはできません。ただ、そこがこの作品のポイントで、我々は直に、またはメディアを通して他人を見るとき、外見(顔、体型、身に纏っているものや行動など)、すなわち様々なコードによって情報を読み取っていると思います。この作品で私は、被写体が持つ様々なコードを画像上で制限、または変換することで、被写体の個人性を特定できない曖昧なものにしようと考えました。

なるほど。では手に持った新聞紙などに限定している作品は何を意図しているんですか?

顔にクローズアップした写真では顔以外の様々な要素を排除することで、誰が誰だかわからなくなりますが、衣服や携帯品にフォーカスした写真では逆に被写体の個性が浮き彫りになるという狙いも含ませています。また、顔と身体の一部がともに写り込んでいる写真では、髪の毛の色が変わっていたり、顔のパーツの形を変形させていたり、部分的にデジタル加工処理を行なうことでピクセル画像上のコードを変換させています。

では、この作品の手法はどのような考えのもと生まれたのでしょうか?

私の敬愛するミヒャエル・ハネケ監督の映画『Code Unknown』の中で主人公の恋人であるカメラマンが電車内で向かいに座った乗客を隠し撮りするシーンがあって、私はこの彼と同様の方法でベルリンの電車内で人々を撮影しようと考えました。このシリーズはハネケ監督へのオマージュでもあります。

このような撮影方法だと肖像権という問題が出てくると思いますが、作品のコンセプトが、顔を映しているのに誰か特定できないことに焦点を当てているので、クリアできると考えているのですね。

クリアできているのかどうかは分りません。むしろどこまでがセーフでどこからがアウトという曖昧な線引き自体に興味がありました。ですので、撮影と編集を繰り返しながら、肖像権の限界地点を意識的に探っていきました。撮影の手法上、この問題とは切っても切り離せないこともあり、さらにネットワーク環境が整備されSNSが一般化した現代では、撮られる側の人々も撮影された画像が、どのように使われるのか多くの人が敏感になっていると思います。さらに、無許可で人々の顔を捉えた写真を無闇に公共の場に晒すことは出来ません。窓から差し込む直射日光による影の効果、構図、そしてデジタル画像処理などを駆使し肖像権という問題をクリアにすることも試みた作品でもあります。

つまり、この作品では、写真で個人を視覚的に特定することの曖昧さを、肖像権という法律をクリアするということを同義と捉え、成り立たせている作品ということですね。

同義と捉えている訳ではありませんが、肖像権という人権を法律で裁く場合に、デジタル画像、写真はどれまで信頼できるものであるのか、という現代における画像イメージの在り方にフォーカスしています。

では次に「#police #cover_up #demonstrations #brutality 」、つまり#警察 #隠蔽 #デモ #残虐について紹介してください。かなり政治的なメッセージが含まれているように感じます。

©Satoshi Fujiwara, #police #cover_up #demonstrations #brutality, 2015, Courtesy of IMA gallery

#警察 #隠蔽 #デモ #残虐とSNSなどに使うハッシュタグの羅列をタイトルにすることで、 意図的に情報を限定し、威圧的な写真と並べることで、見る側の人々に警察官のデモ鎮圧での過剰制圧に対しての隠蔽工作、国家権力の乱用といった文脈でビジュアルイメージを見せようと考えました。つまり狙いとしては、警察=隠蔽など、ひとつの画像を限定された視点で見てしまうという人間の深層心理や効果を利用するというコンセプトのもと作品を作りました。したがって、政治的なメッセージを主張するのではなくて、むしろ、イメージ操作が写真によってどこまでできるかということがテーマになっています。

政治的なメッセージはなくても、国家権力に対してメッセージ性の強い視点も含まれていると感じます。

ビジュアルイメージはかつてからプロパガンダなど国家戦略として利用されてきた歴史もあり、現代でも警察の隠蔽工作、例えば2013年に、ギリシャで警察が囚人への虐待を隠蔽するために画像を加工した疑いがあると報じられた事件など、良く耳にするということも、この作品作りの出発点のひとつでもあります。

見る側としてはそういう事件もこの写真を特定のイメージで見てしまうことに繋がっていくということですね。

そうですね。また近年、誰もが携帯電話やスマートフォンのカメラで撮影ができ、目の前の出来事が簡単に映像化できるので、SNSなどを通じ一般市民がジャーナリズムの一端を担っていると考えます。警察の過剰制圧で市民がケガを負ったり死亡するといった事件がアメリカを中心に度々起っていますが、こういった事件が表沙汰になるとき、いち市民から真実を訴えようとSNSや動画サイトを通してネット上に発信され、その後マスメディアがそれらを拾い報道するといったケースも目立ちます。そういう経緯がある中で、逆にいち市民の立場から国家権力についてのイメージ操作を行なうことが可能かどうか実験的に試みた作品でもあります。つまり、警察官を可能なかぎり至近距離から撮影し背景を画面から排除することで写真上の情報に制限をかけ、それぞれの画像を暴力的なアイコンとなるよう意識して撮影しました。

実際によく気づかれずに撮影できましたね。

もちろん、アポイントは取るつもりはなかったですが、取れるわけもなく、デモや警察官や機動隊員が集まりそうな時と場所を調べて撮影しに行きました。私の場合、ヨーロッパだと、キャップを被ってリュックサックを背負い、カメラを首からぶら下げたアジア人ですからね。ただのひとりの旅行者として簡単に風景の一部となることが可能なので、そういったアジア人としての利点(笑)も利用し、被写体に忍び寄りました。

実際にデモなどを鎮圧したその様を切り取っているのですか?

イメージとしてそのように誘導しているだけで、実際に撮影した日も、ベルリンでの自転車レースで配備されていた警官や、サッカーの試合で興奮したサポーター同士の小さな衝突を鎮圧し引き上げようとしている機動隊員です。また、このシリーズに差し込んだ数枚のポートレートも、全く別の時間、場所で撮られた人々の写真をまるで人々が負傷しているかの様にデジタル加工したものです。傷跡やアザをPhotoshopで消したギリシャでの事例とは反対に、画像上で人々の顔に傷やアザを勝手に作り上げました。これは言わばフェイク画像でイメージ操作を行なったドキュメンタリー写真でもあります。現代のデジタル画像、写真技術では真実が偽造される可能性が大いにあり、また逆にフェイク画像がある真実を物語る可能性を秘めているのではないでしょうか。

つまり、「Code Unknown」が個人の特定をテーマにしているのに対し、ある文脈が限定された中で写真を捉えると、それがあたかも真実に写ってしまうといった人間心理をテーマにした作品ということですね。どちらに関しても、写真や画像が、人々に与える影響というテーマのもと作られているという話でしたが、編集やあるストーリーの中で写真を見せるという意味ではキュレーターや、編集者の視点とも近いと思うのですが、あくまで写真家としての道を選択している理由を教えてください。

もともと、写真家やアーティストより、むしろキュレーターや編集者などに対する憧れがあって、そちらの道に進もうかと考えたこともありましたが、自分には向いていないということにすぐに気が付き写真家としての道を選びました。私はかなり主観の強い人間で、興味のあることしか突き詰められないという典型的なオタク気質なので、バランス感覚が求められる仕事には向いていないと感じていることが大きいと思います。

また、根本的に斜めからというか、かなり世の中全てを信用していないというか、社会に対してのある疑いの視点から作品作りがなされていると感じます。

基本的に社会に存在するカテゴリーや物事や概念の領域を仕切っている境界線を信用していませんし、つまらないなと思っています。正誤や善悪というものも、社会における設定でしかないと思っています。勿論、人間社会を円滑に進めるため、もっと言えば経済活動を円滑に進めるためには無理矢理にでも物事を整理や分類して常識や共通認識というものを作っていかなければならないからだと思います。これはこういうものだ、というあたかも明確なようなふりをして、そこに有る曖昧なものを基準としてあるひとつの方向に進んでいる社会に対し、写真やアートの考え方を使い全く違う方面からのものの見方を示せないか。それは、ある特定の社会や物事に対する直接的なメッセージではなく、左翼的であるということや、アクティビストのようなスタンスとも違って、あくまでも写真というものを主軸にひとりの傍観者として俯瞰して物事や社会を見つめることで、初めて気付く新たな視点を提示できないか。そんな想いのもと作品作りをしています。

それが大きなモチベーションになっているということですね。

そうですね。また、自分の中に漠然と昔からあるものなのでうまく言えませんが、結局のところ人と理解し合うことが出来ないと感じていることも大きいかもしれません。同時に、作品を作ることで溜まったものを吐き出していかないと、自己が成り立たなくなるのではないかという恐怖感があります。とにかく生きている事自体に深い虚無感と絶望感があって、写真のことを考えているときだけ唯一それらから逃れられるような気がしています。

藤原聡志

1984年兵庫県出身。2015年に写真集『Code Unknown』をリリース。またUnseen Photo Fairに出品するなどグローバルでの活動も展開するなか、7月には、ISSEY MIYAKE MENの洋服に作品が使用されるなど様々なジャンルを超えて活躍する写真家。http://www.satoshi-fujiwara.com

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