追悼 英国ダンスミュージックのアイコン、アンドリュー・ウェザオール

私たちは英国クラブカルチャーを代表する存在をまたひとり喪った。彼は単なるDJに留まらない存在だった。​
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translated by Ai Nakayama
Tokyo, JP
Andrew Weatherall DJing
Andrew Weatherall in 2009. Photo: Everynight Images / Alamy Stock Photo

アンドリュー・ウェザオール(Andrew Weatherall)は、何年かにいちど英国の郊外に現れる天才のひとりだった。

アンドリューは1963年、ウィンザー生まれ。信念を貫きながら幅広い音楽を取り入れたDJ、作曲、プロダクション、執筆業と、彼の仕事は多岐にわたる。彼はキャリアを通して、隠れたボスとして業界を牽引してきた。なんといっても、1990年代以降の英国のダンスミュージックの方向性を決めたのは彼だ。しかもそれを、趣味のようなノリで成し遂げてしまった。

アンドリューの死は、2020年2月17日に報された。享年58歳。死因は肺塞栓症。私たちは英国クラブカルチャーを代表する存在をまたひとり喪った。彼のレコードバッグの中身と同じくらい様々な用途に使われていたトレードマークのヒゲ(筆者がVICEのTHUMPでインターンとして働いていたとき、最初に書いた記事はアンドリューのヒゲがeBayで販売されている、という変なニュースについてだった)、そしてスキッフル風からシャーマン風まで網羅するファッションセンス、地に足がついた真面目な(それでいてダークなユーモアに溢れた)インタビューの受け答え。彼は単なるDJに留まらない存在だった。

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学校を退学処分となり、彼自身の言葉によると「家族のなかから去る」よう言われた若きアンドリューは、最初から自立したアーティストだった。1980年代には、家具運搬人からスタートし、様々なアルバイトに従事。稼いだお金でレコードを買い、バイト以外の時間は小さなイベントやハウスパーティーでのDJをこなした。レコードコレクションが増えるにつれ、彼の評判も高まった。しばらくしてダニー・ランプリングから声をかけられ、Shoomでプレイすることに。そしてアンドリューは、黎明期の英国ハウスシーンの中心に立つことになる。

コミュニティのなかでも特に勤勉なアンドリューを見込んだDJのテリー・ファーリーは、勃興しつつあるシーンを記録する雑誌を始めないか、と持ちかける。それが『Boy's Own』だ。今はもう存在しないが、少なくとも記憶のなかでは、のちのシーンに影響を与えた重要なファンジンだ。そのインスピレーション源となったのはリバプールのサッカー誌『The End』。スティックのりで組み立てられた計40ページの『Boy's Own』は、アンドリューのコーヒーテーブルの上に置かれたタイプライターで打ちこまれた、めちゃくちゃなハウスガイドだ。タイプミスは多く、レイヴをこき下ろしながら祝福する。このファンジンが、英国クラブカルチャーの性質を決定づけたと言っていい。スピリチュアリティを重視するシカゴとも、フューチャリズムを打ち出すデトロイトとも違う。『Boy's Own』は、世界で初めてアシッドハウスについて書かれた記事を掲載し(筆者はあのポール・オークンフォールド)、レイヴァーたちや度を越した入場ルールを風刺したマンガを載せ、そしてかの有名な「もう全部終わりだよ、ピート・トング(It's all gone Pete Tong)」というフレーズを生み出した媒体だ。

boy's own

「みんないい? キャロラインは高度な訓練を受けてるんだ… 家でこんなことに挑戦しないように!」『Boy's Own』から。IMAGE COURTESY OF BOY'S OWN.

アンドリュー自身は〈アウトサイダー〉というキャラで記事を書いていた。コラムは手書きで、ファーリーによると大体締め切りを過ぎて提出されていたらしい。

Boy's Ownはのちにクラブのイベント、そしてレーベルへと発展する(その子会社、Junior Boy’s Ownからは、初期のCHEMICAL BROTHERSのシングルが発売された)。しかし、当時の雰囲気やアンドリューが果たした唯一無二の役割がいちばん色濃く表れているのは、やはりファンジンとしての『Boy's Own』だろう。12号でアンドリューは雑誌から離れ、アンドリューを失った『Boy’s Own』は廃刊を選択する(トングはアンドリューを、『Boy’s Own』の「闇の天才」と称した)。「彼は27歳で、18歳のキッズに何を着ればいいとか何をしろとかって、もう言いたくなかったんだって」とファーリーは2015年のVICEの取材に答えた。

『Boy’s Own』の終焉のひとつの理由としては、アンドリューへのプロデューサーとしての依頼が増えたから、ということが挙げられる。プロデューサーとしての彼の業績でいちばん有名なのは、やはりPRIMAL SCREAMの3rdアルバム『スクリーマデリカ』だろう。アンドリューのプロダクションこそが本作を定義づけているし、本作がレイヴとメインストリームの架け橋になった作品として音楽史に燦然と輝いているのも、彼の音作りに多くを負っている。その証拠が「Loaded」だ。1980年代後半のインディロック然とした「I'm Losing More Than I'll Ever Have」に、アンドリューがTHE EMOTIONSのヴォーカルをサンプリングして仕上げた曲だ。レイヴ時代の限りなくサイケデリックでエキセントリックな要素と、信じられないほど(いまだに結婚パーティーで流れるくらい)頭に残るグルーヴとが両立した名曲だ。

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アンドリューは〈魔法〉を生み出し続けた。FLOWERED UPの「Weekender」、SAINT ETIENNEの「Only Love Can Break Your Heart」、BIG HARD EXCELLENT FISHの「Imperfect List」、MY BLOODY VALENTINEの「Soon」のリミックスにそれは顕著だ。彼は、曲の分子にまでも入り込み、それを部屋の隅々にまで届けることのできるプロデューサーだった。また、彼は自分でも曲をつくった。SABRES OF PARADISEではダブ、アンビエント、テクノを、プロデューサーのキース・テニスウッドとのユニットのTWO LONE SWORDSMENではローキーなハウスを鳴らし、最近ではボーカルを中心に据えたソロアルバムもリリースした。

しかし、彼のクリエイティブな生活のリズムを絶えず刻んでいたのはDJとしての仕事だった。朝5時の熱気むんむんな空間でビート強めの曲を流したり、英国の人気オンラインラジオ局NTSで持っていた番組『Music's Not For Everyone』で、自らのコレクションの端の端までリスナーを案内して楽しんだり、彼はDJとして様々な活動をしていた。

アンドリューのダンスフロアへの情熱がもっとも顕著に表れたのは晩年(となってしまったことが悔やまれる)だった。彼にとって、クラブは〈全くのナンセンス〉が実現される場所だった。彼はかつて、自分は〈吸血鬼〉だと語ったことがある。自分は、初めて聴く数十年前の楽曲で踊るティーンたちのエネルギーをエサにしているのだ、と。彼はレコード至上主義でもなければ、音楽的なスノッブでもなかった。彼は、日常を抜け出したいという誰もが持つ欲望を大切にしていた。

また、彼は実にひょうきんな人物でもあった。彼の死以来、ネットでシェアされている生前の彼の言葉の多くが、音楽業界に対する態度や、多くの仲間たちが通った〈スターDJ〉への道を避ける決断についてだ。おそらくいちばん有名なのは、「つるつる滑るショービズのポール」を昇ることに関するこの言葉だろう。

「俺はそのポールの下に立って、上を見上げてこう思った。『きっといい眺めなんだろう。でもポールはヌルヌルだし、いろんなひとの尻が見えるし、そうなると何度も口元を拭わなきゃいけないだろうから、俺は昇らないでおこう』って」

おそらく彼は、今では失われた、資本に恩を受けることの少ない活動を楽しめた世代だったのだろう。あるいはその世代は、希少なスピリットを有していたのかもしれない。アーティストは、ただ自分で手を動かす〈専門家〉であり、商売人ではなかった。ひとつの章が終われば、次の章に行く。それがリノリウム版画であろうが、ロカビリーバンドであろうが構わない。

2019年、筆者はアンドリューのDJを2度観た。1回めはショーン・ジョンストンとのA Love From Outer Spaceとして、2回めはブリストルでの深夜に行われたフェスでのソロセットだった。

2度目のとき、私は迷うはずのないクラブで迷って、彼がプレイする部屋へとたどり着いた。部屋はひとで溢れ、深夜だった。アンドリューは蒸気機関をいじる技師のように、デッキに前かがみになっていた。赤いスモークが濃く漂うなか、私が一生名前を知ることがないであろう楽曲が永遠に流れている…と思いきや、突然WOMACK&WOMACKの「Teardrops」がかかりはじめた。この束の間の〈永遠〉に、世界は微笑んだ。それはまるで、魔法のような瞬間だった。

Author: @a_n_g_u_s

This article originally appeared on VICE UK.