Patrick Zachmannが捉えた イタリアン・マフィア、香港、移民たち

「写真を撮っていなければ、これほど深く家族と向き合うこともなかっただろう」

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feb 18 2016, 12:32pm

1990年4月、イスラエル、エルサレム。旧市街のキリスト教徒地区にて、ユダヤ人と警備員が、アリエル・シャロン元首相の到着を待っている様子。
All photos courtesy of Patrick Zachmann/Magnum Photos Text By Julie Le Baron

パトリック・ザックマンが「写真家になりたい」と母親に告げると、専門家に助言を求めるため、彼女は電話帳を広げた。子供の将来を約束してあげたいと不安に駆られた母親にありがちな、恥ずかしくなるほどのおせっかいを焼いて、彼女は最終的にマグナムの共同創設者であるアンリ・カルティエ・ブレッソンに電話をかけた。電話に出たのは、当時のヘンリーの妻で、これといった助言をするわけでもなく、写真家と共に暮らす苦労をつらつらと語った。それから40年、ザックマンのポートフォリオを一目見れば、何も心配することはなかったと、母親も胸を撫で下ろすはずだ。

1970年代後半に活動を始めて以来、ザックマンは、反マフィアを唱える団体とともにナポリの路上を歩き、香港では虐げられた中国人の姿を捉え、マルセイユに辿り着いた移民たちを追った。対象に応じて、モノクロで撮る場合も、カラーで撮る場合もある。ザックマンにこれまでの活動について、そして他者に迫ることで、いかに自らのアイデンティティーを確立してきたか、話を訊いた。

1982年6月、イタリア、ナポリ。明け方、反マフィアを唱える団体に“マフィオソ”が拘束された。

写真家として活動を始めたころ、左翼的な思想を強く持ち、世界を変えたいと望んでいたようですね。当時は何を撮っていたんですか?

私が初めて撮った “本物の”ルポルタージュは、1975年、カーネーション革命が起きた直後のポルトガルだった。ポルトガルという国を、社会的、政治的、経済的な状況も含めて、どうしても知りたかった。バックパックを背負い、独学で身につけた写真技術だけで、ポルトガルを横断した。写真家としての人生が、そこから始まったんだ。
そこで、ラッシュという新進気鋭のエージェンシーのディレクターに出会って、7年間、世話になった。彼らと一緒にフランス国内外の時事を扱っていたのだが、私は社会に根ざした問題に取り組むのが好きだった。1979年から撮り始めたものを『Enwuete d’identite(アイデンティティーを求めて)』という写真集にまとめた。

新聞の一面を飾るような被写体、事象、トピックを避けたのは、なぜですか?

その年、革命が起きたばかりのイランに行ったんだ。私は、テヘランに向かうイランの宗教家であり政治家でもあるアヤトラ・ホメイニと同じ飛行機に乗った。ジャーナリストとして、しかも、自分の仕事が世に出るという保証付きで、仕事をするのは初めてだった。結局、自分が報道には向いていないと気づかされた、かなり苦い経験で、自分が何をしているのか、立ち止まって考える暇もなく、常に走り続けないといけなかったから、ペースについていけなかったんだ。
あるとき、アヤトラの最初の演説が行われる墓地にいたんだけど、ジャーナリストがそこら中にいて、現場は大混乱だった。夕焼けの柔らかい光が美しい日だったが、すぐに戻ってフィルムを提出しないといけなかったから、その光景を撮影できなくてもどかしかった。この経験が教訓となり、これ以降、自分の内なる感情に突き動かされた表現で作品を作るようになったんだ。

1982年6月、イタリア、ナポリ。息子と夫が麻薬取引の疑いで逮捕され、涙を流す女性たち。

暴力と言えば、あなたは暴力で腐敗したナポリの事象を追いかけていましたね。

ポルトガルのルポルタージュを撮り終えたあと、自分の限界と、被写体に対しての限界を試したくなった。どんな状況でもシャッターを切れるか、知っておく必要があると考えたんだ。結果的にはナポリでいろんなことを学んだ。当時は、ほとんどのジャーナリストが、レバノンの内戦を撮りに現地に行っていたけれど、私はその流れに乗らなかった。それよりも、取り上げる価値がなく、もう時事性もないとされているような事柄を伝えるため、いわゆる、メディアがあまり立ち入らない場所に行きたかったんだ。そのとき、ナポリでマフィア間の抗争が激化して、年間400人が殺されているという短い記事を『LeMatin de Paris』という新聞で読んだが、この記事に書かれているマフィアの問題について話している人は、誰一人としていなかった。
現地に入ると、三種類の暴力があると気づいた。まず、カモッラ(ナポリのマフィアの総称)の構成員によるもの。そして警察によるもの。それから住民たちによるもの。撮影している私に対して、激高する人もいた。旦那が射殺されたり、逮捕されているところを目撃したからだろう。彼らの反応を見て、写真を撮るという行為自体、ある種の暴力なんだと気づかされた。かつてダイアン・アーバスもこう語っていた。「被写体に対して、いくら物腰柔らかく、優しく接しようとしても、写真を撮るという行為は蹂躙に他ならない」と。私もその考えに取り憑かれてしまった。今となっては、このとき1982年に撮ったルポタージュと、同じようなものが撮れるとは思わない。おそらく、私は撮影した人たちの心の痛みに、鈍感だったんだろう。

1987年、香港。

ナポリにいる間、自分の限界を感じたことはありましたか?

待ち方というか、もどかしいけれど、写真を撮るのを控えた方が良い瞬間もあることを学んだ。経験を積みながら、行動するうえで必要な自分なりの規範を育んでいった。それからは、相手が苦しんでいるときや、シャッターを押すことで相手を傷つけるようなときは、写真を撮らないようにしている。その写真がどうしても必要だとか、絶対に世に出るという確信がない限りは、撮らない。
ただ、写真家としてバランスを取るのは難しい。普通に生活をしていて、写真を撮りたくなるときがある。アンリ・カルティエ・ブレッソンの言葉で言えば、魔法のような一瞬を捉えたいという衝動に駆られながら、心の奥底では、被写体のことを尊重したいという気持ちがある。矛盾しているだろう? 路上で目を引いたものを撮れば良かったと後悔するときもあるが、許可なく撮影すれば、その国や状況によっては、暴力を振るわれる危険が伴う。一方で、撮影するために声をかけたために、最初に感じた魅力を壊してしまう可能性がある。けれど、相手に何の見返りもなく、撮影するのは好きじゃない。ひとつ学んだのは、虐げられていた人たちの元に行き、彼らの声を聞きながら、写真を撮ることが、対話のきっかけになること。自分は弱い立場の人間だと感じている人にとっては、歩み寄ることが救いになったりする。数年前に撮影して壁やアルバムに貼ってあった写真を、彼らにプレゼントすることもある。写真家と被写体の間に生まれる、そうした強い結びつきに心を動かされるし、追い求めたいと思ってる。
それから写真は、事実を記録し瞬間を捉えるという点で強力なツールであり、それがゆえに、感情を揺さぶる強さを持っているということを、より実感するようになった。亡くなった人や、消えてしまった場所の写真は、大きな意味と歴史を持つからだ。

1981年、フランス、パリ。パトリック・ザックマンの母親(左)と姉妹。

例えば、写真集『Mare Mater(マーレ・マタール)』のように、自分の母親の写真を撮る場合、どのようにして、プライベートと仕事をどう分けて撮るのですか?

親を撮るときはいつも、写真と映画という口実があるから、沈黙せずに済む。写真を撮っていなければ、これほど深く家族と向き合うこともなかっただろう。家族に迫るのは容易ではないし、痛みを伴うこともある。なぜならば、自分は「プロ」として接しないといけないから、相手に近すぎてもいけないし、遠すぎてもいけない。カメラなんて捨てて、年老いたか弱い母親を抱きしめたいと思ったこともある。
それでも向き合い続けるのは、自分にとって必要なことだという気がするから。タブーや秘密を暴いて、理解して、乗り越えて、自分の意見を持つことが必要だろう。それが親であれ、自分自身であれ、世界であれ、自分なりの見方を創らないといけない。だから写真が好きなんだ。自分の外と内の世界、意識と無意識の間を行き来できるからだ。
『Mare Mater』に取り組む以前の2009年から2011年辺りは、フランスのカレー、パリ、シチリア島の南部に位置するマルタ、ギリシャなどで移民を撮影していたんだけど、写真はどれもジャーナリストの使命として、必要に駆られて撮るだけだった。私の両親は移民だが、その理由だけでは、彼らと自分の間に繋がりを見出せずにいたんだ。次第に、母親と別れ別れになってしまった若い移民、特に少年たちのことが気になっていった。マルセイユで1年以上、少年たちと行動を共にし、母親に会うために母国に戻るというときも付いていった。同時進行で、自分の母親の半生を調べていた。母は、まだ初期段階だけど、アルツハイマーを患っていて、手遅れになる前に、故郷アルジェリアの話を聞きたいと思ったんだ。そんな、自分と母親の関係があったことが、母親と生き別れた移民のひとりと通じるものがあると気づくきっかけになったんだ。『Mare Mater』の写真集、展示映画でも、その話に触れている。私たちは、自分がよく理解している物語や、過去を映し出す物語であれば、上手く語れるんだ。

カラーにするか、モノクロにするかは、どう決めるのですか?

どちらにすべきか決めてから、写真を撮るようにしてる。独自のスタイルを確立し、それに固執しようとする写真家は多いけど、私は、何度も同じことを繰り返したくない。それは肝に命じている。また、生きている間は自分が固執しているものを繰り返し、見せ続けることになる。それが芸術家の性なんだろう。だが、新しい見せ方も生み出せるはずだから、自分のテーマというか、被写体を表現するベストな方法は何か、自分自身に常に問いかけるんだ。例えば、庭を世話する労働者たちの姿を撮影したときは、6×6の中判カメラを買った。ロベール・ドアノーが郊外を撮った作品へのトリビュートでもある。
カラーにするのは、また別の問題。例えば、フランスで暮らすマリ系移民を撮った写真集は、彼らがフランス社会に馴染むために直面したカルチャーショックや地理的な隔たりを、そのまま写したかった。それから、よくメディアで目にするような、哀れで悲惨な移民のイメージに飽き飽きしていたこともある。そういった描写が、今日の移民の現実を映してるとは思わない。写真集には、写真と一緒に文章を載せた。写真を用いて映像も作った。繰り返される固定化されたイメージと、そこにいる人々の活き活きした現実には、大きな隔たりがあるのではないかと問いかけたい。また、自分が美しいと思う形に固執さえしなければ、自分のしていることに、情熱を持ち続ける自信があるからだ。

1982年3月、イタリア、ナポリ。焚き火で温まる売春婦とトランスジェンダーの人々。

1989年、アメリカ合衆国、ウィスコンシン州、ミルウォーキー。フランス人女優ベアトリス・ダル。

1982年6月8日、イタリア、ナポリ。ヌーバ・ファミリアのドンで“アウトロー”として知られていたチーロ・アストゥート。組織の構成員に殺された直後。

1988年、香港。若い売春婦とギャングメンバーの彼氏。

1984年9月、フランス、マルセイユ。北アフリカ系移民二世の若い女性。

1984年9月、フランス、マルセイユ。バッサンスの地で結婚式をあげるアルジェリア人。

1989年、フランス、ヴィリエ=ル=ベル。衰退した地域を再生し、先進的で実験的な都市計画事業を行うことを目的とするZAC(協議整備区域)に指定された地区で暮らす家族。当地には、1000棟の住居が並んでいる。

1984年、フランス、マルセイユ。

982年6月、イタリア、ナポリ。警察署で拘留される、万引きの現行犯で逮捕された少年たち。うち最年少の少年は8歳。

1987年、ニューヨーク。ウー夫妻と子供たち。3人ともハーバード大学を首席で卒業している。

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