写真家、石川直樹が考える世界の認知のしかた、そして、写真表現の真意とは?
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石川直樹 〈未知なる驚き〉の追求と〈世界の相対化〉という矛盾が同居する写真表現

写真家、石川直樹が考える世界の認知のしかた、そして、写真表現の真意とは?
19 August 2020, 10:47am

石川直樹が生み出してきた膨大な作品群の全容を掴むのは容易ではない。当時世界最年少で7大陸の最高峰に登頂し、北極点から南極点までを人力で踏破する国際プロジェクトに参加するなど、若い頃からエクストリームな世界に身をおいて写真を撮り続け、発表してきた。その表現は、体験をことさら誇張するわけではなく、あくまで客観的に切り取ろうとしているように感じられる。
そして、これまでの被写体は多岐に渡る。ヒマラヤ遠征から先史時代の壁画、日本列島の祭祀、女性の髪、昨今では渋谷の街に繁殖するネズミを撮影しているという。ここでは、石川直樹自身が、何を求め、それが、どのように繋がり表現されてきたのか、話を聞いた。

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写真集『NEW DIMENSION』(赤々舎)より

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写真集『ARCHIPELAGO』(集英社)より

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写真集『NEW DIMENSION』(赤々舎)より

旅をはじめたきっかけを教えてください。

最初は中学2年生の冬休みに、青春18切符という各駅停車の列車に乗り放題の安いチケットを買って、駅のホームで寝たりしながら四国まで旅をしたんです。今だと通報されちゃうかもしれない(笑)。それまで、旅や冒険、探検の本が好きで色々読んでいて、とにかく家や学校から離れて、旅に出たいって気持ちが強くて。それからすでに20年以上経っていますけれど、今でも旅へ向かう気持ちは変わっていないし、世界を身体で理解したい、驚き続けたい、という思いで旅をしています。

驚き続けるのは難しいことですよね。学問があって勉強して、何かを知ることで、効率化というか、よりスムーズに生きることができてしまいます。そのため、大人になるにつれて、知った気になることって増えていきますよね。

赤んぼうのころ、つまり身の回りが知らないことだらけだったころは、あらゆるものに好奇心の矛先が向かいます。例えば、僕らはそれがコップだとわかっているから、水などを入れて飲むための役割をもっている、とすぐ認識できるけれど、はじめてコップをみた赤ちゃんは「これはなんだろう」って、なめたり、投げたりしながら、コップのことを知覚していく。そうやって身の回りのあらゆることを日々発見し、そのことに驚けるというのは、実は贅沢なことですよね。自分は歳をとってもそうやって世界を知覚したいと考えていますが、なかなか難しいです。

全てのことに驚き続けながら、生きていけたら面白いとは思うのですが、だんだん、それが面倒臭いと感じるようになる人も多いと思いますが。

歳を重ねておじいさんに近づくと、なんでも知ってる知ってる、となって、様々なことに無関心になっていく。毎日起きてメシ食って寝て終わり、みたいになっていっちゃう。好奇心が失せて、矢のように時間が過ぎていくわけですが、なるべくそうはなりたくない。子どものころって、いろんなことに驚きながら生きているから、そんなに速く時間が過ぎたりしないですよね。だから、いろいろなことを知っているつもりにならずに、目で、耳で、身体でさまざまなことを知覚しながら生きていきたいんです。簡単ではないですが。

そうした気持ちをもって、一年の半分くらいは旅に出ているそうですが、安心したい、という欲求はないんですか?

んー、あんまりないですね。ちょっと前にうちの親と話をしていたら、引越しとかは絶対にしたくない、旅行にも行きたくないって言うんです。見慣れた環境が少しでも変わるのがイヤみたいで。知らないものに出会うって怖いことでもあるから。でも、僕は新しいものに出会いたいし、やっぱりドキドキしながら未知のものに触れていきたいという気持ちがある。もしかしたら中毒なのかもしれないけど(笑)。

安心したいって欲求がまったくないのは、確かに変わってますよね(笑)。どうして、そうした欲求がつきないのですか?

まったくないというわけじゃないと思うけど、性格なんだと思います。とりわけ好奇心が強い、という。

理解はできますけど、イマイチ(笑)。。。例えば、海外への憧れとか、自身のコンプレックスとか、人生のなかで、何か相当なインパクトがあって今につながってるみたいなものはないのですか?やっていることは、世界でも何人かしかできないこともやっているわけで。もっと強いモチベーションの秘密があるのかなって。

いやー、なんとも説明できないし、本当に生まれついての性格なんだと思いますよ。アフリカで生まれた人類の起源を見ても、安住できる森のなかでずっと暮らしていればいいのに、その森から出ていった集団がいたわけですよね。未知の場所に行ってみたいという気持ちを持つ人が少なからずいたから、人類は出会いを繰り返しながら世界中に拡散し、寒いところにも暑いところにも順応して、暮らしを築いた。そうしたことのはじまりって、究極的には個々の人間の性格的な問題だったりするんじゃないかな。

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写真集『Lhotse』(SLANT)より

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写真集『K2』(SLANT)より

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写真集『K2』(SLANT)より

なるほど(笑)。では、そうやって、常に驚きながら生きることを理想とするなかで、石川さんにとって、「世界を知る」とはどういったことなのでしょうか?

インターネットで調べて、こういうことかってわかったつもりになっちゃうと、途端にその物事に対して興味を失ってしまいます。だけど、その「わかった」は錯覚というか、きっとわかってない。ぼくは、自分の目で見て、耳で聞いて、体で感じながら世界のことを理解したいっていう気持ちが強いんです。例えば、K2という山は、なかなか登るのが難しいとされています。もちろん山の名前は知られていますが、じゃあ6000メートル地点と7000メートル地点、8000メートル地点に何があってどんな風景が見えるのか。本当はどれだけ難しいのか。それは、文献を調べてもネットで検索しても、よくわからないじゃないですか。その場所に行って、自分がどういう状態になるのか、何を見て何を見ないのか、そういうことも含めて、その場所を知るためには、行くしかないって思うんです。
だから、最近はリモートでどうのこうのと言われていますけれど、あんまり前のめりになれない。ネット上の対話やトーク的なことも試しているし、オンラインで色々なことが代替できるとかって言われますが、やっぱり僕は実際に会って話すことだったり、現実のコンタクトにしかあんまり興味がないですね。というか、見たことがないものを実際に見たりして、自分の身体感覚を通じて理解したい、わかりあいたいっていう気持ちのほうが、断然強い。

K2もそうですが、石川さんの旅先のなかには、常人ではたどり着けない場所もあります。そうした場所を目的地に選ぶ理由を教えてください。

調べてもわからない場所、ガイドブックに出ていないような場所には、行ってみるしかない。そういう場所って、山とか川とか海とか、割と自然のなかが多いんです。でも、別に行きにくい場所ばかりに行っているわけじゃなく、身近なところにも関心はありますよ。

ヒマラヤに登頂したり、世界7大陸の山々を制覇したり、そんな経験から冒険家と呼ばれることもありますよね?

そうですね。でも、自分から冒険家と名乗ったことは1度もないんです。冒険家としての自覚は全くない。そう呼んでいただけるのはありがたいんですが、きっとぼくのことを冒険家だと思ってくれる人は、本当の冒険家がこれまでやってきた偉業を知らないんですよ。ぼくがやっていることは、前人未到の何かでもないし、単なる旅の延長にすぎません。

冒険は何かを達成することが目的だと思うのですが、石川さんの旅の目的を教えてください。

繰り返しになりますが、旅の目的は、身体を通じて今ここにある世界を知り、人間を知る。それに尽きます。旅人というのは異邦人ですから、常にマイノリティーの側にいることが多い。例えばある場所の、あるコミュニティーを前にしたとき、旅人は部外者ですよね。礼儀として、そこにいる人々の文化や習慣を知らなきゃいけないわけで、郷に入っては郷に従え、が基本です。日本で生まれ育てば、そこが世界の中心のように感じてしまうけれど、全然そうじゃない。自分が常識だと思っていることは、多様な世界のなかの、ほんの一側面でしかない。そうやって、旅は、自分を相対化させてくれるきっかけにもなります。さらに言えば、旅は「偶然」を呼び寄せる。思いもよらないことに出会い、人生が変わっていくきっかけにもなりうる行動だと思っています。

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写真集『POLAR』(リトルモア)より

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写真集『CORONA』(青土社)より

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写真集『VERNACULAR 』(赤々舎)より

世界に驚き、自分を相対化、ニュートラルな状態に保てる、戻してくれる旅のなかで、写真というメディアを選んだのはなぜですか?

旅と写真は、切っても切り離せません。例えば、ひとりで山の頂上に立ったとき、それを証明するものは写真しかない。今なら動画でもいいですが、写真ができる以前は、スケッチをしたり、頂上から見えるものをいちいち言葉で報告して、それを登頂の証明としていたようです。そんな例を挙げるまでもなく、旅することと記録することは、最初から同根というか、相性がいい。写真を選んだ、というよりは、もともと旅と写真が分かちがたく結ばれていた、と言ったほうがいいかもしれないです。ぼく自身、さまざまな写真を見てきたことで、一歩を踏み出すことができたし、写真が目の前の世界に重なる無数の枠を確実に押し広げてくれました。だから、他の誰かにとってのそのようなきっかけを、自分も少しでも生みだせたらいいなあ、というくらいの思いはあります。

石川さんは、文才もあって、執筆活動もされていますが、写真表現にこだわる理由を教えてください。

文章と写真は全然違うし、あらわせるものが異なっているんですよ。ぼくは文章では文章でしか伝えられないことを書いて、写真では写真でしかできないことをしているつもりです。中でも、写真に関わっている時間の方が全然長いので、やっぱり写真家と呼ばれるのが一番適切かな、と思います。
最初に写真が好きになったのは学生時代で、森山大道さんに写真を見せにいったのがきっかけです。そしたら、他の大人が見向きもしなかった写真や、自分が失敗だと思っていた写真に強い反応を示してくれたりして、人によって写真の見方が全然違うことが面白い、と思ったんです。写真家っていったい何なんだろうって思いはじめて、のめり込んでいったのかもしれません。

石川さんの写真をみていくと、個人的には、被写体との距離感が面白いと思います。もちろん、K2などの高峰に対する憧れがわかりやすく伝わってくる作品もあるのですが、客観的な立ち位置を貫いている写真も数多くあると感じます。

肉眼で見るのと同じような距離感の標準レンズがついた古い中判カメラで撮影しているというのも大きいんじゃないですかね。レンジファインダーという種類のカメラで、一眼レフと違ってあんまり寄れないんです。もちろんズームや望遠レンズも使わない。というか、蛇腹でレンズが固定されていて、レンズ交換とかができないカメラなんです。遠くのものを撮りたくても、崖っぷちにいて近づけなかったらその正直な距離が写る。当然ですよね。例えば、ズームレンズを使えば、何を写したいのか意思がはっきりするかもしれないけど、その距離には、なんだかズルがある感じがする。ぼくは自分の撮り方を「自分ズーム」って言ってますが、自分の足で近づきたかったら近づくし、引きたかったら離れる、そういった自分と目の前の世界との距離感が正直に写ったほうが写真は面白いんじゃないか、と思っていて。

今はたくさんの高性能なデジタルカメラも出ています。マニュアルの古いフィルムカメラを使い続ける理由はなんですか?

自分の気質にあっているんじゃないかな。同じ被写体を、ここから撮って、あそこからも撮って、念のためにこうも撮ります、みたいな撮り方ができないし、したくない。フィルムカメラは間違っても消せないのがいいんです。デジカメだったら、コンパクトなやつでも連写はできるし、ズームできるものも多いし、早い動きに対しても素早くピントがあう。当然ですがフィルム交換しなくても、何枚でも撮れちゃう。でも、不便なカメラは不便なりに、それでしか撮れない写真って、やっぱりあるんですよ。完全にはコントロールしきれないからこそ、無意識だったり、偶然が入ってきたりする。ぼくはそういう古いカメラでの撮影のほうが性にあっていたんでしょうね。

自分の内面を作品に反映させるには、それにあった機材を選びますよね。そういう意味では、石川さんが選んでいる機材は、石川さん自身が表現したいことを表現するためのツールとして、自然に選択しているということでしょうか。

自分の内面を作品に反映させたいとは、あんまり思っていませんが、まあ滲みでてきちゃうものではありますね。主観でここを強調したいとか、こんな風に切り取りたいっていう気持ちは全然ないし、あったとしてもなるべくそういうものから離れようとしています。もうちょっと受け身な感じですね。向こうから飛んでくるものをカメラで受け止めるみたいな。そんな姿勢に、中判の6×7のカメラが合っているということでしょうかね。

では、シャッターを押すのは、どのようなタイミングなのですか?

自分の体が反応したときに撮ります。だから、さっきの話とも繋がってきますが、知っているつもりにならないで、なんでも見るぞ、という気持ちでいないと、体が反応しないし、撮れない。知っていることだらけで、既知のものに囲まれていると思ったら、写真なんて撮れないですよ。自分をオープンにして、なんでも受け入れていく姿勢がないとシャッターを切れなくなってしまいます。

自分の主観を強調しないというのは、自分の目線を主張しないってことですよね。それはなぜでしょうか?

もちろん、シャッターを切る瞬間を選んでいるのは自分なので、当然主観からは逃れられないのですが、なるべくそうならないようにしたほうが、あとあと写真をみたときに、いろんな可能性を残せる。情報量をなるべく減らさず、シンプルに提示したほうがいいなあ、と思って。僕の眼は、今ここしか見ていないけれど、本当はそのまわりのこっちもあっちも視界の中には入っていますよね。向こう側の壁の色や、机にこぼれ落ちた水滴みたいなものまで視界には入っているんだけど、いちいちそれらを認識して覚えているわけじゃない。でも、写真に撮っておけば後で思い出したり、その気づきが何かに繋がっていったりもします。余計なものを排除して撮るのではなく、できるだけ偶然を呼び込みたいし、色々な引き出しを残しておきたい。だから、主観でがちがちに切り取りたくはないんです。自分の記憶を超えて何かに接続したり、いろんなことを思い起こさせてくれるのが写真のいいところではないかと思っていますね。

なるほど。なんでも見ておきたい、忘れたくない、という欲求、その貪欲さが自分の作品にも反映されているんですね。

まあ、そうかもしれないですね。それこそメッセージなんかを写真にのせようとした瞬間に、その写真はダメになる。見る人をひとつの場所に導いちゃう写真は苦手です。もうちょっと余白のある写真だと、個々人の記憶や志向とリンクしながら、広がっていくんじゃないですか。写真家の意図なんかを超えていく写真のほうが、はるかに面白いですよ。

つまり、石川さんは、ドキドキし続けながら、同時に、自分を相対化する作業に惹かれて旅をする。その結果としての作品は、驚きを残しつつ、決して特別なもののように表現するのではなくて、あくまで相対化されたものとしてあらわれるってことなんでしょうか。客観的にも見えるその視点があるからこそ、人類学や民俗学的な見地を石川さんの作品に見出す人も出てくるのかもしれないですね。やはり石川さんの写真表現を理解するのは、なかなか難しいですね(笑)。

そうですか(笑)?僕は突き詰めれば、写真に失敗は存在しないと思っているんです。目の前のコップを撮ったらそれが写ります。その写真は、成功とか失敗とかの物差しで図れるものではなくて、単純に世界の端的な模写なわけです。そうした写真が組み合わされることによって、別の見え方が生まれてくるから、例えば写真集を編む作業、あるいは展示のために構成する作業、そういうことは当然ですが大切になってきますね。誰でもその人だけの人生を生きているわけで、その人が向き合っている固有の生そのものを提示すればいいんじゃないか、とぼくは思うんですよね。そして、技術をもった特権的なカメラマンがいて作品ができあがるんじゃなくて、写真を組んでアンサンブルをつくれる人だったり、批評性をそこに浮かび上がらせることができる人が、写真作家になっていくんじゃないかな、と思います。

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写真集『まれびと』(小学館)より

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写真集『THE VOID』(Knee High Media)より

作品をまとめるのは、どういったタイミングなのでしょうか?

ひとつのテーマにおいて、誰も追いつけないくらい撮れたな、と自分で思うことができたらまとめるようにしています。まだ負けているな、と思ったら、撮り続けますね。例えば、K2にしてもエベレストにしても、麓の村から頂上まで、きちんとフィルムで撮影しながら登っている人なんて、国内だけでなく世界を見渡しても、ほぼいない。過去の写真史を紐解いて、誰も辿りついていない場所まで自分がこられたな、と思ったら写真集などにまとめます。

ヒマラヤなど特定の地域のカテゴライズをとっぱらい、石川さん自身の表現を理解しようとすると、高峰から日本列島の祭祀に至るまで、多岐にわたるジャンルを俯瞰して再編集してみる必要がありますよね?

体が反応するすべての物事を写真におさめて、いろんなものを撮ってきましたから、それらがばらばらに見えるかもしれないけれど、ぼくの作品はすべてが例外なく繋がっています。北極圏を撮っているうちに古い壁画に出会い、壁画を撮り始めたらそれぞれの場所にある建物に興味が湧いて、それを撮り続けていたら、国境を越えたネットワークの存在に気付いて調べ始めて、というように連鎖していきました。ひとつの旅が、思いもよらない別の旅を呼び寄せて、世界が広がっていくような、そんな感じです。
8000メートルの山なんかに登っていると「俺、いま何やってるんだろう」ってときどき思うこともあるんです。人間が勝手に名付けた地球の出っ張りに、苦しい思いをしながら命懸けで登ったりすることに、なんの意味があるのかな、とか。いったい人間ってなんなんだ、とかって考えるわけです。そうするうちに、人間の内面にも興味を持ったりして、未知は外にあるのではなく、内にもあるんじゃないかって思って。それを具体的に考えるために仮面の祭祀儀礼を撮りにいったりする。そうやって、繋がっていくというか。

なるほど。面白いですね。

昔の人は、誰も行ったことのない場所や、山だったら未踏峰なんかを目指して、世界中のあちこちに飛びだしていきました。でも今は人跡未踏の地なんてほとんどない。それこそグーグルマップとかで、どこでも見られる時代ですからね。そうすると、冒険や探検の主流は、地理的な未踏の場所を目指すのではなく、装備などを削ってできるかぎり素手に近い状態で、自分から周囲に未知を作り出すような方向に向かっていきます。食料も持たずに狩猟をしながら山に登ったり、GPSや地図などに頼らず荒野に入りこんだり。見慣れていると思い込んでいる風景のなかに、いかにフロンティアを探しあてるか。そこには、一昔前のような体力や根性ではなく、知的な好奇心や探求心が求められます。
地理的な冒険がそのように変化していく一方、ぼく自身は人間の内面にうごめく未知の情景へ惹かれていきました。普段はなんの変哲もない小さな村なのに、ある日、藁を被った来訪神が現われて、非日常的な次元にトリップしたりする。その代表的な例が、最近写真集にまとめた『まれびと』のシリーズですね。

現在は、どのような未知を追いかけていますか?

コロナ禍で人が少なくなった渋谷に、以前にもましてネズミが繁殖しています。都市のなかの野生がむくむくと目覚めている。それを最近は撮影していました。来年くらいにまとめることができればと思っています。

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写真集『Mt.Fuji』(リトルモア)より

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シリーズ「Streets are mine」より

すべてにドキドキしながら、一方で客観的に物事を相対化して捉える。その矛盾が石川さんの表現なのですね。また、とんでもない場所にいっても、人間の精神世界に触れても、結局世界は未知なるもので溢れている、ということをわかりたくて旅をして写真を撮っているようにも思えます。実際に体験しないと何ごともわからない、と石川さん自身が思っているから、自身の作品でも、結局は写真だけではわかりきれないだろう、というところまで、石川さんは表現しようとしているんじゃないかと。そんなふうに、石川さんの作品を捉えると、すごくストイックでありながら、どこか見るものを突き放すような冷徹さも感じてしまいます(笑)。

え、ちょっとよくわからなくなってきましたが(笑)、ぼくはとにかくロマンティストでもナイーブなタイプでもないです。けれど、例えば、K2にいって荒涼とした岩と雪のなかで2ヶ月近くテント生活をしながら頂を目指したあと、ようやく山をおりる途中、岩にへばりついてる小さな花とかを久しぶりに見ると、なんだか心を揺さぶれちゃって涙が出たりすることもあるんです。普段は無機質に感じられる植物が本当に生き生きしているように思えて、グイグイきちゃうんですよね。シャバに戻ってきたじゃないけど(笑)、「生きて戻ってこれたわー」って。村に近づいていくと、あー帰ってきた、みたいな感覚そのままに、何でもない草花を写真に撮ることだってありますよ。