沖縄戦の孤児 ひとり戦場をさまよった神谷洋子さん(当時7歳)の証言

「しばらく行くと川がありました。みんな水が欲しくて集まってきたんでしょう。何十名何百名という死体が浮いているんですよ。死体はみんな腐って膨れていました。水を飲みたい一心で這っていって何度も手で掬って飲みましたが、水には腐れた血が混ざっていました。それでも蛆だけよけて飲みました」

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16 March 2016, 9:37am

神谷洋子さん(79歳)は米軍の艦砲射撃で母と幼い弟を亡くし、自らも重傷を負いながら、たったひとりで沖縄本島南部を歩きつづけた。地獄の戦場を生き抜いた神谷さんだが、戦後の人生もまた苦難の連続だった。

沖縄戦で被害を受けた民間人や遺族らが国を相手に謝罪と損害賠償を求めている。この沖縄戦被害国家賠償訴訟の判決が3月16日に言い渡された。那覇地裁は「一般民間戦争被害者に対して補償がされていないことは不合理な差別とまでは認められない」とし、原告の訴えを退け、国家の責任を否定した。

神谷さんは国と闘った79人の原告のひとりである。

私が7歳のときよね、B29が飛んでいるのを見たんです。白い飛行機を。10•10空襲* まで真和志村(現那覇市)の国場にいましたから。那覇の街が燃えているのを母から聞かされて、沖縄で戦争が始まるというので近くの壕に入りました。その後、戦闘が激しくなっていきましたので、母が弟をおぶって貴重品を持って、私の手を引いて、他の人たちと一緒に真玉橋を通って避難しました。母は35歳ぐらいで弟は1歳にもなっていませんでした。

* 1944年10月10日に南西諸島の広い範囲で米海軍機動部隊が行った大規模な空襲。日本軍艦船などに大損害を与えるとともに焼夷弾による無差別攻撃で那覇市街の9割が焼失

南風原町の陸軍病院壕に着くと、そこには大小さまざまの壕がありました。私たちはある壕の入り口のところに座っていました。野戦病院壕には毎日何十名もの負傷兵が運ばれてくるんです。看護にあたっていたひめゆり学徒のお姉さんたちの手がまわらなくて、母が手伝って包帯を巻いたり薬をつけたりしていました。そのあいだは私が弟をおぶっていました。

ある月夜の晩、避難壕で5、6人のひめゆり学徒のお姉さんが座って歌をうたっていました。私がお姉さんたちのそばに座って歌を聞いていると母が、「ようちゃん、こっちに来なさい。早く来て寝なさい」と言いました。これが母の最期の言葉です。母と弟のそばに行って眠りに落ちたころ、近くに艦砲が落ちて私は爆風で気を失いました。気がついたときには、そばで寝ていたはずの母と弟が跡形もないんです。母が穿いていたモンペの切れ端が焼け焦げて落ちていたのを覚えています。そのとき私は左の脇腹にケガをしました。いまでも2箇所に傷が残っています。男の人が艦砲で塞がれた入り口を開けて、「生きている人はみんな外に出なさい」と呼びかけていました。外に出てからが大変でした。

Photo by 亀山亮

ひとりで南部をさまよいました。暑いし不潔だし、日に日に傷から蛆がわくようになりました。「お母さん助けて、何か出てきたよ」と泣いたけど母はもういません。歩いていくと亀甲墓があって、そのなかに避難民が隠れていました。いまにも艦砲が落ちてきそうで怖いから、お墓の入り口のところに行きました。「お母さん助けて」と声を枯らして泣いて座っていると、「こっちで泣くな。お前が泣いたら僕たちのところに艦砲落ちるだろ。あっちへ行け」と追い返されました。戦争というのは誰もが命からがらです。他人に手を差し伸べる人なんていませんよ。あっちで追われ、こっちで蹴飛ばされ、避難する人たちを見つけては後ろからとことこ歩いていきました。足は膨れてくるし、栄養失調でふらふらするし、転んだら起きるのもやっとでした。

しばらく行くと川がありました。みんな水が欲しくて集まってきたんでしょう。何十名何百名という死体が浮いているんですよ。死体はみんな腐って膨れていました。水を飲みたい一心で這っていって何度も手で掬って飲みましたが、水には腐れた血が混ざっていました。それでも蛆だけよけて飲みました。

避難民がやってきて川を渡っていきました。子供が渡るには深い川でしたから、小さい子はお父さんやお母さんが抱っこして渡るんです。ひとりぼっちの私は置いていかれるのが怖くて、川に浮いた死体につかまって渡ろうとしました。ところがつかまったら死体は沈むんですよ。それに腐っているから摑んだところがボロっと崩れるんです。それでも渡らないといけないでしょ。死体につかまって沈んだらまた隣の死体につかまって、それを何度も繰り返して、ようやく渡りきることができました。腐れた血が混じった水ですけど、飲んで少し元気になりましたから、先に渡った人たちを追って歩いていきました。

どこをどう歩いたかわかりませんが、瓦葺きの大きな一軒家が見えてきました。前を歩いていた8名ぐらいの家族がぞろぞろ入っていきましたが、あとから入ったらまた追い返されるんじゃないかと思って、家の後ろの豚小屋にひとり隠れました。すると爆弾でしょうか艦砲でしょうか、ドカンと落ちて、爆風で気を失いました。気がつくと、そこにあったはずの一軒家が跡形もなくなっているんですよ。爆発でできた大きな穴に人間が刺さっていました。でも、もうそんなのを見ても怖いと思わないんですよ。ひとりだけ生き残って、傷が痛いのを我慢して、蛆をボロボロ落としながら歩きました。

中学生ぐらいのお兄さんが、両親を失ったんでしょうか、両手に子供をひとりずつ引っ張って、背中にも小さな子をおんぶして歩いてきました。私が近づいていくと、お兄さんは背中の子供を下ろして、私におんぶさせるんですよ。私はひとりで歩くのもやっとなのに。転ぶと、「なんで歩かんか」と髪を摑んで起こされ、叩かれました。それでもこのお兄さんと一緒なら心強いという気持ちがありましたから必死で後ろからついていきました。それでも我慢できなくなって、子供を置いて逃げようとしたら捕まって叩かれました。逃げられないように前を歩かされ、「早く歩け」と叩かれるわ、艦砲は落ちてくるわ、大変な思いをしましたが、隙を見て山のなかに逃げることができました。

避難民の姿が見えたので近づいていくと、おじさんやおばさんが畑で何かを掘っていました。それまで私はごはんもおやつも母に用意してもらって苦労なく暮らしていましたから、何が食べられるのかわかりません。土のなかから芋が出てきたのを人が食べているのを見て、私も真似して食べました。土がついたまま1個まるごと食べました。

艦砲は雨みたいに降ってくるし、どこへ逃げたらいいのかもわかりません。避難している人たちの後ろを歩いていましたけど、大勢だと目立ちますよね。みんなやられて、不思議と、いつも私ひとり生き残りました。夜はガマのそばの木の下に隠れて、昼は人を捜して歩くんです。お腹をやられた人が、蛆がわいた内臓を自分のお腹に戻そうとしているのを見ました。アメリカの飛行機が飛んできたら、死体に頭を突っ込んで隠れました。日本の兵隊が焼いて食べたんでしょう、豚や山羊の死体もありました。刃物で切ってナマで食べている人もいました。大きな部落に辿り着きましたが人っ子ひとりいません。夜に照明弾があがると昼間みたいに明るくなってとてもきれいでした。隠れてじっとしてないといけないけど、道が見えるから私はとことこ歩いていました。

ガマのところで震えながら泣いていたら、外人さんかな、どうかわかりませんけどね、男の人が近寄ってきて、「お嬢さん、元気出して食べなさい」と言って、白い袋に入った乾パンみたいなのをくれたんですよ。久しぶりのご馳走です。座って食べていたら日本兵が来て、「お前が食べても国のためにならん。僕たちが食べたら国のためになるからよこせ」と、力ずくで奪われました。「私がもらったんだから私のです。返してちょうだい」と言って泣いてしがみついたら蹴っ飛ばされて。「お母さん助けて」と言って長らく泣いていましたが、誰も見向きもしませんでした。

避難民を見つけたらついていって、その人たちがいなくなったらまた別の人たちについていって、ずっと南部をさまよいました。疲れて歩くこともやっとなんですよ。7歳の子がひとりで、裸足でね。傷が痛くて座っていたら、きれいな洋服を着た男の人が来たんです。殺されると思って私がわぁわぁ泣いたもんだから落ち着かせるためでしょうか、お菓子のようなものを見せて、自分が半分食べて毒が入っていないことをわからせてから、残りの半分を私にくれました。チョコレートでした。「お菓子もご馳走もいっぱいあるから、おじさんと一緒に行こうね」と言われて、手引かれて歩きました。久しぶりに人間に会った気がしました。場所はどこかわかりませんけど、捕虜がいっぱい集められているところに着きました。たくさんの人のなかに入るとつい、お母さんいないかねぇと思って捜してしまうんです。あのとき野戦病院のところで艦砲にやられて、お母さんも弟もいないんだねぇと、はっと気がつきました。みなしごばかり集められて大きなトラックに乗せられました。トラックで北に向かってコザの孤児院に入れられました。

Photo by 亀山亮

孤児院に着くと、私に子供をおんぶさせた中学生のお兄さんがいました。私より先に入っていたんです。このお兄さんが炊事係だから、水もミルクも、おかゆもなんにもくれません。「お前はなんで子供を置いて逃げたか」と叩かれました。お腹が腫れて、手足は痩せて、頭だけ大きくて、日に日に弱っていきました。孤児院では、もう助からないと判断した子供を一坪ぐらいの場所に隔離して、おかゆも水も与えません。すべてが不足しているし、どうせ助からないんですから。私もそこに入れられました。ただ目を開けているだけの子もいました。今日までいた子が翌日にはいなくなる。死ぬと出されて、また別の弱った子が入ってくる。そんな毎日でした。中学生のお兄さんは私がそこに入れられるのを見ていましたから、私はそのお兄さんが通るたびに、また来た、叩かれる、殺されると怯えました。寝返りをうつ力もなく、うんこもおしっこもしたままでしたが、私は目でお兄さんを追っていました。ひめゆり学徒の生き残りのお姉さんが私の目が動いているのに気づいて、まだ助かると思ったんでしょう、抱っこしてお医者さんのところへ連れていってくれました。傷の手当のあと、お風呂に入れられたような気がします。食事もミルクも与えられて、だんだん元気になりました。このとき助けてくれたお姉さんに会いたくて孤児院の慰霊祭にも行きましたが、まだ見つけられていません。戦争というのは残酷ですよ。沖縄の地上戦では、こんな子供たちがいっぱいいました。

元気な子は孤児院の敷地と外を仕切るフェンスのところに行って、誰か連れにこないかねぇ、身内いないかねぇって見ていました。私は身寄りがないからどうしようもないと思っていましたが、あのころ孤児院には子供をもらいに来る人がたくさんいたんです。私は国場の篤農家にもらわれました。その家は長男と次男が兵隊にとられて帰ってこないもんだから、働き手が必要だったんです。山羊や豚、牛なんかの世話をしてから学校に行きました。学校では「みなしごが来た!」「キズモノが来た」と言って、他の子供にいじめられました。見返してやろうと頑張って、いい成績をとったら、またいじめられて叩かれて。

その家の長男と次男が戦争から帰ってきて、それぞれが嫁さんをもらったりで、やがて10名以上の大家族になりました。その人たちにとっては、私だけ赤の他人です。畑で一人前に仕事をしないと叩かれました。友達が遊ぼうと誘いに来ても行かせてもらえません。「女の子が学問してなんになるか。畑をしなさい」と言われて、6年生の夏休みからは学校にも行かされませんでした。なんでもやりましたよ。みんな17、8歳になるときれいに化粧して着飾って歩くけど、私は裸足のまま、よその家を一軒一軒まわって便所の汲み取りをしました。でも孤児院から出してもらったから、どんなにつらくても、いつか恩返ししないといけないねぇと、小さいころからずっと思っていたんです。あのころ鍛えられたおかげで、それから何があっても乗り越えられました。

いまは子供が6人、孫が13人、ひ孫もいます。でも、家族に戦争の話をしたことはありません。思い出すからつらいんですよね。戦争ほど残酷なことはないからさ。