Who Are You?:塚本晋也さん(57歳)
映画監督

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Who Are You?:塚本晋也さん(57歳) 映画監督

「その日はすごいスペシャルデーでした。手を洗って、おしっこも充分に振り絞って(笑)」

いきなり編集長が、「〈焼魚〉って苗字だったら、なんて名前がいいと思いますか?」と訊いてきました。「めばる…かな。〈焼魚めばる〉です。女の子です」と答えたら、「いいですね。私だったら、なめろう、です。〈焼魚なめろう〉です。こっちは男の子です」と返してくれました。最高の名前だと思いましたが、なめろうは焼魚じゃないし、それになんでいきなりそんな質問するんだろうと不思議でした。結構長い付き合いですが、まだまだ知らないもんですね。

日々の生活の中で、私たちはたくさんの人たちとすれ違います。でもそんなすれ違った人たちの人生や生活を知る術なんて到底ありません。でも私も、あなたも、すれ違った人たちも、毎日を毎日過ごしています。これまでの毎日、そしてこれからの毎日。なにがあったのかな。なにが起るのかな。なにをしようとしているのかな。…気になりません?そんなすれ違った人たちにお話を聞いて参ります。

塚本晋也(つかもと しんや)さん(57歳): 映画監督

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このたび〈VICE PLUS〉にて、塚本監督の作品を順次配信させていただくことになりました。それを記念してぜひお話も色々とうかがわせてください。

はい。よろしくお願いします。

で、早速ですいませんが、東京ガスのCM、最高ですね!

はい。あれはいい企画でしたね。「よくぞ呼んでくださいました! 」という感じですよ。いわれたことをやっただけなんですけど。「アドリブとかもやった方がいいかな?」と思いましたが、短い中で多くのことを端的に表していかなければならなかったので余計なことはしませんでした。必要なことだけをして、ワンテイクでどんどん撮りました。

唐揚げの「君! 6個目だぞ!」ってところもですか?

あれは2回くらいでしたけど、ハレルヤの歌は1回です。

はい(笑)。監督は、お子さんはいらっしゃるんですか?

うちは中学校3年になったんです。

女の子ですか?

男です。女の子の親の気持ちはちょっとわからないんですけど、あのCMをやってるうちにだんだんわかってきましたね。女の子だと心配しすぎて辛いですね。男だったらいいですけど。

じゃあ息子さんには心配していないと。

まあ、普通の心配くらいですね。3年生になっちゃったから受験だしなあ、みたいな。女の子だったら心配しすぎて、居ても立っても居られないんじゃないですかね(笑)。

でも中3だったら、息子さんはやんちゃな時期じゃないんですか?

ある意味やんちゃですけど、外で暴れているという感じではありませんね。絵を描いたりとか、どちらかというとオタク系なんですよね。外で活発に活動するというよりは、物をつくったり、描いたりする方が好きみたいですね。

監督の小さい頃はどうでしたか?

あんまりやんちゃという感じではなかったですね。僕も息子と同じタイプでした。元気に遊んでいた記憶もあるので一概にはいえないですけど、基本的には内向的、恥ずかしがり屋ですよね。

ご出身はどちらなんですか?

ずっと東京です。高校生くらいのときまで原宿でした。

原宿ですか! スゲエ!!

いえいえ、表参道あたりがお洒落なだけで、ちょっと中に入ると普通の住宅街なんですよ。生まれて2歳くらいまでは下北沢にいたっていうんですけど、記憶は全然ありません。そこから高校生までは、渋谷と原宿を結ぶ動線が自分の原初的な風景です。

もちろん小学校も原宿の近くにあるんですよね?

はい。渋谷小学校です。

渋谷小学校なんてあったんですか? ど真ん中すぎて、まったくイメージが沸きません。

宮益坂上、こどもの城近くにあったんですね。今はなくなっちゃいましたが。

小学校のときは、どんなことをして遊んでいましたか?

そういうわけで、まわりにコンクリートしかないから、大自然にいそしんで…ということはありませんでしたが、ただ子供ですから、野球をやったり、ドッジボールをやったり、缶蹴りをやったりとか普通に元気にはしてましたけど。絵を描くのが好きだったので、ノートに漫画はよく描いていました。あと、江戸川乱歩の少年探偵シリーズにすごく没頭していたので、少年探偵ごっことかをしていましたね。探偵手帳を作って。あの頃は空き家があったので、勝手に中に入ったり、あと戦争の名残で防空壕がひとつ残っていたので、そことかも探検しましたね。

やはり、東京のど真ん中はクラスも少ないんですか?

ものすごく少なかったですね。20数人のクラスが2クラスしかなかったです。

じゃあ6年間、ずっと知ってる顔で?

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はい。アットホームな感じでした。

初恋とか覚えてらっしゃいます?

覚えてますね(笑)。覚えてますけど、ちょっと(笑)。恥ずかしいですね(笑)。

(笑)。何年生のときでしょうか?

5、6年生のときだと思うんですけど。

交換日記とかしたんですか?

そんな積極的なことは(笑)。まず話をしませんからね。

ええ? おしゃべりしないんですか?

どちらかというと自分たちが小学生のときは、男子と女子できっちり分かれていたのです。男子は男子、女子は女子で遊んで。男子がすることは女子は嫌いだし、女子がすることは男子は嫌いだし(笑)。敵対まではしないんですけど、そういう関係でしたから。今の子とは違いますよ。

じゃあ眺めるだけたったんですね。外で野球をやって、探偵ごっこをやって。お家ではテレビですか?

テレビはむっちゃ見てましたね。テレビがぐわっと来た時代です。白黒からカラーになったときですからね。本当に昔を生きてたんだなと実感しますね。『巨人の星』はカラー放送だったんですけど、うちは最初白黒のテレビで見ていたんです。

カラーテレビになったときのことは覚えてますか?

もちろんです。その日はすごいスペシャルデーでした。手を洗って、おしっこも充分に振り絞って(笑)。テレビの前で、「今日は特別!」って感じで、体のコンディションを最高にして、お水を飲んで喉を潤し、すごくいいコンディションで臨みましたね(笑)。そして初めてカラーの『巨人の星』を観ました。

その頃の『巨人の星』ってどのくらいの時期だったか覚えていますか? 大リーグボールでいうと1号あたりですか?

大リーグボールでは覚えてないですね(笑)。でも花形が大リーグボール1号を打つところと、『あしたのジョー』で、力石とジョーが闘うところはビッグイベントでしたね。作画監督が両方とも同じ人なんですよ。

そうなんですか!

作画監督が一本のアニメに対して、何人かいるみたいなんですけど、自分が没頭したふたつのシーンの作画監督が同じいうことは後でわかったんです。『あしたのジョーをつくった男たち』という番組で、僕がナビゲーターみたいなのをやらせてもらったんですけど、そのとき初めてお会いして、目がハートになりまして。ジョーの絵を描いてくれました。でも作画監督の方っていろんな絵を描かないといけないので、いただいた絵も少し他のアニメの主人公に似ていました(笑)。今ももちろん大事に飾らせてもらっています。

力石との試合というのは、鑑別所の中の試合ですか? ちゃんとした試合の方ですか?

ちゃんとしたプロの試合の方ですね。格好いいんです。あとその前に、ジョーが少年院に入れられちゃう前に丹下段平にめちゃくちゃにぶん殴られるところがあるんですけど、ここもすごい描写なんですよね。

私がすごく覚えているのは、力石が豚と豚の合間をぬうところです。

あそこは違う作画監督なんですけど、すごいワザがあるということがあとでわかったんです。流してみると豚を避けているように見えるんですけど、コマで見ると、かなり少ないコマでああいう風に見える効果を狙ってるんです。コマで見ると別にくぐり抜けてねえぞって感じなんですよ。

では、もうひとつの花形のシーンがお好きな理由も教えてください。

パットに当たってくる恐ろしい力を持った玉を打ち返すんですが、そのデフォルメした線のダイナミズムがものすごいんです。あの絵は本当にビックリでした。

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やっぱりその頃は巨人ファンだったんですか?

うーん…そういう訳でもないですけどねえ。父親はアンチ巨人で、巨人の試合ではいつも相手を応援してました。おへそ曲がりの父親なんです。無口でおへそ曲がりですね。子供の頃は、案の定野球をやってましたけど、全然上手くなかったですね、日曜日に朝の4時に起きて、練習に行ったり。〈神2パイレーツ〉という名前なんですけど。神宮前2丁目のパイレーツです。

監督は補欠だったんですか?

補欠中の補欠ですね。補欠にも入ってないくらい。相手にされてないような。

でも野球はお好きだった?

好きというか、当時の子供は大概やってたんですね。

野球以外のスポーツはやってなかったんですか?

個人競技の方が得意でしたね。かけっこがめちゃくちゃ速かったんですよ。あとは走り高跳びとか。

走り高跳びって、あまりやるシチュエーションがなさそうな(笑)。

小学校の授業であったんですよ。でも当時は安全マットなんかなくて、下は砂だけ。跳んだら跳んだ分だけ下まで落ちて、高く跳べば跳ぶほど、ダメージが大きいんです(笑)。頭から落ちるので口の中に砂が入ります(笑)。

ってことは、はさみ跳びとかじゃなくて、背面跳びですか!

背面まではいきませんけど、思い切りジャンプすると、体がまっすぐじゃなくなるので、ズシャッ!という感じで落ちたりなんかしてましたね。

ハードな競技ですね(笑)。

それで小学校のときに、渋谷区の競技大会に出るくらい個人競技は得意だったんですよ。国立競技場でやるんですよ。

すごいですね! 小学校の区大会が国立競技場だなんて!!

でもそこに行くと、もう小学生とは思えないような、自分の目線からするともう大人じゃないか? というような、筋肉隆々の大人みたいな小学生がいるわけですよ。自分がちっぽけに感じました。圧倒的な物を見せつけられて。やっぱり世の中は広いなあと思いましたね。こんな話をしたのは初めてですよ(笑)。

ありがとうございます! それでは中学生に参ります。何中学校ですか?

原宿中学校です。

これまたインパクトありますね(笑)。

でも本当に小さい、すごく小さい、校庭も猫の額くらいしかないような学校でした。

どの辺にあったんですか?

表参道をはさんでキディランド側に自分の家があったんですけど…

キディランドがすごい(笑)。

反対側の表参道を渡って、同潤会アパートの、そのちょっと行った先にありました。ほとんどの生徒は、松濤中学という、渋谷の繁華街の方に通っていて、ちょっと皆大人になった感じだったんですよ。原宿の猫の額の中学に行くというのは、本当に小学校の延長みたいな。アットホームすぎるような。まだ子供を延長するような印象がありましたね。

中学校のときも野球ですか? それとも高跳びの陸上部ですか?

中学は、運動と文化部と両方一個ずつ取らないといけなかったんです。運動はハンドボールですね。あんまり上手くなかったですけど。

いきなりハンドボールですか! 興味があったんですか?

どうしてやったのかわからないですね(笑)。それなら出来ると思ったんですかね。でもやっぱり個人競技の方が得意で、授業で走り高跳びでは高く飛んでいました。またしてもマットがない砂場に落ちるので、立ち上がると、小さい校庭を取り囲む校舎の窓から生徒たちが拍手してくれびっくりしたのを思い出します。青春ですね。そして口には砂が(笑)。

(笑)。じゃあ、文化部の方は?

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確か美術部と気まぐれで写真部に入ったこともあります。皆は立派なカメラを持っているのに、僕はお父さんが貸してくれたカメラでした。父親はすごくカメラが好きで、立派なカメラを持ってるんですけど、僕には絶対に貸してくれません。これならいいって貸してくれたすごく小さなチンケなおもちゃのようなカメラを持って行ったので、すごく恥ずかしくて。恥ずかしい気持ちがいつもありましたね。小学校のときも中学校のときも。

ご自身に対してですか?

そうですね。今思えば勝手にコンプレックスを持っていただけかもしれないんですが。子供のときからこんなに腕の毛が生えてましたから(笑)。これもすごく恥ずかしくて。

とても立派ですよ!

足はツルツルだったのに、腕は最初からふさふさなんですよ。

剃ったりはしなかったんですか?

剃りませんよね(笑)。

私は初めて女の子とプールに行くとき、胸毛と腹毛が恥ずかしかったので剃って行きました。

ああ、確かに剃ればよかったのかなあ? それは思いつかなかったですね(笑)。

ハンドボールは、3年間きっちりやったんですか?

いえいえ。運動はやらなければいけないから選んだまでで。あとは何をやったけかな。学校のこととは別に映画を作りたい、ということに本気になったのが中学校2年生くらいからです。8ミリのカメラを父親が買ったんですね。僕のためではなくて、父親自身のために買ったものなのですが、それを横目に見ながら、「あれで映画をつくりたいなあ」とか、「アニメーション出来ないかなあ?」とか。

カメラを借りて撮り始めたんですか?

はい。あとは父親が商業デザイナーだったので、その影響も受けていて、実際に父親が描いている姿を見た訳ではないんですけど、本当に血ってあるのかも? といった感じで、絵を描くのも大好きでした。絵を描くことと、映画を見ることが主流になったんです。あとは演劇ですね。小学校4年のときに学校演劇をやったんですが、それまで本当に恥ずかしがり屋だったのが、ものすごく開眼したんですね。それで中学校でも演じることには積極的になりました。

それは学芸会みたいなやつですか?

そうですね。

何の役をやられたんですか?

屈折した少年の役です(笑)。主人公がいて、それに対して屈折した良からぬことをする役だったんですけれど、これがとてもうまくいったものですから、自分の映画でも自分の役は結局今も同じなんですよ(笑)。そのときの体験が未だに。

開眼されたといわれましたが、どんな感じだったんでしょう?

稽古をしてるときに空が真っ青に見えました。それまでは恥ずかしがり屋で、ハラハラしてた。とにかくドキドキしてたんですけど、青空が広がったんです。

腕の毛も気にならなくなっちゃうくらいですか?

毛はどうだったか忘れましたけど(笑)。

女子に対しても積極的になったりとかは?

女子に対しての積極性は相変わらずなかったですね(笑)。3年生になるとけっこうモテましたけど、自分の方からは・・・。

(笑)。ではテレビに出ている好きなアイドルとか、女優さんとかはいませんでしたか? 多感な時期ですよね?

高校生のときはいました。

どなたですか?

原田美枝子さんですね。

お綺麗な方ですよね!

『大地の子守歌』という映画の演技がものすご過ぎて。その世界を体現されていたんです。学校の帰り道にある映画館に『大地の子守歌』の写真が貼ってあったんですけど、「それ、終わったらください」って頼んだ覚えがあります。くれませんでしたけど(笑)。

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お仕事を始めて、実際に原田美枝子さんとお会いになったりは?

37歳のときに『竹中直人の会』というお芝居で共演させてもらいました。確か兄弟の役だったと思います。嬉しいは嬉しかったんですけど、仕事となると別というか(笑)。そのときはファン意識はなかったですね。非常に緊張して、ただ一生懸命やってました(笑)。でも一回だけ心をファン意識にして、『大地の子守歌』のパンフレットと原作本を持って行き、「サインしてください」と頼みました。

ずっと持っていらしたんですね(笑)。

もちろんです。でも、「これが『大地の子守歌』の頃だったら、どんなになっちゃってたでしょう、私」なんて、口を滑らせたら、「ごめんなさいね、薹が立ってて」といわれました(笑)。「そういう意味じゃないんです!」っていいましたけど(笑)。口は災いの元だなと。ですから、いつも確認してから喋るようにしています。このままいって大丈夫かな? と(笑)。

(笑)。今日はこのままいってください。そして映画ですが、中学校のときはどんなものを撮っていたんですか?

怪獣映画です。円谷一さんの『特撮のタネ本』という本がありまして、それをバイブルに。

それを読めば、特撮映画がつくれたんですか?

はい。わりと素人が撮れるような方法が書いてありました。ボロボロになるまで図書館から借りてですね、それを参考にやろうとしたんですけど、怪獣のぬいぐるみだけは子供が手を出せないような材料だったので、お父さんのパジャマをお母さんからもらい、それに発泡スチロールを付けて怪獣にしようと思って、発泡スチロールをボンドで付けたんですよ。黄色の昔からあるボンドです。でもそうすると、ボンドが固まってカチカチになって、ズボンに貼るとキューっとなって足が入らないんですね(笑)。それで怪獣を諦めてですね、結局やったのは水木しげるさん原作の『原始さん』という、原始人があるとき突然町に現れて、都会を破壊しだすという漫画があったのでこれをやろうと。これだったら裸に布を巻いてればいいわけですよ。ビルだけはつくろうと思って、友達に原始さんをやってもらって。学芸会で開眼していたので、私自身も出演しました。

『原始さん』は公開したんですか?

はい。中学校3年生のときに、〈図書室300人ビッグイベント〉という、イベントをやろうと決めまして。300人というのは、全生徒数です。僕はずっと図書委員だったんですね。本が好きなものですから。それに昔の図書館って木の床でいいんですよ。そんな場所も好きだったので、図書委員長になって、その300人イベントを企画したわけです。でも、ただ8ミリを上映させてくれ、といっても上映させてくれないので、〈学年別!読まれている本ベスト10!!〉とかを模造紙に書いて、図書室らしいイベントにかこつけながら、自分の8ミリ映画を上映しようと作戦を立てたんです。

計画犯ですね(笑)。

更に、自分のお友達に放送委員長になってもらったり、朝の集会の集会委員長も自分の友達になってもらって、周りを固めていったんです。ビッグイベントですからね、盛り上げなくてはなりません。それで集会委員長の友達が全校生徒の前で大事な話をしたあとに、続けてビッグイベントの告知を無許可でやるわけです。すごくギャグを入れ込んで。

どんなギャグですか(笑)?

武田鉄矢のモノマネです。帰りの電信柱の横で練習してました(笑)。「働いて、働いて、働きぬいて」っていうフレーズです。「母に捧げるバラード」ですね。「働いて、働いて、働きぬいて、イベントを準備しました」って。これが大ウケしましてね。ある先生には怒られ、ある先生には褒められみたいな。それでビッグイベントをやったら、まんまとお客さんが300人集りました。

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おめでとうございます! 『原始さん』の評価はいかがでしたか?

「これ映画?」っていう人もいれば、結構喜んでくれた人もいました。

ちなみに当時の中学生って、どんな映画を観ていたんでしょう?

みんながどんな映画を観ていたかはわかりませんが、テレビで観た『大脱走』には盛り上がりました。渋谷に洋画の2本立ての見せる映画館があったので、これを観に行くのが楽しみでしたね。

監督はどんな映画をご覧になっていたんですか?

チャップリンの映画とか、『バルジ大作戦』などなど。「男と女」とか「個人教授」とかも見ました。最初は、ワーゲンの車を擬人化したような映画をやっていたので、それを弟と観に行きたいと母親に頼んだんです。「ディズニーならいいわよ」ということで、お金をもらって行ったら、一週間で公開映画は変わるということをわかっていなくて、違う映画…『ソイレント・グリーン』になっていたんですね。電話ボックスから電話して「違う映画になっているんだけど、観てもいい?」って許可をもらって観ました。人間を緑色のチップにしていく話なんです。そこから映画の世界に入りましたね。大事な体験でした。

その頃から大きくなったら映画をつくりたい、お仕事にしたいなというのはあったんですか?

今も思い出せるんですけど、結構今と同じようなモチベーションで映画をつくりたいという気持ちがありました。小学校のときは漫画家になりたかったんですけど、中学校になったら映画をつくりたいと。ただそのとき観た映画で『男と女』を作ったクロード・ルルーシュの映画とかが、大きなハリウッドみたいな規模じゃなくて、個人的な規模で作っているというのを知ったんですね。そういう方法で出来ないかな? という考えは、そのときから持っていた記憶があります。個人の映画会社とか、特撮もあまり人には頼らないで、ミニチュアも自分でつくって壊したりするスタイルですね(笑)。でもまだ漠然としていましたが。

そして高校生活です。普通高校に行かれたんですか?

いえ、美術の方をちゃんとやろうと。父親も美術大学でしたし、自分も何をやるにしても美術を基本にしようと父親と話していたんです。でも都立の美術だと、大学で受験しなくちゃいけないのがイヤだったので、私立の美術高校に行きました。大学に繋がってる高校です。

じゃあ高校生からずっと美術の勉強を?

はい。高校生のときは木炭デッサンから、鉛筆デッサンをやって、それから油絵になっていくような、いわゆるオーソドックスなコースで勉強しました。映画の方はいわゆるそういう学校に行くとか、勉強したことは一回もありません。

部活動は?

そこの高校は、「美術をやりに来たんだろ?」という感じで、他の部活を許さなかったんですよね。

ああ、かなり本格的なんですね。

どうしてもやりたい人はやっていいんですけど、先生からは、「何でこの高校来たの?」 というような目で見られる感じでした。とにかく朝も学校が始まる前に1時間くらいデッサンしないといけない。朝5時くらいに起きて7時くらいには学校に着いて、8時半からの学校が始まるまで絵を描いて、学校が終わってからも絵を描かないといけないという。一学期に2回テストがありますから、ほぼ絵と勉強しかないんですけど、その隙間に映画とかをつくりたいという気持ちがモクモクと湧いて来ていました。

お忙しいですね。女の子とのお付き合いとかもなかったんですか?

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僕はそういうのが本当にないんですよ(笑)。

悶々とした時期は?

悶々とはずっとしていましたね。若くて悶々としないというのはありえません。悶々と妄想の世界ばっかりやたら膨らむけど、とにかく内向的でしたので。

当時はもちろんインターネットとかもないですから、その悶々を払うのは、エロ本くらいですよね。エロ本は買っていましたか?

エロ本はどうだったかなあ? 高校のときはエロ本買ってないですね…いや、それより前、中学時代にありました。初めて買ったエロ本がSMマガジンでした(笑)。

いきなりですか!

はい。中学校のときに友達とエロ本を買いに行こうと。今日はエロ本を買いに行く日だと(笑)。

カラーテレビと同じスペシャルデーですね!

渋谷の大盛堂という本屋さんですね。そこで平凡パンチを買いに行ったんです。

いいですね(笑)。

友達はプレイボーイを。

両横綱ですね(笑)。

でもそのときの平凡パンチの表紙の女の子が、目当てにしていた女の子じゃなくなっていたんですね。いつも一週間ずれますね。「平凡パンチは嫌だな。違うの、ないかな?」と探して、SMマガジンがそんな内容とは知らずに開いたら「うわ! すげー!」と。平凡パンチの広告は普通なのに、「SMマガジンは広告もエロばっかりだー!」って(笑)。これはすごいと思い買いました。そのときの店員さんは女性だったので、気まずかったんですけど、「気まずいな」ってちょっと思ったくらいで、買えました。家に帰って読みましたが、SMマガジンは後々まで大事なエロの原型を僕につくってくれました。そのときに読んだエロが大した発展もせずに『六月の蛇』(2002年)という40歳を過ぎてからつくった映画のSMシーンに役立ったんですけど。

すごいですね!(笑)

小学校のときから本を読むのが好きで、江戸川乱歩の少年探偵シリーズが大好きだったんですけど、少年探偵シリーズの何がいいかというと、やっぱり乱歩さんの密室性といいますか、大人になってからの乱歩の小説というのは、モロ密室の際どいものになってくるんですね。その感じは小学生向けの少年探偵シリーズにも、ハッキリはしていないんですけど、プーンと香っていました。大人版では『人間椅子』っていう、椅子の中に人が入っていて、女の人が座って喜んでるやつとか、『屋根裏の散歩者』は、屋根裏から下で寝ている女の人の口の中に唾をたらして喜んでいる男の話とか、そんな密室性がすごく好きだったので、その乱歩の密室感と、SMの密室感と、挿絵も両者暗くて似ていて、非常に大事なものというか、自分のその後を型作る重要なものとして位置づいたんです。

その後、SMマガジンは毎月愛読されていたんですか?

いえ、その一冊をずっと見てました。あらたに買わなくてもその一冊にあらゆるすごいことが書いてありましたので。一個一個がすごかったのです。女の人主観の「私、あっ、と思ったんです。触られてるの、わかってた。さっきから、隣の人の手が、私の…」みたいな(笑)。あとは本当にしょうもない、〈女の人を裸で船から海底まで沈めて、また釣り上げる〉とかですね(笑)。自分は沈める方でなくて、沈められる方の気分を味わって読んでました。やはり密室ですね。

最高です(笑)。じゃあ高校のときに撮られた映画もちょっと密室的なものだったんですか?

山上たつひこさんの漫画『光る風』を無許可で撮りました。主人公が戦争に反対したことで収容所に入るんですけど、収容所から脱走するルートがトイレの肥溜めなんですね。その密室の何ともいえない感じが好きでした。それで脱走して家に帰ると、お手伝いさんの雪というのがいるんですけど、戦争から帰ってきた両手両足のないお兄さんが雪を襲うシーンがあるんです。そこにも江戸川乱の『芋虫』に通じる暗い部屋の密室性みたいなのが匂い立ってですね、そのあたりが映画には影響していたかもしれないです。暗い方ばかりいっちゃいましたけど、当時は絵も描いていたので、洋画家の靉光とか、松本竣介とか、関根正二とか、若くして亡くなった画家に非常に共感があって、彼らの面白いエピソードをひとつにまとめた、ある画家の映画を高校3年生のときにつくりました。拙いものなんですけど、自分の全映画の中でもベストじゃないか? というような8ミリ映画です。『光る風』のような陰湿生は、こちらにはないですね。

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高校生のときは何本くらい撮られていたんですか?

高校生のときは年に1本くらいです。雑な映画ではありましたが、その後大学に行って技術が付いた映画より、高校のときの下手な映画の方がよかったですね。

大学ではどんな勉強をされていたんですか?

大学はずっと油絵です。デザインと油があって、父親はデザイナーですし、デザインの方が将来的にいろいろ使えるかもしれませんでしたが、デザイナーになるつもりは全然なかったので、油絵で絵の原型をずっとやり続けようと思いました。でも大学になると美術より、映画とか演劇とか、そっちの方に力をかけちゃって、ちょっと絵がおろそかになって。芝居はアングラ演劇で、唐十郎さんとかにすごく影響を受けていたので、そういうのを屋外でやっていました。

映画の方はどうでしたか?

映画はずっとつくっていました。ちょうどその頃、自主映画の作家がデビューしはじめたんです。それまで映画というのは、助監督を経て、ある年齢になってから監督をやるというのが当たり前だったんですけど、若い監督がデビューしはじめたんですね。私もそんなスタイルに非常に憧れがあって、大学を卒業する前に劇場作品というやつをつくりたいと思ったんですけど、結局それができなくて。割と大きな挫折感を味わいつつ、プー太郎になるつもりもなかったので、大学卒業後はCM会社に就職しました。

映画監督になることを諦めたのですか?

諦めたことはないんですけど、それまでの急いでいた流れの中で行くんじゃなくて、まず社会人になって、いつかチャンスを狙っていこうと。長い目で見るように変わりました。

社会人生活はいかがでしたか? お仕事、嫌じゃなかったですか?

すごく真面目なところがあってですね(笑)。社会人になったらちゃんとやろうと。そしたらものすごく短い期間で演出になれちゃったんです。一年半くらいろくろくお家に帰らないで、会社の先輩が「飲みに行くぞ」といったら絶対に断らないで。めちゃくちゃ一生懸命に仕事しました。

でも、そこから会社を辞められるのですよね? きっかけというのは?

一緒にやっていた演劇仲間たちが可愛らしく思えてですね、何とか彼らとまたやりたいという気持ちが強くなったんです。それでドキドキしながら社長に「会社にいつつ、演劇もちょっとやりたいんです」といったら、「いいよ」って簡単にいわれまして(笑)。度肝を抜かれたんですけど、もちろん、「ちゃんと会社の仕事をするならね」って。当然ですよね(笑)。それで、ある演劇の本番と近い日にですね、アメリカ出張がぶつかってしまったんです。

ええ。

微妙に演劇の本番とはずれていたので、両方進めたんですけど、両方とも失敗しちゃったんですね。自分の中で一個じゃないと絶対に出来ないっていうのがわかったんです。それで会社からだんだん離れていきました。でも仕事は本当に頑張ったので、結構いい仕事もさせてもらっていたんですよ。マイケル・ジャクソンのお姉ちゃん…妹は立派なんですけど、お姉ちゃんの方の仕事とか。

ラトーヤ・ジャクソンですか!

そうです。スキャンダラスなお姉ちゃんです。そのお姉ちゃんが出るNikonのCMをアメリカまで撮りに行ったり。YouTubeでゆるーいのが見れますよ。

でも、お仕事を辞めるとなると、お金のこととか不安になりませんでしたか?

本当にやりたい気持ちの方が強かったので不安はありませんでした。ただCMの会社に入ってよかったのは、電通のような大人のすごいクリエイターの人たちと一緒につくる仕事で、その空気を洗礼のように浴びたのはとてもよかったと思うんですね。最初の頃は、外部の演出家の人に現場で怒られて屈辱的な思いもしました。編集なんかも外部の演出家にも助手としてつくんですけど、怖くて怖くて、「俺、軽い交通事故に遭わないかな? 軽~く当たってくれないかなあ」なんて思うくらい緊張したんです(笑)。でも、やっているとすごく上手くなるんですよね。怖いところに飛び込むと上手くなるんです。そして演出にも早くなれて、どんな作品にも挑んだんですが、しかしその結果、器用貧乏みたいになっちゃって、どれもコマーシャルフォトという本で紹介されるくらいのものにはなるんだけど、突出してない感じが自分の中にあったんです。ムズムズしたんです。ちょっとの人しか好きじゃなくていいから、何かその人たちが熱狂するような、すげえのつくってやろうと思うようになったんですね。それが『電柱小僧の冒険』(1987年)とか『鉄男』(1989年)とかになってくるんです。やりたい方に行くということで、不安というよりはそれしかないという感じだったんです。でもCMの会社の体験はほんとうにありがたいものでした。今もとても感謝しています。

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その『電柱小僧の冒険』で、〈ぴあフィルムフェスティバルアワードグランプリ〉を受賞されたんですよね?

そうです。

あれって、ドンと賞金が出たりするんですか?

お金は出ないんですけど、本当はその後にぴあで映画がつくれるということだったんですね。夢のような話なんですけど、企画がいつまでも通らなかったんですね。通らない、通らないって、いってるうちに『ヒルコ/妖怪ハンター』(1990年)の話が来たりとか。結局、企画が通らないのがじれったくなったので、自分でつくろうと思っちゃったんですね。そこからですね。なかなかプロデューサーの人と話が成立するのが難しいので、自分でつくった方が早いというスタイルが定着して来たのは。

『鉄男』はどのようにつくったのですか?

『電柱小僧の冒険』のときは30〜40万円くらいあったんですけど、それで使っちゃったので『鉄男』のときは一銭もなかったんです。

それでどうされたんですか?

CMの演出を一本やって、大きな金額ではないんですけど、30万円をもらったんです。まず、戦場カメラマンとかが使うような、ピントを合わせるのが簡単な中古カメラを20万円で買いまして、ライトもアイランプっていう8ミリと変わらない、スチール用のライトを3つ買い…この3つというのがキモなんです。この3つでなんとかしないとダメっていう。そして残った金をフィルム代にして、中身にはお金をかけずに始めちゃったのが最初ですね。結局30万円で出来るわけもなく、CMのナレーションでかせいだお金をつぎ込んだり、ちょっとお金が入っては、ちょっと撮って、の連続でした。

その『鉄男』は、〈ローマ国際ファンタスティック映画祭〉でグランプリを獲得します。どんなお気持ちでしたか? 「来たーッッ! 」ってなりました?

最初はピンとこなかったです。『電柱小僧の冒険』が、ぴあでグランプリを穫ったときは「来た来たーッッ!」でしたが(笑)。『鉄男』は、東京ファンタスティック映画祭の小松沢陽一さんが海外に持って行ってくださったんです。小松沢さんには、チラシのコメントをお願いしたのですが、そしたら「コメントも書くけど、海外にも持って行かせてくれ」といわれて。本当にピンと来なかったですね。「ローマ」っていわれても(笑)。とにかく、そこでグランプリなんて最初は実感が湧かず、笑ってしまった記憶がありますね。後で聞くと、審査員が僕の大好きなホドロフスキーさんとか、ユニークなロイド・カウフマンさんとかですね。あとはイタリアのすごい評論家の方がいるんですけど、そういう方々が審査員だったんですよ。後々大事な関わりを持つ方が皆さん集まってくださって。その方々が推してくれたんです。

グランプリで生活が変わったりもしましたか?

それまで自分は、高校生の頃から8ミリとかをつくってはいましたが、世の中にはアピールもしていませんでしたし、大学は挫折して終わっていますから、いつも日の目を見ない感じがあったんですけど、『電柱小僧の冒険』と『鉄男』で、やっと映画をつくってもいいという許可をもらったような感じがしました。生活そのものはそこまで変わらないんですけど、気持ちは豊かになりましたね。家もを追い出された後でしたし。

え? 家から追い出されたんですか?

はい。父親に。母親はいてほしかったと思うんですけど。本当に狭い3畳半の部屋に住んでいました。『鉄男』きっかけでちょっとレベルアップした部屋に移りましたが(笑)。その部屋はその後レベルアップせずに海獣シアターの事務所としてずっと使っています。

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追い出されたというのは、やはり会社を辞めたりしたからですか?

親にしてみたらしょうもないことばっかりやってたからですね。会社も静かに勝手に辞めましたから。

静かに…ですか(笑)。お父様は、のちのち認めてくださったんですか?

〈認める〉という言葉は聞いていません。自分の子供の成長を喜ぶ気持ちと、あとは「そんなに甘いもんじゃない」って言いたい気持ちもあると思います。

お父様は、ご健在ですか?

数年前に亡くなりました。

お父様は、監督の作品をどう観ていたのでしょうか?

表現はぶっきらぼうでしたけど、観てくれていました。文句は言いながらも結構記事とかを切ってファイルにしていましたよ。父親のある種の典型ではありますよね(笑)。

『鉄男』以降は、映画監督としての自信もついたのでしょうか?

そうですね。「頑張ろう」って。メジャー映画も撮ることが出来ましたし、「映画でやるぞー」っていう感じで、そこからしばらくは高揚感と共に、ずっと行けたんですけどね。

駄目な時期もあったんですか?

はい。今に至るまで、ずっといい感じではなく、波は大きくありますね。映画自体の成功とか失敗も関わって来ますし。大きく失敗したら、全くお金はなくなりますから。僕の場合は、個人として作品に関わったのは『ヒルコ 妖怪ハンター』という『鉄男』の次のやつだけで、それ以外は監督の役割だけをやるんじゃなくて、プロダクションで丸ごと企画とお金をもらって、自分の采配で映画をつくってきたんです。また、お金をもらえないような自主映画は自分のお金でつくり、売って、回収して、お金をつくって、また次の映画をつくるという。ですから、成功するか失敗するかで次の映画の大きさが決まってくるので、「小さい映画をつくったなあ」と思われた場合は、「その前の映画はちょっと失敗したんだな」って思ってください(笑)。本当に毎回、毎回、ギリギリでやっています。

野火』(2014年)は自主制作ですよね?

『野火』は、もともと大きな規模でやりたかったものなので、ちょっとその流れとは別なんです。大きな規模で会社からお金をいただいて、メジャーな俳優さんにも出てもらいたかったんですけど、ちょっとそういう機会が巡ってこないばかりか、時代がきな臭くなっていたので、今を逃してはいけないと。かなり無理やりの形で、やっちゃったんですよね。皆には迷惑をかけながら。

では監督御自身がお金の方も全部?

さっきからお話している父親が亡くなったので、遺産をそのまま(笑)。

それ載せちゃって大丈夫なんですか(笑)?

もう結構いってるんです。何の迷いもなく、右から左みたいな感じで。

はい(笑)。そして監督は、学芸会で開眼されてから、演じられる方も長いことやってらっしゃいますよね。どのようなお気持ちで臨んでらっしゃるのですか?

最初に青空が見えちゃった以上、これはとても大事なことですし、もちろん映画小僧なので、好きな監督の作品の部品になるのが、非常に嬉しく思っています。現場の空気も吸えますしね。非常にありがたい気持ちと、すごく真面目な気持ちで、一生懸命やりに行ってますよ。

そのときはいち役者として、監督のいうことを真面目に聞くんですか?

はい。真面目に。監督が赤ちゃんみたいになって、演者は好き放題に扱える素材に徹するというのが、演じる側としての僕の目標なんです。たまに威圧的な俳優さんもいらっしゃるので、監督が遠慮しながらいったりとか、怯えてる監督を目にするとですね、ちょっと可哀想だなと思うんですよね。そうじゃなくて、監督が思ったことを俳優がなるべく一生懸命に答えて、赤ちゃんを喜ばせるような感じで(笑)、きゃっきゃっと監督を喜ばせたいっていうのが目標です。

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だから、シャツinの半ズボン姿も、東京ガスでは躊躇なく。

はい。いわれるままに。

では逆に、監督のときは、俳優さんをおもちゃみたいに扱えないときもありますか?

僕はすごく俳優に気を使うんですね。だからそういう風にはなりませんが、だからもしかしたら、そういう願望もあるのかもしれませんね。とにかくめっちゃ気を使いますね。それでいて結局お願いしたいことは絶対お願いするんですが。

大声で怒ったりとかはしないんですか?

ないですね。代わりにスタッフにはいきますけどね(笑)。今はそれもないです。

お優しいそうですものね。さて、そろそろ締めたいと思いますが、最後に、今後の野望のようなものがあったら教えてください。

映画で何かをするってなると、やはり「どうしても好き」ということを再確認するくらい、面白いことなんです。願わくば、これをずっと続けていたいですよね。無理してやりたくないものをつくることはないし、やりたくもないのにつくったらお客さんに失礼なので、そのときは辞めればいいんですけど、きっと辞めている状態は非常に寂しいだろうなっていうのは予想できるので、いつもつくっている状態で死ねたらいいなとは思います(笑)。野望というよりは、つくり続けたいだけですかね。そのことを考えている間は、生きていられるというのはありますね。

息抜きみたいなものはありませんか? お酒を飲むとか?

本当に映画のことばっかり考えているんですけど、自転車をぼーっと漕いでいる時間は好きですね。家族ともちょっとした遠出を自転車でやったりします。

何を考えて漕いでらっしゃるんですか? やはり映画のことですか?

そのときは無です(笑)。鳥みたいになって漕いでいます。バタバタと。

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