Who Are You?:守野喜晶さん(40歳) 庭師

「バンドだけじゃ食えないから、昼間に働いて、夜が空く仕事を考えたら、植木屋じゃないかと」

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jun 24 2018, 7:48am

ギュウギュウの朝の電車。またまた隣のかたのスマホが目に入ってきました。神父ゲイブリエル登場のシーン。〈ウォーキング・デッド:シーズン5〉ですね。これから、あんなこと、こんなこと起こるんですよ。もうシッチャカメッチャカなんですよ。シーズン9の撮影も始まっているようですから、途中で脱落しませんように。リックとダリルの交代劇ってホントでしょうか。

日々の生活の中で、私たちはたくさんの人たちとすれ違います。でもそんなすれ違った人たちの人生や生活を知る術なんて到底ありません。でも私も、あなたも、すれ違った人たちも、毎日を毎日過ごしています。これまでの毎日、そしてこれからの毎日。なにがあったのかな。なにが起るのかな。なにをしようとしているのかな。…気になりません?そんなすれ違った人たちにお話を聞いて参ります。

守野喜晶(もりの よしあき)さん 40歳:庭師

守野さんは、庭師さんなんですね!

はい。造園業なのですが、いわゆる植木屋です。

かっこいい! ご自身でやられているんですか?

そうです。自営というか、フリーランスの植木屋です。

イメージとしては、サザエさんちみたいなお宅でチョキチョキするような。

もちろん、そのような個人のお客様もいらっしゃいますけど、そういった方々は長く土地を持っていらして、ずっと同じ植木屋に依頼されている場合が多いので、あらたに参入するのは本当に難しいんです。ですから私の場合、ハウスメーカーさんからのお仕事も多いですね。

タマホームとか?

うちは、住友林業さんからが多いです。

住友林業でお家を建てられた方のお庭を担当されると?

はい。

今日もお仕事だったのですか?

ええ。大事な木の移植をやりました。

木の移植? どんな感じなのですか?

お客様に思い入れがあるようで、槇の木(イヌマキ)を動かしました。

どちらからどちらに?

旧宅の庭から、ぐるっと回った新宅に動かしました。でもいろいろトラブルがありまして。

トラブルですか?

はい。配管が通っていたので入らなかったんです。ですから、また水道屋さんを呼びました。依頼を受けて現場に行って、「いざ!」となっても「出来ないじゃん」とか結構あるんですよ。「話が違う」とか(笑)。

そうなっちゃった場合、すべての工程がズレちゃいますよね?

そうですね。でも今日はなんとか大丈夫でした。

槇の木でしたっけ? めちゃくちゃデカいんですか?

いえ、2トンのクレーンで釣れるくらい。男が3人いれば持ち上がりますよ。300キロくらいですから、そうでもないですね。

そうでもなくないですよ(笑)。

若いときは、1トンを6人とかで引きずったりしていましたよ。

ワールドストロンゲストマンに出られるんじゃないですか! ちなみに地面はショベルとかで掘るんですか?

はい。掘り上げたあと、根っこを丸くします。これって日本だけの文化なんですよ。

麻で包んでいるようなヤツですか?

そうです。〈根巻き〉っていうんですけど、海外から勉強しに来た人たちも、この方法にはびっくりしています。

その根巻きには、どんな効果があるんでしょう?

木を植えるときに、たくさん水をあげて活着させる〈水決め〉っていうのがありまして、『雨降って地固まる…』じゃないですけど、水でドロドロにしたあとに水が抜けると、空気も抜けて、しっかりと根が張る段階が作れるんです。その段階に根っこが巻いてあると、その後の作業もやりやすくなりますし、安定しやすくなるんです。

〈剪定〉っていうのもありますよね? あれはチョキチョキと整えるヤツですか?

はい。我々がやっている剪定は、街路樹でやるようなものではなく、植えた木を10年、20年と、大きさが変わらないように維持するものです。1年に1、2回呼んでいただくので、お金はかかるんですけど。

なるほどー。ちなみに植木屋さんになるには、資格が必要なんですか?

特別に必要ありません。一応、国家資格で、造園技能士とか、造園施工管理技士施工管理というのがあるんですけど、持ってなくても特に困りません。僕はふたつとも持っていませんよ。

じゃあ「植木屋さんになりたい!」と思ったら?

明日から3年ないし、5年もやればなれるでしょう。ミュージシャンやバンドと一緒ですよ。明日から「私は歌手です」っていえば歌手なので。

お! うまいこといますね!! 守野さんは、どうして植木屋さんになろうと決めたのですか?

僕もバンドをやっていたんです。バンドだけじゃ食えないから、昼間に働いて、夜が空く仕事を考えたら、植木屋じゃないかと。バンドがダメになったときにもちょうどいいんじゃないかと考えていました。でも入った会社が、公共事業とかもやっていたので、想いとは真逆で本当に忙しかったんですけど(笑)。

それがおいくつのときですか?

19歳ですね。給料は良かったんですけど、本当に残業ばかりで。公園の工事が3本入っていたら、それ3人で回すような感じで、通常でも朝8時から夜10時頃まで仕事をしていました。

バンドの時間もなくなっちゃいますよね?

なんとか火曜と金曜にバンド練習をしながら、1、2年くらいは、このスタイルでやっていたんですけど、やっぱりちゃんとバンドをやりたくなったんです。ちょうどその頃は、個人の職人さんたちとも知り合いになっていまして、「うちらが仕事を教えていくから、一緒に回していけばいいんじゃないか?」って、お言葉をいただいたんです。それで会社を辞めて独立し、職人をやりながらバンドもやれるようになったんです。

では、そのバンド生活も辞めて、現在の植木屋さんでやっていこうと決めたのは、いつ頃ですか?

それもあやふやなんですね(笑)。28歳くらいのときに、ずっと続けていたバンドは辞めたんですけど、そのまま今に至っている感じなんですよね。

じゃあ、今もバンドマンという気持ちがあると?

いえ、そうでもありません(笑)。僕自身、ライブ演奏とかに興味がなくなってしまったのもありますし、30歳のときに子供ができましたので。まぁ、でも区切りのないまま、現在になっております。

守野さんは、どんなバンドをやられていたんですか? 担当は?

ドラムです。本格的に始めたのは高2のときなんですけど、2個上の先輩に誘われてFEVERSっていうバンドに加入しました。ライブは、三軒茶屋のHEAVEN’S DOORが多かったですね。

ああ、私も年越しライブとか行っていました。サーファーズ・オブ・ロマンチカが出ていた気がする。

初めてライブをやった対バンが、BEYONDS にいた岡崎善郎くんのPEALOUTと中村修一くんのTABLEでした。

おおー。

あと今でも自慢なんですけど、最後の時期のNUKEY PIKESと結構対バンしていたんですよ。

おおー。今日は、バンバン出てきそうですね!

その後、19歳くらいのときにFEVERSを辞めたんですけど、当時AIR JAMが出てきたくらいだったので、当時慕っていたGRUBBYの村松ってお兄さんが、いろんな人を紹介してくれたんです。WRENCHだったり、ハイスタの難波くんだったり。

出ますねぇ!!

その後は、COCOBATやMEAT EATERSってバンドを手伝ったり、レイヴ系のバンドに参加したりしていたのですが、19歳のときに、BEAUTIFUL ONEっていうバンドを始めました。まぁ、それは鳴かず飛ばずでしたが。

当時は、どんなバンドと対バンしていましたか? もっとください!!

SLIGHT SLAPPERSとかECHOとかでしょうか。

スラスラ! 横須賀かぼちゃ屋!!

その後、僕は練馬出身なんですけど、地元中学の先輩のバンドから、また誘われたんです。「ドラムがいないから、手伝ってくれないか?」って。当時は携帯もありませんでしたから、うちに電話がかかってきましたね。そのバンドが1番長かったです。ACID HEAD SOME RISEっていうんですけど、いわゆるミクスチャー系のバンドです。RIZEとか宇頭巻とやっていました。あと、自分たちで〈バスタラフェスタ〉っていうイベントもやっていたので、GARLIC BOYSやspanam、UP HOLDなど、普段はあまり絡まないバンドとも共演しましたね。それが2000年くらいでしょうか。

本当にご馳走様でした!! そして同時進行で植木屋さんも?

はい。もう個人でやっていたので、ツアーにも出やすくなっていました。仕事をくれる親方も「バンドがあるんだろ?」みたいな感じだったので、支障はありませんでしたね。

ドラムは、いつから始めていたんですか?

14歳のときです。練馬の児童館にドラムがあって、そこの人が教えてくれたんですよ。それまでドラムを叩いているところなんて見たことなかったので、ずっとハイハットを左手で、スネアを右手で叩いてました(笑)。そのうち、皆がクロスをしているのを見て驚きましたね(笑)。

覚えたての頃は、どんな音楽をやっていたんですか?

SEX PISTOLSです。簡単だって理由で(笑)。それまではユニコーンが好きだったんです。そしたら雑誌かなんかで、影響を受けたバンドとして、PISTOLSがあがっていたんですね。あの人たち、MILKBOYとかも着ていましたから。

ユニコーンとPISTOLSの関係、初めて知りました。さて、守野さんはご出身も練馬なんですか?

生まれは三茶で、親父の仕事の都合で京都に移り、小3からは千葉の松戸です。

あら、もしかして転勤族ですか?

そうですね。親父は三菱電機の人間だったんで。Appleの黎明期からAppleの製品を買っているような人でした。

いつから練馬に住んだのですか?

松戸に移ってからすぐです。社宅に住んでいたんですけど、車がないと生活できないので、半年くらい経ってから練馬に引っ越したんですよ。僕が3年生から4年生に上がるタイミングで、練馬の光が丘に引っ越しました。そこからずっと練馬です。

光が丘って、団地がいっぱいあったイメージなのですが。

そうですね。今は昔のイメージと、ちょっと変わったかもしれないですが、僕も団地住まいでした。ちなみに今も住んでいますよ。13階に両親、6階がうちです。

やっぱり当時の光が丘って、子供が多かったんじゃないですか?

はい。とんでもなかったです。小学校だけで10校あったんですから。

ええっ! 10校も!!

光が丘第一小学校から、第十小学校まであったんですよ。

守野さんの小学校は、NO.いくつだったんですか?

僕は第五小学校です。今はなくなって、4つくらいになっちゃったのかな。

じゃあ、団地の中に小学校の友達がいっぱいいたでしょう? どんなことをして遊んでいました? エレベーター全押ししたり?

基本ロクなことはしていませんね。光が丘公園に池があるんですけど、釣りをしちゃいけないのに釣ったり、クワガタを採りに行ったり、畑に忍び込んで作物を獲ったり。

クワガタはOKですね! 中学校もいっぱいあったんですか?

その頃は4校です。

部活動はしていました?

スポーツも苦手だったし、先輩後輩の関係も面倒臭そうだったので、全然やりたくなかったんですけど、強制だったので、はじめは吹奏楽に入りました。でもそこは、部活をやりたくないヤツが集まる部なんです。顧問の音楽の先生は女性でしたし、部員も女の子が多かったから、行かなくても怒られなかった。

じゃあ、吹奏楽部に在籍はしていたけど、まったく参加しなかったと?

はい。でもそうこうしていると、今度は熱い先生が登場するわけです。「部活に行かないという選択肢はオマエらにない!」って。結局、その先生が顧問をしているバトミントン部に引っ張られました。まぁ、なんとなく卒業までやっていましたね。

そして高校時代を迎えますが、こちらも練馬ですか?

いえ、高校は杉並の都立西高に行きました。

超頭良い校じゃないですか!!

当時の倍率が0.92倍だったんですよ。ちょうど学区制度があやふやになり、倍率が1倍切っていたので入れたんです。

いやいや、中学のときちゃんと勉強していたからですよ。

中学校の勉強が出来ただけです。入ったら全然でした。バケモノみたいなヤツばかり。勉強しなくても東大に入っちゃうようなヤツがたくさんいましたから。

そして、ドラマー街道に乗ったんですよね?

はい。ある程度は叩けるようになっていまして、先輩たちの卒業コンサートとかに引っ張り出されていたんです。その先輩方が大学に行って、僕を紹介してくれたりしながら、人脈が広がった感じですね。

そして高2でFEVERSに加入。他のメンバーのかたは、どれくらい年上だったんですか?

ベースが22歳、ボーカルが29歳とかでした。色々教えてくれましたね。高円寺のレコード屋さん〈BOY〉にも連れていってもらいましたし。それからはタワレコに行かなくなりましたね(笑)。

女の子は教えてもらわなかったのですか?

まぁ(笑)。つきあっていた子はいました。同級生とか大学生とか。でも、だいたい何股とかじゃないんですかね。

でも、だいたいって(笑)。やっぱバンドをやっていたからモテたでしょう?

いや、そこは、そんなに。あんまり理解されていなかったと思うんですよね。あの当時、バンドはモテなかったですよ。もうNIRVANAとかも落ち着いていましたし。

ああ、もう90年代後半ですものね。

唯一例外的にハイスタだけ売れていたんじゃないですか。

でも進学校じゃないですか。普通だったら大学に行きますよね? なんで守野さんは、進学を選ばなかったのですか?

FEVERSのベースが語学堪能だったんです。それでいろんな海外のレーベルとかにも音源を送っていたら、「スウェーデンのレーベルから声がかかった」と。

〈Burning Heart〉とか!〈Bad Taste〉とか!

まぁ、結局その話は流れましたけどね(笑)。でも音楽で食えるんじゃないかと思い始めたんですね。それで大学受験はやめました。でも今考えたら、そういう話を高校生にチラつかせれば、バンドを辞めないで残るっていう、FEVERSの他のメンバーによる作戦だったかもしれません(笑)。

〈進路:バンド〉に関して、ご両親の反対はありませんでしたか?

それはなかったです。なにもいわれませんでした。好きにしていいと。

じゃあ、学校の進路相談でも「バンドやります」宣言を?

進路相談すらなかったですね。先生も「ライブで休むのはいいけど、この授業は出てないとダメだよ」とか。全然、学校にも行かなくなりましたので。

芸能コースみたいですね!

学校を通り過ぎて、久我山の公園に8時40分くらいに集合するんです。

誰と集合するんですか? バンドメンバー??

いえ、先輩とか。それで一服して10時前くらいに西荻のゴールデンセンターというスロット屋に行きます。「これモーニング入ってるな」っていうのを1枚掛けで打って出して、それを11時の換金の時間まで、ダラダラと時間を潰しながら打ちます。飲まれちゃったとしても1枚持っていて、だいたい7枚交換だったから、1000円で4000円くらいになるんですよね。

その時間は、真面目にバンド練習していると思っていましたよ(笑)。

そのお金でスネアを買ったりしていましたね。

高校卒業して、すぐに植木屋さんでしたっけ?

いえ、引越し屋のバイトもしていました。そのバイト先にロン毛で格好いいお兄さんが入って来て、よく聞いたらバンドをやっていると。「どんなバンドなんですか?」って聞いたら「スラッシュメタルだよ」って。僕らが今度NUKEY PIKESと一緒にやるっていったら、「え? NUKEY PIKESと! じゃあ、うちらのデモテープも渡すから聴いてくれないか? それで、もし良かったら、お客さんも呼ぶから出してくれ!」って。そのお兄さんがSUNS OWLのベースの工藤さんだったんです。

繋がりますねー!

工藤さんには本当にお世話になりました。SLIGHT SLAPPERSのクワさんと3人で練習バンドみたいなのも組みましたね。クワさんは途中で抜けたのですが、別のメンバーも入って、ファンクジャズバンドでライブもしました。結局は自然消滅したんですけど、この時期に随分鍛えられましたね。工藤さんからハードコアもがっちり教わりましたし。

どんな教えだったんですか? 気になります!

「こういうのを聴け」ってMINOR THREATとかストレートエッジ系のバンドを教えてもらったり。それをメモって全部聴いて。とにかく色んなバンドを聴きましたね。VISION OF DISORDERとか。今はもう聴かないですけど。

私はまだ聴いてますよ、『Imprint』! さて、その後ACID HEAD SOME RISEを経て、植木屋さん1本になるわけですが、どうしてバンドを辞めたんですか?

まぁ、簡単にいうと喧嘩別れなんですが(笑)。ACID HEAD SOME RISEは、ギターのJUNCHIってヤツのワンマンバンドだったんです。彼は、その後HIGH SPEED BOYZっていうバンドで、GReeeeNのプロデューサーのJINと一緒にデビューしたんですよ。

わぁ、ここにGReeeeNなんて名前がでるとは!

彼が、ACID HEAD SOME RISEの曲を全部書いて、ドラムのパターンまでアレンジしていたんです。で、僕はドラム兼調整役みたいな感じで。

事務所とかには入っていなかったのですか?

はい。レーベルはありましたけど、事務所はありませんでした。ですから、僕とボーカルが中心になって営業活動をしていたんです。そんなとき、あるイベントに呼ばれて出演したんですけど、まったく営業活動もしていないJUNCHIに「あのイベントはねえわ」っていわれまして。そこでキレましたね。

ドカーンと?

「オマエがつくった楽曲を披露するところをつくったのに、これが我慢できなかったら、どこに行っても我慢できねえよ。それが出来ねえんだったら無理だ」っていって、そこで辞めました。

その後、JUNCHIさんとのご関係は?

実は、僕がACID HEAD SOME RISEを辞めたとき、そのGReeeeNのプロデューサーのJINに「俺バンドやるから、ドラムやらない?」って誘われて、少しやっていたんです。そしたら今度は「JUNCHIもギターで誘いたい」と。さすがにそれは無理なので、僕は抜けたんです。

ということは、そのままいたら、守野さんもHIGH SPEED BOYZのボーイズになっていたと?

そうかもしれませんね(笑)。その後、何年かしてからJUNCHIと再会しました。そしたら「本当にオマエらには無理強いをしていた」っていってくれましたね。それからちょっとだけ、JUNCHIとバンドをやったりもしたんですけど、それは本格的なものではなくて。それに、自分もドラムを突き詰めてやる感じでもなくなっていたので、普通に仕事をして、普通に穏やかに過ごそうと決めたんです(笑)。

守野さん、ご結婚はいつされたんですか?

32歳ですね。子供ができたので、それをきっかけに籍を入れました。

奥様とは、どこで知り合ったのですか?

ACID HEAD SOME RISEのスタッフだったんですよ。「物販とかいるんだ、ミクスチャーのバンドって」なんて思ってました(笑)。

アハハ!!

なんとなくつきあい始め、ツアーとかもあるので別れていた時期もあるんですけど、バンドを辞めてからまた会うようになって、今に至ります。

お子様はおいくつですか?

7歳と3歳。両方とも男の子です。

パンクとかハードコアとかミクスチャーとかを聴かせています?

いえ、まったく。というか、嫌いですよね。特にRAGE AGAINST THE MACHINEが嫌いみたいです。

かっこいいのに(笑)。

「嫌だ、コレ」っていわれています。ですから、いうことを聞かないと「RAGE AGAINST THE MACHINEの刑」といって流します。効果ありますよ(笑)。

トム・モレロの音が嫌なのかなぁ(笑)。さて守野さん。しばらく音楽活動から離れてらっしゃいますが、また音楽をやりたいとかは?

いずれまたやろうかなとは考えています。声をかけてくれる人もいますので。ただ、最近すごく思うのが、ドラムを叩くことが好きだったのかどうかも、今となってみてはわからないんですよね。あの当時は「バンドしかねえよ」とかいっていたんですけど、それによって色々なことから逃げるためにやっていたような気がしないでもないんですよね(笑)。

なるほど(笑)。お仕事はお忙しいですか?

そうですね。これからどんどん忙しくなります。5月の末から8月のお盆くらいまでが、ちょうど木が伸びて鬱陶しくなってくる時期なんですね。

日に焼けてらっしゃいますものね。もう、暑いんじゃないですか?

はい。暑いです。水分をたくさん補給しないといけません。

なにを飲んでいるんですか?

麦茶です(笑)。水筒に入れて。

1日でどれくらい飲むんですか?

真夏になると、5リットルとか飲むんじゃないですかね。

マジですか!!

5リットルくらい飲んでも、夕方に1回トイレに行くくらい。全部、汗で出ちゃいますから。

すごい! お父さん、頑張ってらっしゃいますね!

いえいえ(笑)。バンド時代も含めると、奥さんには色々と迷惑をかけてきましたから。

お子様が「バンドをしたい」といったらどうします?

「おススメはしないけどやってみれば」と。私自身両親には好きにやらせてもらいましたし。成功しても失敗しても、「最悪、親父に植木屋の仕事を教わればいいや」って感覚で、なんでも思い切ってチャレンジして欲しいです。

お優しいですね。

それに〈日本の庭〉っていうのは、世界に誇る文化なんです。昔は、〈家ありき〉でしたから、当たり前に庭があり、そこにお金をかける旦那衆がいましたが、今はその文化も少なくなっています。僕は古着が好きで、ジーンズとかも見たりするんですけど、石とか灯篭も同じなんですよ。やっぱり古くて味が出た物、歴史がある物は全然違う。「苔が汚い」とかいわれたら身も蓋もないですけど(笑)。あと庭って、やたらに金がかかるイメージがあるかも知れないですが、そんなことありません。本当に数万円からだって出来るんです。まぁ、そういうクラシカルな部分との関わりを大事にしながら、現在も材料を選んだり、庭の設計もしています。もし子供たちがこの道を選んだら、一緒に色んな物を見て、あーだこーだといいながらやっていきたいですね。

うちにも庭があったらなぁ。

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