ナチスと闘った褐色のボクサーの
壮絶な生涯

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ナチスと闘った褐色のボクサーの 壮絶な生涯

1930年代、ナチスに闘いを挑んだボクサーがいた。ヨハン〈ルケリ〉トロールマンは、類まれなボクシング・センスに恵まれながらも、シンティ・ロマであるがゆえにナチスに睨まれ不遇をかこった。しかし、不屈の闘志の持ち主であった彼は、ナチスに向かってファイティングポーズをとり、ステップを踏み、拳を突き出したのだ。

ベルリンの由緒正しき酒場〈ボック醸造所〉で1933年6月9日に開催された、荒くれ者たちが心待ちにしていたイヴェントは、当日を待たずしてすでに黒字が決まっていた。20世紀を迎えて以来、この酒場はコンサート、政治集会、ボクシングの試合で賑わっていた。しかし、6月9日、運命の夏の宵、賑わいはいつもと違い、来るべき騒乱の前触れだった。空位だったドイツ・ライトヘビー級王座を巡り、アドルフ・ウィット(Adolf Witt)対ヨハン〈ルケリ〉トロールマン(Johann “Rukeli” Trollmann)戦が始まろうとしていたのだ。当時権力を握り始めていた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党員たちのお気に入り、アーリア人のウィットが下馬評では優位だった。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)は、ボクシングを高貴なスポーツとして称賛していただけに、ウィットが王座を奪えばアーリア人の人種的優位を示せる、と期待していた。

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ウィットの対戦相手、トロールマンは、1907年、ハノーファーで9人兄弟の家庭に生まれた非アーリア系のシンティ系ジプシーだ。右翼系新聞は彼を〈リング上のジプシー〉と嘲笑的に表現していたが、彼の成功と人気は、人種的偏見などものともしなかった。女性ファンが卒倒してしまうほどの、浅黒い肌の美丈夫は、1929年にプロになって以来、リング上では素速い足さばきの踊るようなスタイルで、次々と勝利を重ねた。この夜の試合でも、リングを縦横無尽に動き回り、彼よりもはるかに有利だったはずのウィットのブローを左右にステップして軽々とかわしていた。下馬評に反して、この26歳のボクサーは、王者の座を掴みつつあり、それを邪魔するものは何もないかにみえた。

酒場を埋め尽くしたボクシング・ファンたちは、リング上を華麗に動き回るトロールマンに大きなな声援を送っていた。しかし第6ラウンドになると、突如、試合は中断され、審判員は試合を〈無判定〉の勝敗なし、と発表した。トロールマンは呆然とした。1928年には、彼のドイツ代表としてのオリンピック出場資格が人種的偏見により剥奪されていた。またしても不当な仕打ちが繰り返されたのだ。

会場は大混乱に陥った。観客はヤジを飛ばし、叫びながらリングに押し寄せた。イスが飛び交い、乱闘が始まった。ドイツ・ボクシング協会は、ナチスの命令に従い〔少なくとも賛成していた〕、トロールマンの人種を理由に、明らかに勝者であった彼にベルトを渡そうとしなかった。しかし、熱狂的ボクシングファンはそれを許さず激しく抗議すると、その場を抑えるために審判員は決定を覆さざるを得なくなり、やむなくトロールマンにチャンピオンベルトを渡したのだ。

中断されたこの試合についての映像資料は残っていない。しかし、当時の関連記事からは、その詳細が確認できる。煙、気の抜けたビール、汗が充満した会場。暴動の余韻が漂うなかでチャンピオンベルトが授与された。ぐったりと疲れ果てた黒髪の〈ルケリ〉はお辞儀をする。苛立ちと安心とで昂り、人目をはばからずリング上で泣いた。観衆によるルケリ・コールが鳴り止まなかったようだ。

ボクシング・ファンが純粋に望んでいたのは、最高のボクサーが勝利する姿であった。そこでルケリは勝った。しかし数日後、事態は再び急変し、結局、王座は剥奪されてしまうのだが、たとえ短い間ではあっても、6月9日の夜、ヨハン〈ルケリ〉トロールマンと彼のファンたちは、当時、絶頂にいた人種差別主義政権を、間違いなく打ち負かしたのだ。

このタイトルマッチについて語るのは困難だ。客観的に、となるとなおさら難しい。若いジプシーの男性が輝く才能を世間に見せつけ、どれだけ世間に愛されたとしても、彼を素直に受け入れた、とボクシング協会は勘違いされてはならなかった。この試合のあと、30歳にも満たないルケリの栄光は、いとも簡単に消されてしまう。

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2010年、ベルリンのヴィクトリア公園(Viktoria Park)の静かな一角に、期間限定のモニュメントが設置された。コンクリートでつくられたリングのレプリカで、コーナーポストやロープも再現されていた。しかし、ひとつのコーナーだけが地面に沈んでおり、非対称にデザインされている。「こんな歪んだリングの上で勝てるのか?」と揶揄しているようなモニュメントは、ルケリに捧げられた作品である。

試合から1週間が経つとルケリへの嫌がらせが始まった。狂信的なナチ党員であるゲオルク・ラダム(Georg Radamm)が会長を務める新設されたドイツ・ボクシング協会(German Pugilism Association)はルケリのスタイルを、ドイツ国民らしからぬボクシングスタイルだ、と断定し、ヘビーライト級王者のタイトルを剥奪した。トロールマンが栄誉を剥奪されるのはこれが2度目だ。そして2カ月も経たずに試合が組まれ、不動の人気を誇る彼は再戦を強いられた。しかも、試合のルールは大きく変更された。

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7月27日、有名ボクサーのグスタフ・イーダー(Gustav Eder)とルケリの対戦が決まった。ボクシングというスポーツへの影響力を強めたナチス新政権は、ドイツの〈正しい〉流儀に則ってトロールマンは試合しなければならない、と主張した。その流儀とは、古臭い、フットワークを使わない、時代遅れのボクシングスタイルだ。ルケリの代名詞でもある優雅さや敏捷性は、まるでジプシーダンスだ、と軽蔑されていた。しかし、ルケリの全盛期を知る誰もが、彼の超現代的なテクニックをモハメド・アリ(Muhammad Ali)のテクニックになぞらえたほどだ。しかし彼は、そのテクニックを封じられてしまった。イーダーは大男で、強力なパンチを持っていた。そんな相手と打ち合い、打撃を受けなければならないトロールマンは、非常に不利な立場だった。

しかし彼はそれに従うしかなかった。試合に負けるか、あるいは、試合のあとにライセンスを剥奪されるか、どちらかになるのは明らかだった。そしてルケリはリングに上るのだが、彼の姿に会場にいる全員が衝撃を受けた。浅黒い肌に青黒い頭髪の美丈夫が、全身白塗りの金髪で登場したのだ。頭からつま先まで、小麦粉を隙間なく塗りたくり、青みがかった黒髪を過酸化水素で脱色していたのだ。トロールマンは、アーリア人の〈理想の姿〉を小バカにしたのだ。対戦相手や観衆がどのような反応をしたかは記録されていない。その姿の衝撃は称賛につながったのかもしれないし、怒りにつながったのかもしれない。彼の勇敢な反抗は、ボクシング・キャリアの終わりを自覚したうえでの行動だったのだろう。

これが映画であれば、ルケリは自らのスタイルで闘えずとも、苦闘して栄誉ある勝利を飾り王者に返り咲く、というプロットになるはずだ。しかし、現実はうまくはいかなかった。しっかり立ち、徹底的な乱打戦に耐えたトロールマンであったが、第5ラウンド、ノックアウトされてしまった。

その後ルケリは、1935年にライセンスが無効になるまで9試合、プロボクサーとして戦ったようだ。数少ない彼の存命血縁者のひとり、甥のマヌエル・トロールマン(Manuel Trollmann)は、叔父についての研究を長年続けてきた。ルケリの兄弟でボクサーだったアルベルト(Albert)は、第二次世界大戦を経て、1990年代まで生きた。アルベルトは死ぬ前に、ナチスによるトロールマン家への脅迫はどんどんひどくなった、とマヌエルに語ったそうだ。家族に対する直接的な脅しに屈したルケリは八百長を強いられ、敗戦を重ねた。試合数も定かではない。

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ルケリというミドルネームは、友人や家族による彼の呼称で、ロマニ語の「木」を意味する「ルク(ruk)」という単語に由来する。褐色の肌のトロールマン少年は成長すると、ほっそりと長い四肢のしなやかな身体つきになった。それに加えて、生来、頑強だったので「木」がニックネームになったそうだ。彼に会った誰もが、彼を好きになった。また、大勢が、彼の職業を知ると驚いた。ルケリは多くのシンティと同じように、家族を最優先するタイプだった。彼が28歳で結婚相手に選んだのは、意外にも、シンティではないベルリン出身のオルガ・ビルダ(Olga Bilda)と呼ばれる女性だった。結婚と同年、ひとり娘のリタ(Rita)が誕生した。ナチス率いる第三帝国では、ジプシーの血が流れる子供は歓迎されない。彼は、数々の苦しい決断を迫られた。決断のひとつが、1938年に成立した離婚だ。何度も命を狙われた彼は、妻と娘の安全を確保できるのであれば、と離婚を決意したようだ。そのあと、オルガとリタがどうなったかについての情報はほとんどない。ただ、リタが父親の素性を知ったのは10代の頃だったが、彼女はそれについて決して語らなかったそうだ。

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1935年はトロールマン家にとって激動の1年だった。まず、ルケリのライセンスが剥奪された。プロボクサーとしてのキャリアは終わり、糊口をしのぐために、定期市などで開催される試合に出場するだけになった。一家は仕事を求め、地元当局との衝突を避けるためにさまざまな土地を転々とした。

そんななか、皮肉にも、かつてのルケリ人気が再燃してしまった。彼の素性がバレてしまったのだ。理由は定かでないが1935年夏、彼は逮捕され、強制収容所に送られた。解放されたものの、それ以降、彼は数度捕まった。彼の親戚の多くも同じような目に遭うか、強制収容所に送られるか、もしくは不妊手術を強制された。1936年初頭までにルケリはパイプをカットされ、数多くのシンティ・ロマ同様、子孫が残せない身体になった。彼はまだ29歳で、まだまだ家族を増やせる年頃だった。ナチス・ドイツは彼のライトヘビー級のタイトル、プロボクサーとしてのキャリアを奪い、彼の未来をも奪ったのだ。

激動の10年の最後に、ルケリはボクサーではなく、兵士になった。1939年、徴兵によりドイツ国防軍に参加し、ナチス占領下のフランス、東部戦線を転戦した。彼は、タイトルを獲るには〈充分なドイツ人〉ではなかったが、国のために戦うには〈充分なドイツ人〉だったようだ。

しかし、1942年、彼は戦闘で負傷し、除隊させられた。ここでも再び人種的な差別がつきまとう。いくら勇敢に闘ったとしても、シンティ人やロマ人は、不名誉なかたちで軍を除隊させられていたのだ。

ルケリの人生には知られざる側面が多い。ルケリは妻と娘に再会できたのか。除隊後、草臥れた敗者として家族の元に戻ったのか。それとも、それまでと同様に激しいパワーで反抗的な生活を送ったのだろうか。現在、われわれにわかっているのは、混沌とした戦況のなか、一般人に戻ったルケリは再び収容所に送り込まれた、という事実だけだ。虐待を受け、ルケリの体重は、3カ月で約27kgも落ちてしまった。最終的にノイエンガンメ強制収容所に移り、そこで囚人番号9841と、茶色い逆三角形型のバッジを与えられた。そのバッジは、ナチスの収容所では〈ロマ〉を意味していた。残忍きわまりない収容所のサテライト・キャンプでやせ衰え、希望を失った35歳のルケリは、最後の試合をした。

1943年、ある冬の日、ハンブルク近郊ヴィッテンベルゲのサテライト・キャンプで、ヨハン〈ルケリ〉トロールマンの名前が世間を賑わせた。しかし、有名人に戻った興奮など皆無で、彼は怖れ慄くしかなかった。名が広まれば、10年前にベルリンで名を馳せたボクサーであるのがバレてしまう。しかし、当時の彼は、毎日16時間にもおよぶ強制労働のため、栄養不足で飢え、疲れ切り、往時の活躍は見る影もなかった。そんな彼に、皆から恐れられていた元囚人のカポ(Kapo)、エミール・コーネリアス(Emil Cornelius)が試合を挑んだ。〈カポ〉とはナチスの身分制度で、囚人を監視する囚人で、選ばれし生え抜きの乱暴者であり、収容所の看守よりも残虐だった。彼の挑戦を受ける以外の選択肢は、ルケリにはなかった。

結果、何が起こったかについては、あまり知られていない。しかし、目撃者の証言によると、ふたりは実際に戦ったようだ。栄養不足で身体が衰弱しているにもかかわらず、がむしゃらに戦ったルケリが勝利した。しかし翌日、おそらく、自らの敗北を認められなかったであろうコーネリアスは、労働中のルケリの背後に忍び寄り、彼が絶命するまでショベルで殴り続けたそうだ。

ヨハン〈ルケリ〉トロールマン遺体は、なぜだか数多の弾丸が打ち込まれた後、同収容所で命を奪われた犠牲者の遺体と共に集団墓地に投げこまれた。いくら才能に恵まれたトロールマンだろうと、遺体になってしまえば、ナチスに命を奪われたシンティ人、ロマ人の犠牲者50万のうちのひとりでしかなかった。逞しく引き締まった、浅黒い肌の俊敏な若いボクサーは、蛮行が掘った集団墓地の中で朽ち果てたのだ。

ルケリは、自らの尊厳、人種の尊厳のために懸命に闘った。アーリア人の優位性などありえない、という事実を、肉体面でも社会面でも、ルケリは証明してみせた。リングで負けても、自らの闘いには勝利したのだ。身体に小麦粉を塗りたくり、ナチスの愚行を嘲笑してみせた。悲劇的な選択を強いられ、自尊心を失い、名前をも変えた。しかし、全ては家族を守るためだった。彼がみせた生きるためのしたたかな意志は、ボクシング・ヒーローとしての勇敢さと同じく、際立っている。

ルケリは全てを失った。しかし、2003年、ドイツ・ボクシング協会は、王座を彼に返還した。70年を経て、ヨハン・トロールマンは、1933年のライトヘビー級チャンピオンとして正式に認められたのだ。〈リングのジプシー〉は、ついにチャンピオンになったのだ。