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「痛む心と体、そして失われた7年の記憶にいまも苦しんでいるのです」シリア難民の告白

トルコ共和国南東部に位置するシャンルウルファでは大勢のシリア難民が生活している。祖国の戦禍から逃れ、平穏を手に入れるべく同地を訪れた彼らを待ち受けていたのは、予想外の窮状だった。一握りのシリア人は、同地で新たな平穏を手に入れたが、残りの大勢は、難民という立場も災いして苦しい生活を余儀なくされている。彼らはいかなる未来を想い描き、日々を過ごしているのだろう。

by Chihiro Masuho; photos by Chihiro Masuho
04 June 2018, 7:55am
トルコ南東部の都市シャンルウルファでシリア難民支援をしているニスリーン. 彼女自身もコバニから逃れてきた難民だ.

シリア危機から7年、変わったもの、変わらないもの

降りそそぐ雨の冷たさに背中を丸めて小走りしていると、前を歩いていたニスリーンが手招きをして、車のドアを開けてくれた。

走り出した車はすぐに市街地を抜け、冬枯れた田園地帯を走る。雨雲が光をさえぎっている せいで、世界は乳白色の冬空に沈み、モノトーンの景色がどこまでも続いていた。

2018年1月、トルコ共和国南東部の都市、シャンルウルファ(Şanlıurfa)を訪ねた。シリア危機から7年、故郷の紛争からこの地へ逃れて避難生活を送るシリア難民を取材するためだ。

シリア国境に近いシャンルウルファは人口 80 万人ほどの都市. 街の起源は紀元前 2000~3000年頃にまでさかのぼる.

〈21世紀最大の人道危機〉とも称されるシリアの戦争は、なかなか終息の兆しを見せない。 レバノンを拠点とする学術組織〈シリア政策研究センター〉によれば、この戦争による死亡者はすでに47万人に達し、1000万人が故郷を追われて難民になっているという。

戦況が複雑化しているのは、さまざまな国家、組織が己の思惑のために戦闘に介入したからだ。もともとは 、2011年3月、民主化を求めて始まった市民運動に、ISなどのテロ組織が便乗し、そこに中東で存在感を示したい米国、ロシア、トルコ、イランなどが参戦し、シリア情勢は混乱に陥った。

だが2017年、イラクのモスルやシリアのラッカといった、ISの主要拠点の解放が報じられると、いよいよシリアの戦争も終わるのか、という風潮が高まった。

難民を支援する団体関係者の口からも、「帰還する人、もしくは帰還を検討するシリア難民が増えている」という言葉を聞くようにもなった。7年のときを経て、シリア難民たちの状況や心境にはどんな変化が起きているか、または、何も変わっていないのか。それをこの目で確かめたくて、シャンルウルファに足を運んだ。

359万人のシリア難民を受け入れ

トルコは、いまや世界最大のシリア難民受け入れ国になっており、その数はおよそ 359万人にのぼる(UNHCR調べ)。大半は首都、イスタンブール、シリアと国境を接する南東部に集中していて、なかでも大都市のシャンルウルファでは、約44万5000人のシリア難民が暮らしている。

シャンルウルファの一大観光地〈アブラハム生誕の地〉. 週末は大勢の人で賑わう.

難民というと、荒野にずらりと並ぶ仮設キャンプに暮らしている人々を思い浮かべるかもしれないが、今回取材したのは、都市に暮らす難民だ。実際のところ、世界中で避難生活を送る難民のうち、キャンプに入居できるのは全体の3割弱で、大多数は、生活がより困難な都市に逃げ込むという。

難民キャンプでの生活であれば、支援団体が提供する食糧や保健衛生サービスを安定して享受できる場合が多いし、法的手続きや公共サービスなど、生活に必要な情報も入手しやすい。プライバシーの確保は難しいが、隣人とのつながりもできる。

都市型の難民はその反対で、コミュニティや行政、支援団体にアクセスしづらく、劣悪な住環境で孤立したまま困窮状態に陥る傾向にある。

ニスリーンは、シャンルウルファでシリア難民の支援をしている日本の国際NGO〈AAR Japan (難民を助ける会、以下AAR)〉の現地スタッフで、シリア難民の家庭を訪問しながら、ニーズ調査や悩み相談を担当する。そこで彼女の仕事に同行し、シリア難民たちに話を聞いた。ニスリーンは、北西部の都市コバニから 4 年前に避難してきたシリア国籍のクルド人だ。

2年前からAARで働いているという。

まだ25歳の彼女は、弾けるように若くて明るい。取材先に向かう車中では、これから訪ねる難民家庭の境遇を詳細に説明してくれるしっかり者だが、突然「だーれだ?」と目隠ししてくるようなお茶目さもある。陽気でバリバリ仕事をこなしている彼女を見ていると、「難民=かわいそう」という、ありきたりな図式は思い浮かばない。

ところが、ニスリーンが案内してくれたシリア難民の家庭の状況は、正直、予想していたよりもずっと悪かった。

貧困、児童労働、引きこもり、家庭内暴力…

シリア難民はシャンルウルファのなかでも貧困層が多い南部エリアに暮らす.

たとえば、廃墟のような小さなビルに10人家族が肩を寄せ合って暮らしているケース。建物には電気もガスも通っておらず、コンクリートや鉄骨むき出しの室内はしんしんと冷えていた。 すきま風も容赦なく吹き込んでくる。

小さなアパートの一室に暮らすシリア難民の家族。子供たちは戦争が始まってからいちども学校に行っていないという.

取材で訪問した7家族のうち、父親が定職に就いていた家庭はなかった。そこで犠牲になるのが子供たちだ。まだ10歳ほどの子供が農作業や廃品回収といった労働に違法に従事させられる。学業より仕事優先の生活を強いられても、「家族のためだ」と親に諭されると子供たちはそれに抗えない。避難先の教育機関が機能していない場合も多く、シリア危機が始まってからの7年、子供たちがいちども学校に行っていないという家庭もあった。

9人の子供をひとりで育てているというシングルマザー(右から2人目). 夫は心筋梗塞で5ヶ月前に突然他界. 年長の3人の子供たちが外に働きに出て家計を支える.

戦争で負った傷に悩まされている人も多い。

アブドゥラ・アズィーズ(27)は、3年前にシリア政府軍の空爆で破壊された壁の下敷きになり、背骨を損傷。故郷のデリゾールでは情報科学を専攻する大学生だったが、いまは寝たきりの生活を送っている。アブドゥラの人生は、あの日から一変してしまった。

歩けなくなってから3年, ようやく車椅子を手に入れたアズィーズ. AAR の支援 による(右から 2 番目).

ふさぎ込みがちな彼にAARの職員はカウンセリングを受けてはどうかと提案したが、彼はそれを断った。「体は不自由かもしれないが、心は健全だ」と。

アズィーズの手の平のなかには、彼から歩く自由を奪った壁の破片がいまだに入っている。 あの日の記憶が彼の頭から決して消えないように、破片も体の一部となって残ったのだ。

アズィーズの手の平に残る壁の破片.

住環境の悪さと貧しさが理由で、トルコに避難してきてから体調を崩す人も多い。身体の不調だけでなく、うつも深刻な問題だ。トルコで暮らしはじめてから、言葉を失った男性や、 家に引きこもり1日中ベッドで過ごしている17歳の少年もいた。

毎日一歩も外に出ず, 眠り続けているというアフメド(16). うつや引きこもりも問題だ.

話を聞かせてくれた誰もが、暗く沈み覇気がない。これだけ長期に渡り強いストレスにさらされていれば当然だが、ときおりまるで暗闇と話しているような気分になった。

やる気に溢れ、ポジティブなオーラを発しまくっているニスリーンとは正反対だ。彼女は、自分よりひと回りもふた回りも年上の難民たちの悩みを聞き、相談を受け、的確なアドバイスを与えている。

そして最後には必ず、「子供たちがいるんだから、もっと強くならきゃ」と難民たちを励ますのだった。

失われた7年

どこの家庭でも問題の根本にあるのは、貧困だ。男たちはなかなか定職に就くことができず、たまに日雇い労働をする程度。暮らしは、トルコ赤新月社がシリア難民に提供するわずかな現金支援に頼っている家庭が非常に多かった。

トルコ国籍を取得すれば、定職に就けるかもしれない。2016年、トルコ政府は最大30万人のシリア難民に国籍を付与する意向を発表した。だが、トルコ人になればシリア難民向けの現金支援はもちろん失う。

8人の子供の父親であるユフス(35)はシリア北部の都市ラッカの出身.「現金支援を失うくらいなら, トルコ国籍はいらない」という.

そんなリスクは冒せないゆえに、国籍は申請せず、無職のまま。それがしごく当然だというように話す男性陣を見て、人によっては支援のせいで飼い殺しのような状態にはまりこんでいる、そんな印象を受けた。

戦争で職を失い、一家の大黒柱としてのプライドを傷つけられた男たちのストレスのはけ口となるのが、女性や子供たちだ。彼らが引き起こす家庭内暴力や、女性、子供に対する性的虐待も深刻化している。

貧困、孤立、うつ、引きこもり、体調不良に家庭内暴力、そして児童労働。問題は山積みだが、これらはシリア危機が発生した当初から報告されており、すでにさまざまなメディアで取り上げられてもいる。残念ながら7年たったいまでも解決されていないのだ。いや、むしろ長期化しているせいで、状況はさらに悪化していると感じた。

積もった雪の重みのせいで次第に木の枝がたわむように、苦しみがじわじわと人々を蝕み、気づかぬうちに取り返しのつかないに状態に追い込んでいるのではないだろうか。

ニスリーンは言う。

「シリアの人々は、かなり長い間辛い避難生活を送っていますから、問題に立ち向かむ気力がもう残ってないんです。何というか、彼らはこの7年を失ってしまっているんです」

増え続ける難民

ISの勢力は確かに衰えているかもしれない。だが、東グータに見られるように反政府勢力に対するシリア政府軍の攻撃は相変わらず激しい。また、ISという共通の敵を倒した有志国連合の結束は崩れ、いまや各国が私利私欲のために動いている。

2018年1月には、トルコがシリアのクルド人地区アフリンに侵攻し、3月に同地域を制圧した。攻撃の勢いは衰えず、クルド人を「テロリスト」と見なすトルコは、今後もクルド人地域への攻撃を続ける意向を表明している。

同年4月14日には、シリア政府軍が化学兵器を使用したとして、米英仏3ヵ国がシリア国 内の化学兵器関連施設を攻撃。この3ヵ国と、ロシアが支援するシリアとの亀裂は深まり、戦況はさらに混迷している。

このように、長きに渡って戦闘が続いている状況を踏まえれば当然のことかもしれないが、 取材した難民のなかでも、つい最近シリアから避難してきたという人は意外なほど多い。 AAR の現地スタッフによれば、シリア危機が発生した当初に国外に難を逃れた人々は、適切な情報を得られた都市部の知識層、海外に行くことが出来る富裕層が多かったという。

一方、シャンルウルファのようなトルコ南東部では、シリアの農村部に国境を接しているため、 地方在住の比較的貧しい人々が逃れてくるケースが多い。もちろんシリア危機が起きた当初からトルコ南東部に避難している人もいる。そのため、まだ右も左もわからないような状態の人がいるかと思えば、すでに生活基盤を確立している人もいるという、さまざまな境遇が混在しているのが、ここシャンルウルファの特徴といえるだろう。

予約待ちの料理教室

取材中にはもちろん、すでに新しい人生を歩みはじめている難民たちにも遭遇した。

AAR が運営するコミュニティセンターでは、難民認定を受けるための法的支援や生活にまつわる相談を請け負うほか、子供向けの学習塾から、レクリエーション、縫製などティーンエイジャー向けの職業訓練、主婦層のための料理教室やフィットネスなど、さまざまなアクティビティを提供している。

コミュニティセンター内にある託児所. 親がアクティビティに参加している間, 子供たち同士で楽しく遊ぶ.

予約待ちになるほど人気だという料理教室に参加させてもらうと、女性たちの活気に圧倒された。

六畳一間ほどの小さなキッチンは、常におしゃべりで大賑わいだ。おみやげに持参した1kgのバクラヴァ(ナッツ入りパイを蜜漬けにした中東の激甘スイーツ)を瞬殺する旺盛な食欲がすがすがしい。アラビア語も話せず、料理の役にも立たない不審な外国人(私)にも、持前のホスピタリティでほどよく気遣ってくれる。

てっきりシリアの家庭料理をつくるのかと思いきや、「今日のメニューはこのあいだ本で見た米国料理よ!」というユルさもいい。

シリア料理の定番, 羊飼いサラダと, 米国料理だというチキンチーズロール.

さらに、難民と地元コミュニティの交流を促すために、このセンターでは、シリア人だけでなくトルコ人も講師や参加者として協力している。服飾のクラスを担当するトルコ人講師がシリア人生徒のつくったワンピースを見せてくれた。とても誇らしげに「この細かいダーツを見てよ! 本当にキレイにつくってるでしょ!」と。

拡大する〈難民格差〉

コミュニティセンターに訪れるシリア難民たちからは、異国の地でもたくましく生きようとする前向きな力が感じられた。学歴や職能があるシリア人は、定職にも就ける。なかにはトルコ人をしのぐ高給とりもいて、シャンルウルファで次々と建設されている新興住宅地には、 そんなシリア人が多く住んでいるそうだ。

もともと富裕でスキルがあるシリア人たちは、異国でもちゃんとやっていける。それは喜ばしいことだが、彼らとそうでない人たちとの格差は広がるばかりだ。もともと貧しかった人たちの生活は、さらに不安定になり、病気や事故といった些細なアクシデントが起きると、坂を転げ落ちるように破綻する。

7年を経て、難民たちはそれぞれの道を歩みはじめた。それゆえに生じた〈難民格差〉が拡大し続けている。

ニスリーンの告白

生活の安定を手に入れつつある〈勝ち組〉も、内心は大きな葛藤を抱えている。

ポジティブ娘のニスリーンも、例外ではない。移動中、彼女に、シリアに帰りたいと思うか、と質問したことがあった。するとニスリーンの表情が突然曇った。トルコに逃げて来る前、故郷コバニで弟がISに殺されたのだという。

「そのとき悟ったんです。シリアはもう私たちのいる場所じゃないって。故郷とはいえ、命 を落とすかもしれないような危険な国に、戻るつもりはありません」

普段は明るく振る舞っていても、やはり、彼女も難民のひとりで壮絶な体験をしている──その事実に殴られたような衝撃を受けた。いまでも体調不良に悩まされ続けているというニスリーン。「もっと強くならなきゃ」という言葉は、同胞だけでなく自分に向けられたものなのかもしれない。

シリア国内では何が起きているのか

7年が過ぎて、難民格差以外にも、より純化された事実がある。

そもそもシリア危機は、アサド政権を倒すための民主化運動に端を発している。混乱に乗じて抬頭したISの異常性に埋もれてしまっていたが、彼らが去ったいま、戦いは本来の姿を再びくっきりと現した。アサド政権率いるシリア政府軍が市民を窮地に追い込んでいる限り、根本的な問題は何ひとつ解決されたといえない。

現政権に対する強烈な怒りと、祖国への報われない想いをふたりのシリア難民が語ってくれた。

マイサーの場合

29歳のマイサーは、ダマスカスにいる親戚と、ときどき連絡をとる。だが、すべての電話は当局に盗聴されているため、会話は表面的なものだ。アサド政権について語ることはできない。 そんなことをすれば、親戚の身に危険が及ぶからだ。

「私の心はいつもあなたたちといっしょ。戦争が終わったら、絶対に会おうね」──この程度の会話が精一杯だ。

シャンルウルファの冬は寒い. 気温がマイナスまで下がり, 雪が降ることも. 2018 年1月撮影

子供から大人まで、男性はみんな徴兵されてしまったので、ダマスカスでは女性と老人の姿しか見えない。街を歩いていると、アサド政権を支援するイラン軍兵士に、3分にいちどはIDの提示を求められるそうだ。

「3分ごとですよ、まるでマンガの世界みたいでしょう?」と彼女はいかにもバカバカしそうに笑った。

マイサーは、かつてダマスカスの大学で化学を教えていたという。シャンルウルファに避難してきたのは、2013 年の3月。知的で落ち着いた喋りかたがいかにも賢そうな、リケジョの雰囲気を漂わせている。

地方の状況は、ダマスカスよりもっと複雑だ。今月はシリア政府軍、来月はシリア自由軍(反体制派)というように、支配勢力がころころ変わるからだ。マイサーの故郷である東部の都市、デリゾールは、大半の街がISの支配下にあり、2つの街だけがシリア政府に掌握されている。 通りを挟んで、こっちはシリア政府、でもあっちはISというわけだ。

「紛らわしいでしょう?」とマイサーはまた皮肉っぽく笑った。

彼女はシリアの状況に失望しきっているのだ。アサド政権は倒れるどころか、いまも罪のない市民を殺害し続けている。にもかかわらず、国際的な和平協議であるはずのアスタナ会議の参加国には、ロシア、トルコ、イラン、に加えてアサド率いるシリアが名を連ねる。現政権が存続したままのシリアには戻れないとマイサーは考えている。

「私はダーイッシュ(IS)に捕まるのも嫌ですが、アサド政権下で牢獄に入りたくもありません。本当の自分を押し殺してまで、シリアで暮らしたくはない」

反体制派だった彼女の兄は、戦争が始まるとすぐに、政府軍に捕まり投獄された。父が保釈金を払ったおかげで、兄は3日後に解放されたが、自分の身に起きたことをひとことも話そうとはせず、そのまま 1 週間ほど部屋に閉じこもってしまった。

「7年の月日がたち、ようやく兄は回復したように見えます。それでも、いまだに自分の身に何が起きたかを話そうとはしません」

だが、たとえ当事者が話さなくても、シリア人なら誰もが知っている。政府の刑務所に収容された者が、肉体的、そして精神的にどれほど陰惨な虐待を受けるか。

「ある人は自分の母親や姉妹を卑猥な言葉で愚弄するように強要されたそうです。これは保守的なシリアの東部や南部では耐え難い侮辱です」とマイサー。

彼女自身もシリアにいた頃は、兄が投獄されたと誰にも言えなかった。いまはこうして話せるが、どんな時間がたってもたとえ海外に脱出しても、この話題はタブーに近い。

「現政権が倒れない限り、兄は恐らくもうシリアには戻れないでしょう。その場合は、兄の そばにいるため、私はトルコに残るつもりです」

ハッサンの場合

2014 年の 9 月にシリアを逃れたハッサン(仮名)。シャンルウルファでは、英語教師だった経歴を生かし、ジャーナリストや支援団体から通訳の仕事を請け負っていた。

2013 年、彼の故郷であるデリゾールが IS に掌握された。

それから 1 年半、ハッサンは戦時中の暮らしに堪えた。電気も水も十分に使えず、食糧や生活に必要な物資は、日に日に手に入らなくなっていった。とはいえ、学校や病院は機能していたし、海外から送金してくれる家族もいたので、何とか暮らしていけた。

だが、2014年、IS 掃討のためにクルド人民防衛隊(YPG)がやって来ると、戦況は一気に激しさを増した。降り注ぐ銃弾の雨に、鳴り止まない砲撃。

戦争が始まって 3 年、「どうする? 逃げる?」という言葉が家族のなかから初めて出た。そしてその次の瞬間には、もうバッグに荷物をまとめて、全員で故郷の街を脱出していたという。

だが、どんなに戦況が悪化しようと、その瞬間までハッサンは自分が難民になる日が来るなんて、これっぽっちも思っていなかった。その日は想像もしないかたちで、本当に突然やってきたのだ。

彼は、シャンルウルファに来てから1ヶ月、戦争のトラウマに悩まされた。ハッサン人生で最悪の時期で、そのときのことを思い出すといまでも気分が悪くなるという。

だが、通訳の仕事を始めると、徐々に日常のリズムが掴めるようになった。トルコに来てからすでに3年半、定職にも就いている。こざっぱりとした身なり、知的で理路整然とした会話、冗談好きな性格。彼には何ひとつステレオタイプな〈難民〉を連想させる要素がない。

あなたは、ここで安定を手に入れたようですね。そう言うと、ハッサンは急にニヒリスティックに答えた。

「トルコに到着したばかりのころは、3 年半経ってもここにいるとは思っていませんでした。 私の生活は傍から見ると安定しているのかもしれませんが、私自身はいまでも悪い夢のなかにいる気分です。

7年前、盛り上がる民主化運動を目の当たりにしたとき、ハッサンの胸は高鳴った。もしかしたら、これで自由が手に入るのかもしれない──でも、だからといって、故郷が瓦礫の山になり、同胞が世界中に散らばって帰れくなってもいいとは、もちろん思っていなかった。

それどころか、シリアがこんなに無残な状態なのに、現政権は依然として存続している。 あの頃、ハッサンは、シリアという国家が健在だったからこそ、自分たちには自由がない、と葛藤を抱えながら生きながらえたくはなかった。ところが、国は無くなったに等しいのに、同じ葛藤だけがいまでも消えずに心中に居残っている。ハッサンは顔を歪めながらこう言った。

「もしこれが戦争の結末なら、ありえない」

失ったのは故郷だけではない。いまハッサンの家族はシリア、トルコ、そしてドイツに離散している。仲の良かった家族は、戦争によって分断されてしまったのだ。

「最も辛いのは、建物が破壊されたことではありません。社会の破壊です。私たちがもとのシリアに戻れる可能性はゼロに近いでしょう」

シリア危機から7年たったいま, アイデンティティの問題に苦しんでいるというハッサン.

居場所と将来を奪われた

ハッサンはトルコに来てからずっと、アイデンティティの問題に悩まされている。トルコはいいところだ。親切な人がたくさんいるし、よい職にもめぐりあえた。でも、ここにいると息苦しくてたまらない。

「私がトルコにいるのは、生き延びるため、ただそれだけです。私は生きていたいんです。
しかし、トルコでは、自分が自分ではいられない。ここは私が生まれ育ったシリアではない し、誰にも本音は話せない。どんなに生活が安定していても、私は自分が自分でいられない ような場所にはいたくはありません。
戦争が始まって以来、心から安心だと思えたことはありません。多くのシリア人が、同じよ うな気持ちを抱えていると思います」

ハッサンは、最近トルコ国籍を申請したという。矛盾しているようでもあるが、トルコは二重国籍を許容しているため、シリア国籍も保持できる。それにパスポートは必要ですよ、とハッサンは笑った。確かに、難民というステイタスは不安定だ。いつ政情が変わって、トルコにいられなくなるとも限らない。そうなれば、仕事も何もかも再び失ってしまう。

シリア人の苦しみは、難民になったその一点の記憶に集約されるわけではない。

まず彼らは、自分が生まれ育った故郷をなくし、家族や友人、学校などのコミュニティを失った。さらに、戦争がなければ続いたはずの平穏な時間や、将来の夢を叶えるチャンスなど、彼らがこれから手に入れるはずだったものまで消えてしまった。

彼らは大切な居場所と約束された未来、その両方を奪われたのだ。

私は空爆で負傷して歩けなくなった、アズィーズの手の平に眠る破片を思い出していた。

多くの人にとってシリアのニュースは、そのときどきで報じられる小さな破片のようなものでしかない。だが、当事者たちには、それは脈々と続く日常だ。日々飛び散るその破片は、モザイクのように繋ぎ合わされ、7年という歳月をかたちづくった。

その破片のひとつひとつが、シリア難民それぞれの体や心の深部に残り、いまでも彼らを悩まし続けている。