どのバンドにも目立たないメンバーっていますよね。特集ページで、ヴォーカルとかギターとかは2ページ・インタビューなのに、半ページ、もしくは1/4に収められちゃう子。打ち上げでは知らない地元グループの席に座って、本人もファンたちもどうしていいのか分かんない子。それが偉大なバンドなら尚更です。目立たないのが目立っちゃう。伝説的ハードコア・バンドMINOR THREATにもそんなキャラクターがいたの知ってます?…あら、ご存知ないと。そうです、そんな立ち位置の男なんです。
スティーヴ・ハンセンがMINOR THREATにベーシストとして加入したのは1982年の夏。1年という短い期間でしたが、歴史的名盤『Out of Step』のレコーディングに参加、そして絶頂期のツアーにも参加。はい、正真正銘MINOR THREATのメンバーです。なのに「MINOR THREATともうひとりの男」と称され続けているのは可哀想すぎる!なぜハンセンは、この偉大な歴史から外されてしまったのでしょうか?性格悪かったのか?ルックス今イチだからか?…という訳で、貴重な貴重なインタビュー。 かなりぶっちゃけてくれてます。
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どういう経緯でワシントンDCのシーンに入ったのですか?
ちょうどDCがパンクからハードコアへと移行しているときだったね。TEEN IDLESが解散し、MINOR THREATとS.O.Aがスタートした頃。俺はその中でSLICKEE BOYSを手伝っていたんだ。当時のDCではまぁまぁ有名なニュー・ウェーブ~ガレージ・バンド。従兄弟のマーク・ヌーンが、リードシンガーだったんだ。
ヴァージニア州の郊外から出て、この手の音楽にハマっていたんだけど、マークがいつもDCシーンのクールな生の情報をくれた。当時のDCでは俺ぐらいの若い連中が、クラブでパンク・ロックをいつもやっていたからね。シーンの異様な雰囲気に熱狂していたよ。SLICKEE BOYSのローディーとして雇われてから、BAD BRAINSとTEEN IDLESを初めて見た。急激に成長するこのシーンの完全な虜になってしまった。自分の町からたった12マイルの場所で起こっていることが、まるで地球の真裏で起こっているように思えたよ。
1980年の夏から、俺はちょくちょくライブに行き始め、秋には完全に虜になった。俺はパンクスになったんだ。ちょうどその時期にTEEN IDLESが解散し、DCシーンはハードコアになっていったんだけど、俺たちはすぐに適応できた。同じぐらいの歳の連中はみんなそうだった。だって俺たちは、77年のブリティッシュ・パンクに刺激された世代じゃないんだから。それこそ俺たちのアイデンティティーだったんだ。
あなたはイアン・マッケイの最初のバンドTEEN IDLESが、1980年に西海岸ツアーに行って、CIRCLE JERKSとDEAD KENNEDYSに影響を受けたこと、また彼らがスラム・ダンスやステージ・ダイヴ、そして西海岸のバイブレーションをDCに紹介したのも知っていると思います。このことがハードコアへと導いたのでしょうか?
絶対にそうだ。疑問の余地は無いね。彼らは西海岸のハンティントン・ビーチから、バンダナをブーツに巻くことやスラム・ダンスを持って帰って来た。間違いないね。更にイアン・マッケイとヘンリー・ロリンズは、独自の考えをフィルターとして新しいものを生み出して行った。全てはそこからだよ。
それらがDCに持ち込まれると、シーンはカルチャー以上のものになったと私は思います。ハードコア自体が独自の美学として変化した時期ですね。
その通り。もう一つの理由として、1980年の夏頃かな、郊外からたくさんの新しいキッズたちがシーンに加わり始めたんだ。それと同時にTEEN IDLESは自分たち自身でレコードを出すことを考えていた。それは本当にデカいことだった。みんな「ワオ! レコード出すんだって?」って興奮してた。本当にすごいことだったんだ。だって俺たちがシーンを作っているという気持ちにさせたんだから。自身のレコード・レーベルを持ち、可視化し、アイデンティティーを持ち、融合させた。すべて80年の秋から81年にかけて起こったことだよ。
TEEN IDLESが解散してMINOR THREATになったとき、このバンドが特別な存在になるのは分かっていましたか?
もちろん。最初のステージからそれはハッキリしていた。S.O.A とMINOR THREATは同時に現れた。S.O.Aもみんな好きだったけれど、MINOR THREATは明らかに特別だった。違う何かがあったんだ。ヘンリーは常に偉大なフロントマンだったけど、イアンもまた人々を大きく魅了した。彼はリーダーとしてハードコアを引っ張っていったんだ。
ストレート・エッジがDCに現れたとき、シーンの古くからのバンドは、その動向をどのように見ていましたか? 例えばBLACK MARKET BABYとかは?
BLACK MARKET BABYはいつも愛されていたよ。だって素晴らしい曲を書いていたし、誰も注目していなかったDCパンク・シーンで活動する重要なバンドだったんだから。でも彼らは彼らさ。それ以外は関係ない。彼らはストレート・エッジのことをくだらないって思っていた。俺たちのことを愚かな奴らだと思ってた。でもね、彼らは23歳で、俺たちは16歳だったんだよ。しようがないよね。俺は今、BLACK MARKET BABYのマイク・ドルフィとボイド・ファレルと一緒にバンドをやっているんだけど、あけすけにそう言っていたよ。今ではそうでもなかったって気がついたそうだけど。
年齢差は確実にシーンの中にあったんですね。僕の最初の著書である『Why Be Something That You’re Not: Detroit Hardcore 1979-1985』を作っていたときに、中西部のシーンには大きな年齢的なギャップがあったことを知ったんです。FIXのようなバンドは少し歳をとっていて、考え方もよりロックンロール的だった。NECROSのようなバンドは、DCに似ていて、同世代の世界で何かを確立しようと思っている若い連中で。
うん。FIXはすごいバンドだった。BLACK MARKET BABYの中西部バージョンのようだった。あの時代は街ごとにその街を象徴するバンドがあったね。
70年代の終わりは、町の変人たちがやっているようなバンドがたくさんいましたね。レコード・コレクターでもなく、カリフォルニアやイギリスのシーンを熱心に追いかける訳でもなく、更にファンジンを読んでいるようなオタクでもなく。ただただ物凄く速く演奏する奇人たち。FIX、BLACK MARKET BABY、そしてニュージャージーのTHE WORSTとか。みんなすごく魅力的なバンドでした。
当時の彼らはこれから旅立っていく若い連中に刺激を与えていたと思う。若い連中はハードコアの本質を知らなかったけれど。みんなすごくいい曲を書き、すごいミュージシャンたちだった。BLACK MARKET BABYは時代が必要としていたんだ。
さて、MINOR THREATに参加したきっかけを教えてください。
ブライアン・ベーカーとは子供の頃からの友達だった。俺の父親はDCでアイウィットネス・ニュース(米国三大ネットワークの看板ニュース番組)のアナウンサーで、ブライアンの親父はプロデューサーだったんだ。でも彼は数年でミシガン州のグロスポイントに引っ越してしまったから、お互いに連絡を取らなくなってしまったんだけど、それから数年後、DCのパンクのライヴで彼とばったり会った。MINOR THREATがスタートした頃だ。大勢の人がブライアンにビビってたよ。あいつの傲慢な態度にね(笑)。だけど俺は9歳から知っていたし、意に介さなかったね。ブライアンと話していると友達はみんな「おい、ブライアンと話してるぜ」という感じだったんだ。
1982年の8月のある午後、たまたまジョージタウンにいて、GOVERNMENT ISSUEのボーカリスト、ジョン・スタブに会いに、彼の働いているレコードショップに行ったんだ。行く途中でブライアンがFAITHのマイク・ハンプトンと店の前で立ち話をしていた。ギターのことを話している最中に、俺が入っていったんだ。ブライアンが「オマエ、演奏出来る?」と訊くので、「出来るよ」と答えた。それからブライアンは「ベースは?」と聞いてきたから「一番得意だよ」と答えた。
そしたら今度はブライアンがイアンと何か話しているのが見えた。その後ブライアンがやってきて、「俺の家で、セッションしないか?」ってね。それで彼の家に行き、「MINOR THREATの曲は全部知っているよ」と伝えたら、彼もその気になって、その後ふたりで何曲か演奏したんだ。次の日ディスコード・ハウスに行って、全メンバーと一緒に演奏した。だけど彼らは僕をバンドのメンバーにするとは言わなかった。それで「なぜ俺を誘ったんだ?そしてバンドに入るためには何が必要なんだ?」って訊いたんだ。そしたらライル(・プレスラー)をMINOR THREATから追い出して、ブライアンをギターにチェンジ、俺をベースにするっていうアイデアを聞かされたんだ。まぁ、結局5人でやることになったんだけどね。もしライルをバンドから追い出していたら、おそらく路頭に迷っていたからね。それで1982年の8月のその日から約1年間MINOR THREATにいたんだ。
DC以外での最初のライヴは、ニュージャージーの悪名高いBuff HallでSSDやAGNOSTIC FRONTとやったライヴですか?
いや、俺がMINOR THREATで初めてDCから離れたのはボルティモアだった。バフ・ホールでのライヴは北部で最初のヤツだね。アンプの前で「チクショー、どうも今夜はここで寝ることになりそうだ」と考えていたことを思い出すよ。だってライヴハウスから出たら、間違いなく誰かに殴られそうだったんだ。ただ誤解しないでくれ、あの夜はいい意味でのカオスだった。混乱はしていたけどね。その夜はファンとバンドに不穏な空気が流れていたんだ。DVD通りの夜だ。ライルはその晩、誰とも喋らなかったよ。
本当に?
ああ。もしライルの近くにマイクがあったら、ヤツは誰かを殴っていたに違いない。
ライルとブライアンがMEATMENに参加した1984年の夏、ニュージャージー州フローレンスでの彼らライヴでのことを覚えています。私の兄弟がそのライヴでDJを頼まれていたので、早目に会場にいたのですが、サウンド・チェックのときにライルがサウンド・エンジニアをマイクで殴りつけたのを見ましたよ。
ああ、俺も覚えている。なぜなら俺はMEATMENのローディーをやっていたからね。ライルはエンジニアに怒りまくっていたんだ。
えっ、あなたもあの場にいたんですか!
そうだよ。俺はライルが癇癪を起こしたとき隣に立っていたさ。
なんて偶然でしょう。私はMINOR THREATがすごく好きだったんです。あんなにカッコ良いバンドは見たことがなかった。だからライルの行動を見て、すごく残念に思ったんですよ(笑)。
(笑)。まぁ、エンジニアは本当に嫌なヤツだったんだよ。俺とブライアンは我慢してたんだけど、突然ライルがマイクを持ってヤツに向かって歩き出した。スローモーションに見えたよ。「ああ…やめてくれ……」ってね(笑)。あの日を忘れたことなんてないよ。
まだあります。ライヴ後にライルがSAMHAINのロンドン・メイとか他のメンバーに怒り狂っていたのを覚えています。ファンジンのインタビューでライルのことをバカにしていたらしくて。
確かにライルが人にいい印象を与えたことはないね。MINOR THREATでのツアーを思い出しても、「ライル・プレスラーはクールな奴だ!」と言う人間を、見たことも、聞いたこともないしね。それはすごく悲しいことさ。そんなに酷いヤツじゃないんだよ。ライルは生まれながらの才能を持っていた。特別な存在だったから、ライルが誰かに無礼をしたときも、俺はいつも知らんぷりしていた。練習で、彼の作った曲を聴くと、いつも俺は「オーマイゴッド!これはいったい何だ!?」って思ってた。『It Follows』とかね。でもストリートにいる若い連中が寄って来ると、「ライル、頼むから彼らに話しかけるな」って心の中で言ってたよ。若い連中にとってライルは、どうしようもないアホに見えていたから。
『Out of Step』のレコーディングとツアー、どっちが最初だったんですか?
レコーディングだね。曲は全て1982年の秋に出来たんだ。その年の11月から12月にかけてデモを作って、1983年の初めにレコーディングに入ったんだ。
それが俺の初めてのスタジオ・レコーディングだった。ドン・ジエンターラのインナー・イアー・スタジオで録ったんだ。トラッキング・ルームが彼の子どもの遊び場になってて、あっちこっちにおもちゃが転がってた。小さい部屋だったよ。部屋の真ん中にドラムがあって、アンプも中央に置かれていた。イアンは洗濯場で歌ってたよ。カーテン越しにね。「Think Again」は2回録り直したと思う。それ以外はワン・テイクさ。
「Look Back and Laugh」もまったく歌ったことがなかったけどワン・テイクだった。スタジオだけで、ライブでもやったことなかったんだ。レコーディングでイアンが初めて歌ってるのを聞いた。「ああ、信じられない。俺はMINOR THREATの一員なんだ」って思ったことを覚えているよ。
なぜMINOR THREATを辞めたのですか?
俺たちは2ヶ月半のツアーに出た。どうしようもないツアーだった。俺が入るずっと前から、バンドはいろんな問題を抱えてたんだけど、俺はそのスケープゴートにされたのさ。俺が入って問題が無くなるどころか、明らかに増えてしまった。バンドはただ生かされているような状態で、俺自身もそんな感じだったんだ。そのツアー後「辞めてくれ」って言われたよ。バンドは一触即発の状態だったから、俺にとってはハッピーだった。俺がバンドを離れてから、彼らは解散するまでなんとか2ヶ月持ち堪えていたよ。他に方法はなかったね。
MINOR THREATは、若さゆえのアグレッシヴなスタイルに自らが飲み込まれてしまったのでしょうか?
いや、アグレッシヴに次ぐアグレッシヴの連続だったよ(笑)。イアンは冷静…いや冷酷と言ってもいいかな。俺は見たことないけど、鉄拳制裁を辞さないこともあったみたいだしね。だからいつも彼が正義だった。サンフランシスコではジェフとブライアンの殴り合いを見たよ。ハムとパンの奪い合いが理由さ。地獄だったな。あのときのジェフは本当に怖かった。彼はいつも冷静なんだけど、一度キレるとただのキチガイになるんだ。そしてライルは暴言ばかり吐いていた。もし誰かが演奏中に間違ったら、ライルはそいつを公衆の面前で思いっきり辱める。日常茶飯事だったし、もちろん俺もやられたよ。逃げ道なんて無かったね。
俺がプレッシャーに弱いってことをバンドのメンバーはよく話していた。でも俺自身はプレッシャーで悩んだりしてなかったよ。俺の悩みはメンバーとの人間関係さ。訳の分からない理由でメチャクチャになっているバンドに入っていくのはとても難しい。バンド内で反目し合っていたんだからね。まったく理解出来なかったよ。
楽しかったのはステージだけだったね。ステージは最高だったけれど、5時間とか8時間とか、移動は本当に辛かった。ずっとメンバーと一緒だったからね。
「スティーヴは、”MINOR THREATともうひとりの男”みたいだった」と、メンバーの誰かが言っていたのを覚えています。それはどういう意味だと思いますか?
俺はやる気満々でバンドに入ったから分からないよ。意見を言う権利もあったし、曲作りにも参加した。それが最終的に『Out of Step』というレコードになった。俺は常に100%バンドの一員で、ブライアンとライルが後ろ盾になっていると思っていた。でもバンドの決断は上から降りてくる。つまりイアンの決断がすべてだったことが問題だったんだ。イアンが決めなかった唯一のことは、俺のバンド加入についてだ。それはブライアンのアイデアで、イアンの判断ではなかった。彼は快く思っていなかったんだろう。俺を追い出すのことを決めたのはイアンさ。
SSTにかなり近い人物から、MINOR THREAT とBLACK FLAGとの間で、おかしなライバル関係があったと聞いたことがあります。イアンとヘンリーのことでしょうか?
そうだね。ふたりの間はちょっとおかしくなっていた。ヘンリーがBLACK FLAGに入り、アシッドをやり始めたのが原因だね。ふたりともストイックで求道者のような立場だったけど、ヘンリーは新しい世界を歩き始めたんだ。
両バンドが抱えていた問題に関しては、何も覚えていない。だけど回りの俺たちはいつもやりにくかったよ。何だったんだろうね。1983年春のツアーでロサンゼルスに行ったとき、SSTのオフィスに半日くらいいたことがあった。すごく居心地が悪くて、異様な時間だったことを覚えている。イアンはチャック(・ドゥコウスキー)とヘンリーにツアーについて話しかけるんだけど、彼らはイアンを無視して話し続ける。イアンを無視する人間がいるのを初めて見たよ。イアンはそれを大人しく受け入れていたね。おかしかったな。
これは私の推測ですけど、ある時点でBLACK FLAGは、MINOR THREATのことを妬み始めていたのではないでしょうか。自分たちが影響を与えたバンドなのに、「クソ!こいつら奪いに来やがった。こいつらとは距離を置くべきだ」と、グレッグ・ギンは考えていたのではないでしょうか?
間違いない。BLACK FLAGはシーンのアイコンだった。BLACK FLAGが初めてDCで演奏したとき…MINOR THREATがオープニングだったんだけど…、彼らは鳥肌が立つくらい本当に格好良かった。「ヤバい!どこのバンドだ!?」って感じでBLACK FLAGの凄さを確信したよ。だけど1983年にMINOR THREATがL.A.に行く頃には、俺たちはBLACK FLAGと同じくらいの存在になっていた。特別彼らのようになりたいとは思っていなかったし、MINOR THREATであることが大事だった。俺たちは俺たち自身であって、他の誰かになる必要もなかったんだ。
ハードコアのファースト・ウェイヴが、84年に消滅してしまったという意見に賛成ですか?
そうだね。確かに83年の終わりから84年の初めにかけて、DCハードコア・シーンは厳しくなって行った。ちょうど俺が次のバンドSECOND WINDを始めた頃で、俺たちもそれほど支持を得られなかった。唯一人気があったのはMARGINAL MANくらいだった。彼らは非の打ちどころがないほど、素晴らしいバンドだったからね。SCREAMも同じように新しい方向に向かっていたし、GOVERNMENT ISSUEも人気が出て来ていたね。だけどとっても重苦しい時期だった。DCハードコアが82年までに築いた巨大なシーンは、83年の『Out of Step』ツアーでピークを迎え、その後破滅に向かった。MINOR THREATが解散すると、シーンは全く違ったものに見えたよ。
MINOR THREATを離れたことで、感情的になったことはありますか?
ないよ。俺はその後、彼らのD.C.でのすべてのショーを最前列で観ていたよ。MINOR THREATのDVD『the 9:30 Club』では至るところで発見出来るよ。彼らの最後のライヴ写真にも全部写っているしね。SECOND WINDのヴォーカリストはリッチ・ムーアって言うんだけど、MINOR THREATのローディーもしていて、ディスコード・ハウスに住んでいたんだ。だから俺はMINOR THREATと同じように、週二回ディスコード・ハウスに行って練習していたんだよ。「お前ら、ふざけんな!」なんて言っている暇はなかったね。
スティーヴ、本音で話してくれて本当にありがとう!
俺にとってMINOR THREATに参加したことは凄いことだったと常に思っているよ。俺は大好きなバンドに入れた珍しいファンってとこかな。ラバー・ソウルとリボルバーの間にビートルズに加入するようなもんさ。一年だけど最高のバンドにいれたんだ。すべては曲のために、そしてその曲を演奏するために。素晴らしいことだったよ。