Who Are You?: 向井隆昭さん(35歳) 団体職員

「SPLAYっていいます。2009年までやっていました。まったく問題ありません。全然売れてなかったので」

by VICE Japan; photos by SUSIE
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10 juli 2015, 2:57pm

近所を歩いていたら、どっかで見たことのある女性が会釈を。えーっと、うーんと、あー!保育園の◯◯先生!いつもはジャージにかっぽう着ですからね。まったく気が付きませんでした。あー、あれが先生の私服姿なのかぁ~、ほんのりと先生の私生活も感じてワクワクドキドキ。ラーメン屋のオヤジとコンビニのお姉ちゃんと歯医者さんの私服も見てみたいなぁ。覗いてみたいなぁ。みなさんの秘めごと。

日々の生活の中で、私たちはたくさんの人たちとすれ違います。でもそんなすれ違った人たちの人生や生活を知る術なんて到底ありません。でも私も、あなたも、すれ違った人たちも、毎日を毎日過ごしています。これまでの毎日、そしてこれからの毎日。なにがあったのかな。なにが起るのかな。なにをしようとしているのかな。…気になりません?そんなすれ違った人たちにお話を聞いて参ります。

向井隆昭(むかい たかあき)さん(35歳):団体職員

本日は大阪からお越しいただきまして、ありがとうございます。出張ですか?

はい。東京にも事業所がありますので。

お住まいは大阪のどちらですか?

吹田市です。ジャルジャルの後藤さんのお父さんがこのたび市長になったところです。

ああ!そういえばニュースになってましたね!…さて実は今回私、反則を犯しました。向井さんの検索しちゃいました。というのも元バンドマン、それもメジャー・デビューしていたと。知ってるバンドかなぁ~と思ったのですが、すいません、知りませんでした。

いえいえ、まったく問題ありません(笑)。全然売れてなかったので。

バンド名を教えてください。

SPLAY(スプレイ)っていいます。2009年までやっていました。

所属はポニーキャニオンでしたっけ?

はい。

色々と気になるお話がありそうなのですが、まずは…お生まれも大阪ですか?

生まれは京都で、小学校のときに大阪の高槻に移りました。

小さい頃から音楽は好きだったのですか?

そうですね。親がビートルズとかカーペンターズとかが好きだったので。

それであんなメロディーが。

いえいえ、関係ないです(笑)。

では小学校から既に音楽にどっぷりだったのですか?

いえ、まったく。小学生のときは野球をやったり、中学になったらJリーグが始まったのでサッカーをやったり。そのまま普通に高校生になりました。

では音楽はまったく。

そうですね。普通に流行っているものを聞くくらいで。当時母親が米米CLUBにハマっていたので連れてってもらって。それが初めてのライヴ体験でした。

初めて買ったレコードは覚えていますか?

はい。氷室京介の「キスミー」でした。でもなぜ買ったか僕もあんまり覚えてないんですけど(笑)。

ヒムロック・ファンではなかったのですか?もしくはBOØWYファンだったとか。

いえ、本当にそうじゃないんです。BOØWYとかは怖い先輩が聴く音楽でしたし。不良の音楽だと思っていました。

(笑)。では高校でも最初は運動とか?

いえ、部活にも入らず、すぐにアルバイトを始めました。回転寿司屋で毎日何百枚もお皿を洗っていました。

握ったりは?

握りもしました。「いらっしゃい!」って声張り上げながら握ってました。

おおー。すぐ握れるようになったのですか?

そうですね。もちろん練習はしましたが、人手不足でしたので、割と早く握るようになりました。

軍艦とかも巻けるんですか?

はい。

おおー。あのーまだバンドの話じゃなくてすいませんが、ずっと回り過ぎて廃棄する皿ってあるじゃないですか?あれってずっとチェックしてるんですか?「あいつ何周目だな」とかって?

はい、頭の中に入れていました。当時は自動で廃棄する機械も無かったので、乾燥してカピカピになる前にどんどん下げるんです。

すごいっすね!握りながらそっちも気にしていたと。

ええ(笑)。あとすごくこだわっていた店で…例えばサーモンだけとか同じ種類をガーッと並べるのではなく「レーンをキレイに彩ろう」って、いろんなところに乗っけていました。

ステキ!!カラフル!!

でもお客さん的には同じものが並んでいた方がいいみたいです。特に家族連れだといっぺんに取れるので。

なるほどねー。お寿司の話、ありがとうございました。で、高校に入ってからバンドを始めたのですか?

はい。でもすぐではないんです。高一のときに隣のクラスに、僕のバンドのドラムがいたんです。で、彼がバンドをやっていたんですね。ただなんとなく仲良くなっていく中で「バンドやっているからライヴ来なよ。Mr.Childrenとかユニコーンのコピーするから…」って。それで観に行ったんです。

ライヴハウスにですか?

はい。摂津富田ってショボい駅にラズベリーっていうライヴハウスがありまして。

わー、ラズベリー!!!!いいお名前!

そこですごく衝撃を受けました。

それはなんで?

まず音がデカかったこと、そして米米CLUBしか観たことがなかったので、同い年の友達がこんなことしているなんてスゲエなあ~って本当にビックリしたんです。カルチャーショックを受けました。

それで「僕も入れて!」って頼んだのですか?

いいえ。自分が出来るなんて思ってなかったので、練習を観に行ったり、ライヴに行ったりするだけだったんです。帰りにダベったりするくらいで、誰も僕がメンバーになるなんて思っていませんでした。

それがどうして?

ある日ヴォーカルが練習に来なかったんです。そのときはイエローモンキーのコピーをしていたんですけど、「ヴォーカル来ないし、お前ヒマそうだから歌えよ」って言われまして。いつも練習は観に行ってたからイエモンも覚えてたんですね。それで歌ったら「おお!おまえ歌えんの!!」「え?俺、歌えてるの?」って。

(笑)。

「イイ!イイ!おまえイイぞー!!」ってなりまして、そのままやることになったんです。

じゃ、練習休んだ子はどうなったのですか?

まぁ、そのー、言いにくいですけど、クビですよね(笑)。でも僕に触れないように、他のメンバーがなんとかしてくれていました。

おおーバンド愛ですね。オリジナル曲を始めたのはいつころですか?

高校三年の終わりです。卒業パーティーライヴをラズベリーでやろうと。

やった、ラズベリー!

はい。ラズベリーを借り切って、周りのバンドも集めてやろうと。それで最後だからってオリジナルを8曲作ったんです。

でもそれまでコピーをやっていて、初めてオリジナルをスタートさせるときってどんな感じなのですか?曲作りの役割分担とか。

ドラムがリーダーでして、ドラムなんだけどギターで曲を作って持って来てくれるんです。で、元々僕が「オリジナルしたい」って言い出したので僕も作りまして。ギターとベースはそれを支える感じでした。

でも向井さんとドラムさんの曲の方向性が、あまりにも違ったなんてことはありませんでしたか?

それは無かったです。なぜならミスチルとかイエモンとか、それくらいしかやったことが無かったし、新たなエッセンスとしてもオアシスくらいで。知っている範囲も狭いし、引き出しも少なかったので、なんとなく同じような感じになったんです。

そのときはもうSPLAYって名前は付けていたのですか?

はい。でもそのころはTHPLAYという綴りでした。

ラズベリーでオリジナルを演奏して、その評判はいかがでしたか?

良かったです。「おお!聞いたことない曲やってんな!オマエら作ったんか!」って。本当に田舎でしたので。

で、ラズベリーでの卒業式を経てみんなバラバラになったのですか?

いいえ、全員で同じ音楽系の専門学校に行きました。

…ってことは、バンドを本格的に続けようと?

はい。勘違いのスタートです。

(笑)。

高い入学金払って、みんなそれぞれのコースに入りました。ベースはベース・コース、僕はヴォーカル・コース……

へえ~。バンド全員で入学するパターンって初めて聞きました。プロになろうって決めたのはいつ頃ですか?

オリジナルを作り始める前だと思います。「これで行こう!スーツなんて着てやるもんか!」って。…今はバッチリ着ていますが。

(笑)。親御さんは反対されたのではないですか?

はい。「なんてことするんだ!」って。親父は昔バンドをやっていたので、黙認してくれましたけど、母は心配で心配で…ずっと反対していました。

専門学校はプロになるにあたって役に立ちましたか?

いえ、これがまったくならなかったです(笑)。ギターとかドラムとかは役に立ったみたいですが、ヴォーカル・コースは……辛くて辛くて。カラオケ歌いながら「大空ぁぁ~」って歌詞があったら、両手を広げて歌え…とか。オアシスのリアムみたいに両手を後ろに組んで歌うなんてあり得ないと。「瞳はぁぁ~」のフリを考えろ…とか。完全にミスりました。

(笑)。じゃ専門学校行きながらライヴ活動をしていたんですね。そして動員も増えていったと…

いえ、これもまったく(笑)。お客さんが集まらないバンド同士で、ノルマをさばいていくだけで。ダラダラと「いつかは…」って思いながらやってました。

その「いつか」はどのようにして訪れたのですか?

ある日たまたまライヴを観に来ていた芸能事務所の人から声がかかったんです。「キミたちイイねぇ」って。標準語を喋る東京のお姉さんでした。

(笑)!

更に名刺の裏には知っている芸能人の名前がズラリとありまして。「意味分かんないけど、すごいことになった!」って、それでその事務所に所属することになったんです。

絵に描いたようなシンデレラ・ストーリーですね!

はい。給料も貰って、スタジオ代も負担してくれて。

すごいですねー。それでメジャー・デビュー?

いえ、それが二年くらい経ってもなかなかCDが出せなかったので、「じゃ、自分たちで作ります。辞めます」って言ったら、すごく怒られまして。揉めたんです。

フムフム。

借金です。これまでの給料を返せって。

エーッ!!!!そんなことってあるんですか?事務所としては回収出来ていないから?

だと思います。一人二百万とか。

エーッ!!!!マジっすか!!二百万×メンバー4人分!?何歳ころですか?

二十歳になったころです。

そんなに若いのに…。

なんでも僕らのために新しいプロジェクトを立ち上げようとしていたところだったんです。新しい会社も作る予定で。そんなときに「痺れを切らしたから辞める」なんて言ってしまったので大変なことになったんです。

大丈夫でしたか?

ホントに地獄でした。毎晩追い込みの電話がかかって来て。

追い込みって!!

今までと全然接し方が違って。それまで麻布の高級キャバクラとかしゃぶしゃぶとか連れて行ってくれてたんですけどね(笑)。本当に怖かったです。最終的に親に相談して、メンバー全員それぞれ工面しました。

親御さんはなんて?もうバンドは終わり?

はい。「十分やって、自分たちで判断間違って、人様に迷惑かけたんだから…」って。メンバーともこれで終わりだねって話し合いました。ただ大阪で、いくつかのライヴハウスとかスタジオを経営している社長さんがいて、ずっと僕たちを応援してくれていたんです。その方が「結局CD一枚も出していないし、解散するならその前に出したら」って。「すべて仕切る。お金も出す」って言ってくださったんです。でも僕はまだ不貞腐れていて、「音楽なんて不幸の源」なんて思っていたし、やる気も無くてレコーディングも平気で遅刻していました。早く逃げたかったんですね。でもその社長さんが「やるぞ!早く来い!!」ってずっと言ってくれて。それでそのライヴハウス系列のインディー・レーベルからアルバムを出したんです。

へぇ~!で、それが売れてメジャー・デビューと?

いえ、売れなかったです(笑)。で、CDも出したし、コレでバンドは終わりだなぁ~って思っていたんですけど、少しはCDの売り上げに貢献して社長さんに返さないといけないからでライヴもやっていたんです。そしたらまた「キミたちイイねぇ」って。

来たー!!

「また来た。また金取られんゾ」って思っていたのですが、社長さんが話を付けてくれたんです。声かけてくれたのが東京の事務所だったのですが、レコード会社も一緒に提案するんだったら話を聞くって言ったらしく。そしたら本当にポニーキャニオンを付けて来て。

おお!社長さんマジでやりますね!!ちなみに事務所の名前を聞いてもいいですか?

はい。シンコーミュージックです。

おお!大手じゃないですか!それもあってバンドの存続を決めたのですか?

そういうわけではなかったのですが、メンバーで話し合って「ここまで来たし、せっかく声かかったのならやろうか。親にもちゃんと話して」って。元々メジャー・デビューが夢でしたし、これからそこで食っていくとかそんなつもりではなくて、最後にもう一度やってみよう。経験しよう。…って感じで決めたんです。それに東京に住めるのも魅力でした(笑)。

それで東京に移ってレコーディング・スタートですか?

はい。ただインディーで出して終わるつもりだったんで、曲のストックが無かったんですね。曲を作るサイクルもおかしくなっていたし。そして、締め切り!締め切り!と厳しい日々が始まりました(笑)。

あちゃー。

曲が出来ないと色んな音源が送られて来るんです。「これ聞け!」「参考にしろ!」って。

うわー。

もう迷路です。良かれと思って事務所の社長、レコード会社、マネージャーさんが送って来てくれるんですけど、逆に迷っちゃって。

どんなのが送られて来ましたか?

オフコース、175R(イナゴライダー)、MONGOL 800……

きゃー、それは大変(笑)!!

プロデューサーさんが矢井田瞳とかやってた方で。でも僕ら矢井田瞳とか嫌いで…

あはははは!!

もちろん、みなさんからの愛は感じるんですけど、歌詞も曲もダメ出しされて。「インディーズの曲の録り直しとかダメですか?」って聞いたら「ダメだ!」って。そりゃそうですよね(笑)。僕のギターも間に合わなくて、メンバーに弾いてもらったりしていました。

東京に来てからリリースされるまでにどれくらいの期間があったのですか?

半年です。

うわ!短か!!それで半年後に出たんですか?

出たんです。もうすごく無理やりに作って。今聞いてもファースト・アルバムは、どの曲も着陸していないのでメチャクチャだと思います。プロデューサーさんがなんとか形にしてくれたんですが、当時は感謝すら無く、逆に「勝手なことしやがって」って思っていました。これでデビューなのかと。こんな感じで決まっちゃうのかと。正直辛かったです。

リリース後もプロモーションとかありますよね?インタビューもたくさん?

そうですね、たくさんやりました。インタビュー自体はお喋り出来るので楽しかったのですが、余計なこと言ってよく怒られました。

余計なこと?

はい。僕たちバカなんで「どの曲が推しですか?」「ありません」とか「あまり気持ちが入っていない作品です」とか「自信無いです」とか。ポニーキャニオンの宣伝の方から「こっちはインタビュー取って来たんだぞ!舐めんな!」って。本当に僕ら甘過ぎたんです。ぬるかったんです。

それでCDは売れたのですか?

いや売れなかったです、ホントに。ライヴもお客さん増えませんでしたし。

それについて今後のことをメンバー内で話し合ったりとかは?

それは無かったです。東京に来てからメジャー・デビュー・シングルを出して、そのあとにセカンド・シングル、ファースト・アルバム、そしてアルバムのあとはそれを売るツアー…という風にスケジュールが決まっていて、先のことを考えるより、ファースト・アルバムを売らなきゃ…みたいな感じだったんです。やっちゃいけないんですけど、ツアー先のタワーレコードでお店の人に覚えてもらえるように自分たちのCDを買ったりもしていました。とにかく先のことよりも現状をなんとかすることだけに必死でした。

では、今後に目が向いたのはいつころですか?

ファーストのツアーが終わってからです。僕だけレコード会社に呼ばれて「ファースト作るのにこんだけ金かかったよ。で、結果がコレ」って数字を見せられて。

シビアですね。でも「プロモーションのやり方が悪い」とか「好きなようにやらせてくれたら…」とか思いませんでしたか?

思いました。アイドルみたいな写真を撮らされたりもしましたし、ヴィジュアル系みたいにされたこともあったし。僕らの思っている方向とは明らかに違いましたから。それにちっちゃなライヴハウスを転々としている活動の中で、こんだけお金がかかったと言われても僕たちは何も分からなかったんです。でもとにかくすいません、申し訳ありません…って謝りました。で、契約が二枚だったので、「次はホームラン打たないとやばいぞ。もう一枚出せるんだから気合入れろ!まだチャンスはあるんだから!」と。それでセカンド・アルバムに向けて動き出したんです。

具体的にはどのように?

まずプロデューサーさんを変えてもらいました。元詩人の血の渡辺善太郎さんと元BL.WALTZの松岡モトキさんにお願いして、何曲かは自分たちでもやりました。そしてもっと自分たちの音というか、歌を聴かせる作品にしようってメンバーで話し合いました。弾き語りでも成立するような曲を書いて、そこに歌詞の雰囲気を盛り立てるようなアレンジをしようとか、かなりディスカッションもしました。だからすごく気合が入って臨んだんです。

なるほど。実は個人的なアレなのですが、私は詩人の血が大好きだったんです。それでこのセカンドも聞かせてもらったのですが、詩人の血と同じような雰囲気を感じていたので、とてもビックリしています。本当に良いアルバムですね。ご自身でもそれは感じていましたか?

ありがとうございます。はい、内容に関しては大満足でした。プロデューサーさんとの意思の疎通もしっかり取れていたし、スケジュール管理も自分たちでやって、本当に自由な雰囲気でレコーディング出来たんです。ホームランの打ち方は分からなかったけど、丸裸でやれて本当に良かったです。また、事務所のみんなもかなりバックアップしてくれたんですね。すべてが噛み合った雰囲気になったんです。

そしてまたお聞きしますが、結果は?

ファーストよりはイイ感じなりまして、小さなライヴハウスでしたら埋まるようになりました。

でも自信作も出来て、やっとイイ感じになって来たのに解散しちゃうんですよね。それはなんで?

やはりポニーキャニオンから契約を切られまして、事務所はもっと頑張ろう、一緒にやろう…って言ってくれたんですけど、だけどもうみんな「これで終わった」って思っていたんです。セカンド・アルバムですべてやり切った、こんだけやって無理なら無理だよねって。それに年齢も27、8になっていたので、夢も叶えたし、終わりにしようと決めたんです。売れないってこういうことなんだなぁ~ってヒシヒシと(笑)。

本当にお疲れさまでした。それでその後はどうされていたんですか?

僕はアニメの曲を作ったり、声優さんの作品のプロデュースをしたり…

ご自身で歌ったりは?

しなかったです。

もったいない。それはまたなんで?歌いたい気持ちは?

それが無くなりました。弾き語りで呼ばれてやってもいたんですが、バンドじゃないとこんなに面白くないんだって思って。

新しいバンドを組もうとは?

それも思いませんでした。新しい人たちと一からやるのもイメージが沸かなかったですし、今更ですけど歌うって恥ずかしいじゃないですか。さらに作った曲を新しいメンバーに聞かせるのも恥ずかしいし。勇気が無くなりました(笑)。

では裏方で曲を書いていたんですか?

そうですね、AKBとかV6の新曲コンペとかに応募もしたり。

おお!そう来ましたか!!

でもコンぺって歌う人のイメージで曲を作らなくてはいけないんですね。すごく頭を使う作業だったんです。それでどんどん技巧的に曲を作り始めまして、ちょっと転調してみたり、変拍子入れてみたり…こりゃファンはビックリするゾ!とか、こんなん聞いたことないだろ~!!なんて思いながら。

(笑)。

歌詞もちょっと古い言い回しを使ってみたり。でも見事に一曲も採用されず。

フフフ…あ、すいません!笑ってしまいました…。

いえいえ(笑)。もちろん厳しい世界でした。それで「言葉をもっと知らないとこれは勝てないぞ」って思ったんです。で、広辞苑から類語辞典、ことわざ辞典、漢字辞典などを片っぱしから読んで、面白い言葉をマーク、マークってチェックしていたんです。これでボキャブラリーを増やせば、もっといいたいことが書けるんじゃないかって。

それでそれで?

その中でことわざが一番しっくり来たんですね。こんなに短いのに色々言えるんだなって。それが面白かったんです。それでことわざ使った歌詞をいっぱい作ったんですけど、これまたひとつも引っかからなくて。

はい。

ただそこからことわざが好きになっちゃったんです。ことわざで何か出来ないかなぁ…って思い始めて。ちょうどコンペの仕事もうまくいってなかったし、でもサラリーマンもしたことないし…。それで「よし!ことわざやろう!よし!音楽辞める!」って決めたんです。

おお!衝撃的な展開!!でもことわざで商売…ってイメージが沸かないのですけど。

WEB上で、みんなが投稿出来るようなことわざ辞典みたいなのを作ろうと思ったんです。間違った使い方も、新しい使い方もOK、当時SNSもまだマイナーだったので、みんなで共有したら面白いんじゃないかなって漠然と考えたんですね。

大喜利みたいな?

そうです、そうです。それで大阪に戻って色んな企業に相談したんです。 「絶対にこのアイデア、パクらないで下さいね!」なんて言いながら。

ハハハ!!

「こういうインターフェイスで…こうやってログインして…思い思いの新しいことわざも作り…それを「面白い!」って投票し…毎月ことわざチャンピオンも決めて…更にこれが書籍になったらどうでしょうか!!」なんて感じで。

営業しましたねぇ!!それでWEBがオープン?

いえ、しませんでした。

あちゃー、なんでですか?

予想以上に無茶苦茶お金がかかると。700万から3000万とか言われまして。あ、ダメだ…と思っていたときに、相談していたある企業の社長さんが手を挙げてくださったんです。でもそんなにお金はかけられないからもうちょっとアレンジしなさいと。それでたどり着いたのがことわざ検定なんです。

ことわざ検定??

はい。財団法人ことわざ能力検定協会と言いまして、略して「こと検」です。

どういったものなのですか?

ことわざと慣用句と四字熟語を老若男女、誰でも学べるものなんです。

どうやって勉強するのですか?

まず受ける級を決めて、それに合わせた本が出てるんです…その本はシンコーミュージックから出ているんですけど。

ああ!繋がってる!

はい(笑)。そのガイドブックを読んでドリルとかして、検定試験を受けるんです。

向井さんが問題を作るのですか?

はい、初めのころは作っていました。今は理事の方が作っています。

でも始めたはいいけど、広めていくのは大変ではありませんでしたか?

はい。最初はもうどうしたらいいのか分からなくて。とりあえずチラシを作って本屋さんに置いてもらったりしていたんですけど、なかなか埒が明かなくて。それで辿り着いたのが各地の教育委員会です。後援依頼の申請をしたら了承されまして、了承が貰えたら今度は各学校に営業活動出来るんです。それで色々な小学校などにアプローチして、少しずつ検定受検者が増えていったんです。

その試験はどこで行われるのですか?

最初は東京と大阪だけでしたが、現在は全国各地でやっています。

最初は何人くらい集まったのですか?

300人くらいです。

現在は?

2000人くらいになりました。

わーすごいですね!

まだまだ収支的には厳しいのですが、小学校の授業になったり、塾とかでも扱って頂いているんです。

ユーキャンとかあるじゃないですか?ああいうのには入れないのですか?

あれは職業的に強い国家資格とかじゃないとちょっと難しいんです。こと検は大学の入試評価は取っているのですが、じゃあそれが就職に有利かというと、まだまだそこまでじゃないんです。

では向井さんの日々のお仕事としては、営業みたいなことを?

はい、そうです。学校、教育委員会、塾、あと地方の新聞社さんとかに取り上げてもらえるように宣伝活動を…ああ、そういえばこの前やったんですけど、「急がば回れ」って、どこが発祥かご存知ですか?

まったく分かりません。

ありがとうございます。滋賀県が発祥でして…

…ハ、もしかして!

そうです、琵琶湖です。東海道で京都に向かうときに、湖岸を迂回するルートと琵琶湖を船で直線で渡るルートがあるんです。もちろん距離的には船で渡った方が早いのですが、比叡山からの比叡おろしで船は真っ直ぐ進めないんですね。そこから「急がば回れ」が生まれたんです。

ほほう~考えたこともなかったっす!

で、それを実際にやってみたんです。地元の仲間たちやスタッフと。

わ、探偵ナイトスクープみたい!結果は?

歩きチームが早かったです。

すげー!

で、この実験成果がWEBで記事になりまして、それを京都新聞やNHKが取り上げてくれたんです。こういう実証シリーズも続けて、少しでもこと検が広がってくれたらと思っています。ちなみに次の実験は「塵も積もれば山となる」をやろうかなって思っています。

大変そうですね(笑)。では向井さんが一番好きなことわざはなんですか?

「瑠璃も玻璃も照らせば光る」です。

初めて聞きました。どんな意味なんですか?

瑠璃と玻璃…どちらも鉱石なんですが、暗いところでは暗いけれど、光を当てれば美しく輝く…適材適所みたいな意味もあるんです。僕は最初ちょっと違う捉え方をしていまして、僕が瑠璃とか玻璃になれたら…ちょっとでも光が当たれば輝けるんだって、まったく違った解釈をしていたんです。歌詞を書いていた頃ですね。でもそれがものすごく残っています。

最後に向井さんの夢を教えてください。

夢というか…やはりこと検になってしまうんですけど、検定試験をイベントみたいにしたいと思っています。なんでもいいんですけど、集まることが楽しい場所にしたいんです。おじいちゃんとおばあちゃんとお孫さん…家族全員が一緒に来て一緒の試験を受ける。そして終わったらそこで遊べるような。とりあえず着ぐるみを作りました(笑)。

いいですねー!お名前は?

こと犬(ことけん)くんと言います!試験会場にいますので、ぜひお声がけください!

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