〈日常〉と〈原爆〉を繋ぐアニメーション映画『風が吹くとき』

掃除をして、食事をして、会話をする夫婦の生活のなかに、戦争があり、原爆があり、死があった。

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15 August 2018, 8:48am

1945年8月6日、3日後の8月9日に原子爆弾が日本に投下されてから、73年のときが過ぎた。当時を生きた当事者たちのことば、記録映像、骨組みがむき出しになった原爆ドームなど、原爆投下の事実を後世に伝えるため、原爆の爪痕はさまざまなかたちで記録されている。しかし、あまりに辛く、悲しく、むごい記録を目にすればするほど、現実味が失われ、まるでフィクションの出来事のような気がするのはなぜだろう。関東で生まれ育ち、広島、長崎をいちども訪れた経験のない私にとって、いちばん身近な原爆の記憶は、当時撮影された実際の映像でも、写真でもなく、小学生のときに観た、あるアニメーション映画だった。

英国作家、レイモンド・ブリッグス原作の『風が吹くとき』(When the Wind Blows)では、英国の片田舎で暮らすジムとヒルダの穏やかな生活が、柔らかいタッチで描かれる。数日後に戦争が起こり、原爆が投下されるという情報を仕入れたジムは、州議会の発行するパンフレットの指示に従い、日用品で核シェルターを自作し、そのときに備える。

この映画を初めて観たのは小学生のときだった、ということは覚えているが、家で家族と観たのか、学校の授業で観たのかは覚えていない。最初から最後まで、いつもと変わらない会話を続ける能天気な夫婦が登場すること、物語が進むにつれて、その夫婦の顔色がどんどん悪くなっていくことだけは、強烈に覚えている。原爆とはなんなのか、この映画は何を伝えたいのか、ラストで夫婦はどうなったのか。当時の私には何ひとつわからなかったが、85分の映画を観終えたとき、とにかく心がずしんと重くなり、それ以来、記憶の片隅にこびりついた『風が吹くとき』を、私は何年経っても忘れられなかった。

なぜ、自分の住んでいる日本ではなく、英国の田舎を舞台にしたフィクションが、私にとっていちばん身近な原爆の記憶なのだろうか。私は約15年ぶりに『風が吹くとき』を観てみることにした。

改めて観た『風が吹くとき』は、ものすごく長く感じた。最初から最後まで、とにかくゆったりと物語は進む。熱線で皮膚が溶けだしたり、黒焦げになったヒトがあたりに転がっている、といったショックな描写はなく、情緒に訴えるBGMで煽ることもない。ただただゆるやかに流れる日常のなかで、夫婦は徐々に衰弱し、1歩1歩死に近づいていく。長い長い85分の物語を観終え、ぼんやりとした気持ちでエンドロールを眺めていたときにやっと気付いたのは、劇中で〈特別なこと〉は何も起きていない、ということだった。

流れる雲。 「あなたの歳じゃ、もう召集されないわよ」と話すヒルダ。家じゅうのドアを使って自作した核シェルターを「なかなか居心地がいい」と自画自賛するジム。原爆投下の直前に始まってしまう夫婦の口喧嘩。互いの無事を確認し、繋がれた掌。原爆が投下されるのは、確かに特別なことかもしれない。だが、『風が吹くとき』は、原爆投下を〈非日常〉としては描いていなかった。掃除をして、食事をして、会話をして、夫婦が共に生きていくなかに、戦争があり、原爆があり、死があった。

自分の好きな仕事をして、気の合うひとと結婚して、子どもを産んで、大切な家族のそばで穏やかに過ごす。小学生の頃に観たときは気づかなかったが、原爆が落ちる前の夫婦の姿は、私が幼い頃から漠然と期待している、将来の私の日常によく似ている。だからこそ、私はいつのまにか、夫婦の日常と私の将来の日常を重ねていた。しかし、私は、私の日常のなかに原爆による死があるとは、当然ながら想定していなかった。夫婦の日常に原爆が投下されたことで、私の日常にも、原爆投下の事実が突きつけられたように感じたのだ。

いつから私は、日常と原爆を切り離して考えるようになっていたのだろう。実際の映像で、写真で、フィクションの映画で、ドラマで、ゲームで、名前も知らない誰かの〈死〉に嫌という程触れてきたせいで、感覚が麻痺し、より刺激の強いコンテンツを求めるようになってしまったのかもしれない。そして原爆の記録もまた、悲惨であればあるほど、原爆は日常から遠く離れ、私にとって単なる刺激の強い、目を背けたくなるコンテンツでしかなくなってしまっていた。

平和ボケだと責められるかもしれないが、平和で平穏に流れていく自分の日常と、自分の体験していない辛く悲しくむごい記録を結びつけて考える力が、私にはまだ足りない。今後、当時を知る当事者もどんどん減り、新しい世代は、原爆と自分の日常とを結びつけて考えることがさらに困難になるはずだ。そんな次世代に、私がなにか意義のあることを語れるかどうかはわからないが、原爆が投下され、なにもかもを奪い去るほどの強い風が吹くそのときは、私たちの日常の延長線上に訪れる出来事だということを忘れないでいたい。