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Dez Cadena (BLACK FLAG、MISFITS) 生きるために癌と戦う

お節介とわかっていますが、言わせてください。Dez Cadenaをアメリカン・パンクのアイコンだと思えない方がいたら……コラーッ!!!!初期BLACK FLAGのフロントマンであり、ギタリストであり、MISFITSに最も長く在籍するギタリストのDezは、誰が何と言おうとパンク界のスーパーヒーローなのであります。

by Tony Rettman
22 October 2015, 2:46am

お節介とわかっていますが、言わせてください。Dez Cadenaをアメリカン・パンクのアイコンだと思えない方がいたら……コラーッ!!!!初期BLACK FLAGのフロントマンであり、ギタリストであり、MISFITSに最も長く在籍するギタリストのDezは、誰が何と言おうとパンク界のスーパーヒーローなのであります。

しかし残念ながら、そんな評価も名声も賛辞も、医療費のたしにはなりません。

Dezは咽頭癌を宣告されました。この数か月間でポリープを除去し、体力を消耗する放射線治療も受けました。もちろん莫大な医療費がかかります。そのため、寄付ベースのクラウドファンディングであるGoFundMeに、Dezの医療費を支援するページも立ち上がりました。

ここにDezのインタビューを掲載します。この件にちょっとでも興味を持ってもらえたら幸いです。もちろん彼は喉が悪いので、FacebookのMessengerでやりましょう、と提案しましたが、Dezは「直接はなしたい」と会ってくれました。病気のせいで声はガサガサ。「BLACK FLAGのセッション後の声と変わらないよ!」彼のホームタウンであるニュージャージー州ニューアークで、まずはジョークを一発かましてくれました。

彼は、たくさん、たくさん話してくれました。ヘルモサビーチへ引っ越したこと、若かった頃の生活、音楽に目覚めたときのこと、 BLACK FLAGへの加入、そして最近の病気のことまで…。

GoFundMeのDezのページへのリンクを、インタビューの最後に記載します。彼への大きな支援をぜひ。

子供の頃の話から始めましょうか。話を始めるにはそこからでしょう。

60年代にニュージャージーのニューアークで育った。まだ、人種間の緊張がある時代だった。67年に暴動があったが、俺はまだ幼かったから何もわからなかった。でも、そんな暴動が起こるようなエリアから、そう遠くない場所で生きてきたんだ。親父は、SAVOYやPRESTIGE、FANTASYといったレコード会社で、ジャズのプロデュースとA&Rをやってた。ニューアークでレコード店の経営もしていたが、暴動が続くので、ニューブランズウィックに店を引っ越した。

親父の影響で、ガキの頃からYuseef Lateef、Hank Jones、 Lester Young、Billie Holidayなんかを聴いてた。それから、ベートーベンの交響曲第五番なんかのクラシックも。俺の口からクラシックの話なんて聞くのは予想外だろうけど、今の俺をつくったのはそういうものなんだ。

近所のヤツらは、マーティン・スコセッシの『ミーン・ストリート』の登場人物みたいだった。俺はあの映画が好きでね。内容はガキだったからよくわかってなかったんだけど、あの音楽には夢中になったね。あと、親父はビーバップをやっていたが、どんなジャンルの音楽でも聴いた。店からTHE BEATLESのホワイトアルバムを持って帰ってきて、興奮しまくってたのを覚えてる。「これを聴いてみろ!信じられないぞ!」ってね。プロデュースがとにかくスゴイって興奮してたな。親父から学んだことがあるとすれば、音楽ってものは、フィーリングとメッセージで判断するってことだ。

初めて行ったロックコンサートはTHE J.GEILS BANDだった。今でも、俺が見たことのある最高のライヴバンドのひとつだ。もちろん、それは80年代のMTVとかに出る前のことだ。昔は本当にすごいバンドだったのにな。次に行ったのはHUMBLE PIE。両方ともアッシュベリー・パーク・コンベンション・センターの公演だった。どっちもエネルギーに溢れたグループだったよ。本当のロックを始めて体験したんだ。

BLACK SABBATHのファーストを兄が買ってきた日も良く覚えている。ロッキングチェアに座ってジャケットを眺めながら聴いていたんだけど、怖くて震えあがったもんだ。でもやはりハマった。Steve Marriottがいた頃のSMALL FACESも好きだったし、DEEP PURPLEも良かったな。ちょっとブルースっぽかったけど、Jon Lordのオルガンで音に断然重みがついた。URIAH HEEPの初期2枚とか、KING CRIMSONとか、初期のプログレも聴いていたよ。そこからHAWKWINDやTHE GROUNDHOGSみたいな、もう少し無名のイギリスバンドにハマっていった。

まだ話すぞ(笑)。Frank Zappaの影響は大きかったな。音楽にも姿勢にも共感できたアーティストは、初めてだった。Zappaのインタビューを読んで、ストラビンスキーなんかの現代クラシックの作曲家を知ったんだ。Zappaはストラビンスキーの「春の祭典」みたいな曲から、「心から(Directly from My Heart to You)」みたいな曲も創れる。衝撃的だったね。彼は、自分の好きな音楽を創るだけで、他人なんて気にもしてないんだ。これこそパンクだろ!

更にZappaからCaptain Beefheartを知って吹っ飛んだ。俺にとっての運命の瞬間だ。漫画家のMatt Groeningが、どこかのインタビューでいってたんだけど、Zappaがプロデュース、というのが気になって、Captain Beefheartの『Trout Mask Replica』を買ったらしいんだ。だけど、聴いてみたら、彼には何がなんだかわからなくて、これはインチキだ、と感じたらしい。でも、ライヴで凄さがわかったそうだ。Captain Beefheartは、たくさんのメンバーと演奏した。ある時期の代表曲をコイツと、違う時期のヒット曲はアイツと、そしてまた別のメンバーを連れてくる。そんな演奏をバックに、Captain Beefheartは、今の俺みたいな声で歌うんだぜ!最高だよ。ただ集まって大騒ぎしているだけの集団じゃない。Captain Beefheartは、バンドのメンバー全員とすべてを共有していたんだ。KISSみたいなヤツらとは違った。とてつもない熱意があったんだよ。

俺にはリッキーとスティーヴという二人のいとこがいてね、みんなで婆ちゃんのところに行ったとき、その二人がオープンリールのテープで何かを聴いてた。ZappaがプロデュースしたWild Man Fischerのアルバムだったよ。『An Evening With Wild Man Fischer』。俺は9歳くらいだったと思う。男がひとりで歌ってるだけだったし、あまりにヘタ過ぎるんでね、「兄ちゃんたちが創ったの?」なんて訊いたものさ。二人が俺にZappaや他のミュージシャンを教えてくれた。二人ともウッドストックに行ったが、リッキーはJimi Hendrixの最中に寝てしまった。Hendrixは最終日の朝8時の出演だったから、客はほとんど帰っちまってた。リッキーはまだ14歳くらいだったから落ちてしまったんだな。そのことにスティーヴはいまだに文句を言ってるよ(笑)。

まだいいか?運命の出会いはまだあるんでね(笑)。スリフトショップに行ったとき、大幅にディスカウントされたレコードの山の中に、バナナが描いてあるアルバムを見つけた。そのアルバムを手に取って、友だちに言ったよ。「これ見ろよ。なんでバナナなんだ(笑)?」でも、裏を見たらLou Reedの名前があって興味を持った。彼のことをソロ・アーティストだって思っていたからな。買って聴いたら、とんでもなく凄かった。Brain Enoが「『The Velvet Underground and Nico』を買ったリスナーの2~3000人が影響を受けてバンドを始めたはずだ」って発言したのを知ってるか?俺は、その発言を信じる。だって俺もそうだったんだから。このアルバムを聴いてすぐにギターを買った。

確かに子供だったからな、音楽を聴いても俺は何もわかっちゃいなかっただろうさ。ただ気持ちに訴えかけてくることとか、笑わせてくれるってことだけはわかった。親父から受け継いだものだったんだろうな。

HAWKWINDを聴いていたなんて驚きました。そのいきさつを教えていただけますか?

兄が聴いていたんだ。最初に聴いたのは『Doremi Fasol Latido』だった。まずわかってもらいたいんだけど、俺はまだガキだった。12歳くらいだったかな。BEATLESもHAWKWINDも同じようなもんだと思ってた。おもしろいと思ったら、それで充分だ。気に入ってずっと聴いてしまう。ジャケットにメンバーのクレジットが山ほど書いてあったのを覚えてる。歌詞の意味は理解できなかったけど、エイリアンみたいな音に聞こえたんだ。兄に「何だ、こいつら宇宙人か?」そしたら兄は真顔で応えたよ。「ああ、その通りだ!」

HAWKWINDのいいところは、愛と平和なんか歌ってないことだ。政治的メッセージのあるアナーキストなんだ。だが、その反面、あいつらはそのときに起こっていることに寄り添うこともする。あいつらの音楽には愛があるんだ。

俺は、すべてのパフォーマンスには愛があると信じている。GG Allinがステージで自傷行為やションベンやウンコするのにだって愛がある。彼は憎しみから始まってはいるが、確かに愛があった。そしてオーディエンスもそれを見たがる。だから、そこには愛があるんだ。わかるだろ?

THE MENTORSにしてもそうさ。俺はEl Duceを知っているが、あいつはビールを口にするまではとても知的な男だ。午前中なら知的な会話ができる。だが、午後2時にはビールを2杯ほど飲んでいて、「糞ビッチはどこだ!!」って叫ぶんだ。周りはイケイケって囃し立てる。酷いもんだよ。

ニューアークからカリフォルニアのヘルモサビーチに引っ越したのはいつでしたか?

1974年、俺が13歳のときに親父が決めた。ヘルモサビーチに惚れ込んだらしい。ライトハウスっていうジャズクラブがあって、そこがともかく気に入っちまった。そこでブッキングをやろうとね。

だが、ヘルモサビーチはニューアークとは真逆だった。親父は、俺を育てるのにもベターな環境だと思ったんだろうが、学校での一日目に、生徒がノートの間からマリファナを出すのを見たんだ。チーチ&チョンの映画みたいだったよ。

それでは、パンクロックを意識するようになったいきさつをお願いします。

ある日、友達が3枚のアルバムを買ってきたんだ。RUSHの『2112』、THE RUNAWAYSのセカンド『Queens of Noise』、それから名前も知らなかったRAMONESってバンドのアルバムだ。彼女の部屋で、その3枚のレコードを見て「こりゃ、何だ?Rのコーナーで、目に付いた3枚を買って来たのか?」って言ったのを覚えているよ。

『2112』は半分で止めた。まったくRUSHらしいものだった。RUSHが悪いっていうんじゃないけど、もうわかった気がしたからな。『Queens of Noise』を聴いて、「よし、またRUNAWAYSが良いアルバムを出した」って思った。そして最後に「じゃ、RAMONESってヤツらのお手並みを拝見といくか」俺たちは、かなり疑ってた。格好は全然イケてなかった。Dee Deeなんて、どんぶり被ってるよ!、って感じの髪型だったしな。ジャケットはモノクロだった。フルカラーで見開きジャケット全盛の時代だったから、ただ安っぽいだけのアルバムに見えたんだ。

そいつをかけたら、信じられなくて、終わるまで二人とも黙り込んでしまった。曲に合わせてずっと頭は振ってたけどな。片面が終わったら、またかけて、聴き直して、それからまた聴いて。それを午後いっぱい続けた。3週間ぶっとおしで片面だけ聴き続けたんだ。ようやく「もう片面も聴いた方がいいな」ってことになって、今度はそっちを3週間聴き続けた。

だけどパンクってものは、パンク・ロックより遥か前に生まれたライフ・スタイルのことなんだよ。我慢できないヤツの生き方。ゴッホもCaptain Beefheartもパンクだ。「オマエに好かれようが、嫌われようが、知ったこっちゃない。俺のやることが嫌いでも構わない。オマエはオマエで自分のやりたいことをやりな。だが、何もしないのなら出てってくれ!」そんな感じだろ。

繰り返すけど、俺に関しては親父から受け継いだものだ。俺がある程度の年齢になると、親父がアドバイスしてくれた。「好きな本を読めばいい。内容をきちんと理解して、自分の意見を持てるならば」。この言葉は、本当に心に染み付いていた。だから高校を中退してからも、海の近くのレドンド・ビーチ図書館によく行ったよ。

どうして高校を中退したのですか?

だんだん行かなくなったって感じかな。俺が入学するときに、通学区域が変わってね、街の反対側の高校に行かなければならなくなった。そこにはマンハッタン・ビーチのスノッブなヤツらが、たくさんいてね、俺たちのようなレドンドの人間は、学校に来て欲しくなかったみたいなんだ。それに、婆ちゃんが死にそうだったから、ニュージャージーに行くことも多くなってね、かなり学校を休んだんだ。一段落して高校に戻ったら、かなり勉強が遅れていた。でも、もうどうでもよかったけどね。俺にとっての高校時代は、ギター、図書館、レコード屋、トラブル、そしてマリファナを持ってるヤツ、ビールを奢ってくれるヤツを見つけることだった。

BLACK FLAGとの出会いを教えてください。

親父が毎週末に、家の前でガレージセールをやってたんだけど、大体店番は俺に任せて、本人はビーチでカクテルを飲みながら、ビーチバレーをやってる女の子の写真を撮ってた。いい親父だろ?

ええ(笑)。

それで俺は、店番しながらBRIAN ENOか何かを流してた。外でも聴こえるように、スピーカーを窓にくっつけてね。そしたらバンドの名前をマジックで書きなぐった白いデニムジャケのヤツが近づいて来て、「こういう音楽が好きなのか?」「いや、近所に迷惑をかけたいだけだ」それがRon Reyesだった。俺たちは親友になり、一緒にパンクロックのライブに行くようになったんだ。

ある日Ronに、「PANICってバンドが、空いている教会で練習しているから見に行こう」って誘われた。で、行ってみたら、ヘルモサビーチ警察署の真ん前でビールを飲んでるヤツがいたんだ!Ronが「アイツがChuckだ。PANICのベースだよ」って教えてくれた。Chuckに話しかけたら、「もうすぐ始まるから、それまで教会待ってろ」って返事がかえってきた。ヤツらはすぐに名前をBLACK FLAGに変えた。そして俺はファンになったんだ。

そのBLACK FLAGにボーカルとして加入したいきさつは?

Keith Morrisが辞めたあと、Ron Reyesがボーカルになったんだけど、ヤツはバンクーバーに引っ越すんでバンドも辞めたんだ。ある日教会に行ったらChuckが外にいた。車のトランクが開いててね、ビールが1ケース入ってた。

トランクに入っていたぬるいビールを飲むのですか?

そうだ。Chuckが勧めるのは、そういうビールだ。で、言われたのさ、「ボーカルのテストを受けないか?ライブではいつも合わせて歌ってたじゃないか」って。それで教会に入って4曲か5曲歌ったら、Chuckが「オーケー。じゃ、1週間後にツアーに出るから」って言い出した。信じられなかったよ。俺はただのファンだったんだぜ。

当時のLAで、BLACK FLAGにまつわる騒動を覚えていますか?

ああ。BLACK FLAGは結成当初から攻撃されっぱなしだったよ。コンサバな郊外出身のちょっとアグレッシブなガキどもが、ポゴを踊ったり、ちょっと酔っぱらって転んだりしてたんだけど、だんだん攻撃的になってきて、スラムダンスを始めたんだ。スキンヘッドにバンダナでも巻いてなければ、誰彼構わず狙われる感じだった。

オレンジ・カウンティ辺りの連中もライヴに来るようになって、BLACK FLAGは、少しずつ人気が出始めた。自分たちでライブを企画したら、1000人も客が集まったんだ。ウィスキー・ア・ゴー・ゴーとか、マフィアみたいな店が俺たちをブッキングしようとしたのもこの頃だ。だけどある日、最悪なことが起こった。1日にライブを2回やる企画だったんだけど、最初の回の客がまだ出ていないうちに、2回目の客を入れようとして、そこで騒ぎが始まった。機動隊も来たんだ。2階の楽屋から見ていた俺には、すべてがスローモーションに感じられた。客たちが、機動隊にビール瓶を投げつけて、誰かのヘルメットに当たった。その後はもうカオスさ。次の日の新聞には「Riot On Sunset Strip part:2」(1967年公開の映画)なんて書かれたな。

自分たちでライブを企画していたけど、メディアが「ハードコアパンクは悪だ」と決めつけるようになってね、でもそれが逆に火に油を注いだ。もっとたくさんのキッズたちが、ハードコアに興味を持つようになったのさ。自分たちが住んでいるのは、のどかな町だし、やることがないから、そんな刺激的で暴力的なところが魅力だったんだろう。メディアはいつだって、警察じゃなく、俺たちを悪者にしていたからね。俺たちは暴動を煽る気なんてなかった。みんなに来てもらって、俺たちの音楽を楽しんでもらいたいだけだった。

そして、コンサバな郊外出身のヤツらもすぐにバンドを始めたが、皮肉なことに揃ってコンサバなバンドだった。ウンパ、ウンパ、っていう速いリズム。コンサバ・ハードコアパンクだ。そんなのがアメリカ中のシーンに広がったよ。BLACK FLAGを見て、みんなバンドをやりたくなったんだろうけど、俺たちはパンクロッカーみたいな格好をしていなかったし、チープな古着ばかり着てた。何より、BLACK FLAGのリズムは、ウンパ、ウンパ、じゃなかったしな。

アメリカ中で、ハードコアパンクのブームが起きたのは、それから間もなくのことでしたね。

おかしなもんだよな。79年にはニューヨークとかイギリスは、ロサンゼルスを新参者だと見下してたのにな。でも、FEARやCIRCLE JERKS、そしてBLACK FLAGの登場で、ロスからハードコアの流れが始まると、みんなが俺たちにひれ伏した。突然、ボストンでもD.C.でもニューヨークでも、ハードコアの音楽シーンが現れて、それまでイケてたニューヨークのバンドがダサくなってしまったんだ。

イギリス・ツアーはいかがでしたか?

あまり歓迎されなかったね。イギリス人にとって、パンクはスタイルがすべてなんだ。俺たちは「アメリカ最高のハードコアパンクバンド!」って触れ込みだったのに、長髪にヒゲ面、橋の下に住んでるホームレスみたいなのが現れたんだから、客にしてみたら「ズコッ!」て感じだよな。EXPLOITEDと回るはずだったんだけど、やりたくなくなったらしく、ボーカルのWattieが脚を折ったってことにされたよ。結局ヘッドライナーとしてツアーの全日程をやったんだ。

二度目にイギリスに行ったときは、もう少しマシな扱いを受けたけど、それでも散々な目にあった。ロンドンの100クラブでプレイしてたときのChuckほど、気の毒に思ったことはなかったよ。スキンヘッドのガキがさ、カップに小便してChuckにぶっかけたんだ。ビールみたいに見えるから、最初は何だかわからなかった。でもヤツは気づいてしまった。Chuckはアンプの裏から出て来れなくなった。思い切り吐いてたんだ(笑)。

BLACK FLAGを辞めた理由を教えてください。

歌っていてハッピーじゃなかったんだ。ボーカルになるなんて、少しも考えたことなかったしね。頼まれたときには、ファンだったバンドに入ることしか考えてなかったから、やってくれ、とお願いされたら何でもやるつもりだった。本当に情熱を持ってたからな。今考えると、あれが「歌ってた」って呼ぶことすら笑える。

それで、ギターにチェンジしたんだけど、音楽的に成長してきて、自分の音楽をやりたくなったんだよ。それでメンバーに「自分のバンドをやりたい」って言ったら、わかってくれたんだ。自分の音楽性をフルに活かせることをやりたかった。「ハードコアなんて糞くらえ!」ってね。モヒカンなんて勘弁してほしかった。自分らしくあることだけでよかったんだ。でも、もちろん、BLACK FLAGは俺にとって大きな意味を持つプロフェッショナル集団だった。

そしてD.C.3を結成したんですね。

D.C.3では、パンクをやってるヤツらに、「パンクはモヒカンにすることじゃない」って示そうとしたんだ。心はパンクだが、俺たちだけの音楽をやろうとした。でも、残念ながら、聴きたヤツがいなかった。だって、2分の曲があっても、それをワザと長くしてジャムったりしてたからな。MOUNTAINがやりそうなことだな。

でもパンクスに好かれなくても俺は気にしなかった。やりたいことはこれだったからな。金が欲しかったのなら、「DEZ CADENA & THE HARDCORE GUYS」なんてバンドを組んで、ど真ん中のハードコアやってたよ。

BLACK FLAGとツアーもやったな。しばらくそんな感じで、1984年にシーンはまた変化したと思う。MEAT PUPPETSが新しい流れを創ったんだ。アルバムを出すごとにヤバくなっていった。ファーストからサードの『Up On The Sun』まで続けて聴いてみな。本当にすごいバンドだったね。

あの時期、SSTのアーティストは、意識的にパンクスを挑発していたような気がします。

俺たちは、また髭を生やして髪を伸ばすようになったからね(笑)。パンクスたちは本当に嫌がったね。面白い話をしてやろうか。実はな、今じゃ俺も髭は嫌いなんだ!マジだぜ!最近はみんなが髭を生やしてる。俺はここしばらくちゃんと剃ってる。髪はずいぶん長いこと伸ばしていたが、2~3ヶ月前に切った。放射線治療があったからね。

で、89年までD.C.3をやって、90年代はVIDAをやった。あと、CARNAGE ASADAっていうバンドも。ベース3人とチェロ1人、ドラム1人とギターの俺、それから死んだ友だちのことを喚き立てるメキシコ系のヤツとな。またガンズのDuff McKaganと友だちになったのもその頃。一緒にLOADEDもやったよ。

そしてMISFITSですね。

MISFITSでやるようになったのは、まったくの運だよ。2001年にJerryが実家に電話をよこした。家に帰ったときに親父が「Jerry Nobodyとかいうヤツからお前に電話があった」と。俺はしばらく考えて「…Jerry Onlyのことか?」「それだ!!」だってさ。

Jerryは、MISFITSがツアーをやってるいから、俺にスペシャルゲストとしてBLACK FLAGの曲を歌って欲しいって言われた。東海岸ツアーだけのはずだったが、Jerryに「楽しんでるか?」って聞かれた。「ああ」と答えたら、結局そのまま全国ツアーもやることになって、最終的にメンバーになったのさ。今は病気のことがあって一緒にやれなくなったけど、今でも俺はMISFITSのファミリーさ。

MISFITSでプレイするのは、神の恵みでもあり呪縛でもあった。Jerryは俺に音楽で食っていけるチャンスをくれて、それは本当にありがたいと思ってる。だが、MISFITSの一員でいることは、何か犠牲にしなきゃならないことでもあるんだ。やることなすこと気に喰わない、そんな時期が人生にはある。何もかもうまくいくわけじゃない。フザけたメイクをしているバンド・メンバーになるのに、四十年もかかるとは…笑えるよな(笑)。まぁ、誤解しないでくれ。俺はMISFITSを愛している。だが、俺にとってイメージは重要じゃない。音楽だけなんだよ。

子どもの頃、親父に、金のために音楽をつくるようになったらおしまいだ、て教わったんだ。それなら他のことをやったほうがいい、と。誠実さ、確信、音楽への熱意、メッセージこそが、人に影響を与え記憶に残るものだ。金じゃない。

何がきっかけで咽頭癌を患っているとわかったのですか?

2014年、声が出なくなってきていた。いつものように、歌い過ぎやタバコの吸い過ぎ、そしてツアーのやり過ぎ、その程度だと考えてたんだ。喉を休めてお茶を飲むようにしていたが、一向に良くならなかった。秋のツアーの頃には、声がまったく出なくなった。Jerryが「医者に行け」って忠告してきたのは、その頃だった。ロスでのライブのあと、医者に行ったらポリープが見つかった。歌うのを止めて検査を受けろと命令された。クリスマスの頃に家に帰って医者に診てもらって、正式に診断されたんだ。

3月にポリープを除去して、声が出るようになった。ちゃんと歌えたんだ。だが、放射線治療が終わったばかりで副作用が出ている。声帯がひどい日焼けのような状態になった。だから、今はこんな声をしてる。実際のところ、こんなに長く話したのは久しぶりだ。日に日に良くなってる実感がある。ゆっくりと持ち直してるんだ。放射線の影響からも回復してる最中だ。化学療法をやらずにすんでラッキーだった。もっと大変らしいからな。

こんなことになった理由は、子どもの頃からタバコを吸ってきたってことだけだ。他人にああしろ、こうしろ、と指図するのは好きじゃない。説教するタイプでもないが、一言だけいいか。タバコさえ吸わなきゃ大変な目にもあわないし、金もかからないぞ。今の俺は体力的にも金銭的にも大変なことになってるんだからな。

現在は静養中ですよね。どんな日々を送っていますか?

この前はみんなが来てくれてね、地下室でジャムったよ。ギターを持ってくる必要はない、うちに何でもあるからな。音楽っていうのはひとつの存在だ。演奏してるヤツだけでなく、いろんなところから来るものなんだ。宇宙から来ているかもしれない。それは、表現者を通して拡散していくものなんだ。

俺には宇宙全体がひとつの大きく鳴り響く音のように思える。惑星、星雲、動物、そして人間。それぞれが、その音のオーバートーンかアンダートーンなんだ。つまり、今俺がしゃべっている言葉は、その大きく響く音の一部だ。屁をこいたら、それもその一部だ。呼吸のひとつひとつも、その一部なんだよ。俺はそのくらい音楽ってものを信じてる。

FUNKADELICの「Biological Speculation」って曲を知ってるか?こういうやつだ。「俺たちは生物的な偶然に過ぎない。ここにバイブスを感じながら座っていて、何で感じてるのかわかりもしない。俺の動物的な勘が自分を守ろうとさせる。死ぬべき時に生きようとさせる」

この歌が俺に伝えてくれるのは、自分のバイブスは肉体が地上で生きていようがいまいがずっと存在し続ける、ってことだ。俺にはすべてのものが音楽に観える。すべては神だ、と思うヤツらと同じような感じだ。どんな見方をするかは個人の自由だ。だが、俺はすべてが音楽だと信じている。

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