テトリスを作った男 – ソ連時代の開発秘話から現在まで

Alexey Pajitnov in his Moscow apartment, 1993. All photos courtesy Tozai Games


「噴射!噴射!早く!」
ヒゲを生やしてジーンズのジャケットを着ているこの男、テトリスを開発したアレクセイ・パジトノフだ。共通の知人宅でランチを食べ、一緒にゲームで遊んだ後、彼の住むワシントンの郊外にあるベルビューから僕の自宅まで送ってもらった。あまりのスピードに身体が浮いたのを今でもよく覚えている。

ランチ中にパジトノフは、第二次世界大戦でソ連がナチスにどう立ち向かったかという話を聞かせてくれた。それから、パジトノフが好きだというロード・ランナーというクラシックゲーム愛について。さらに冷戦期に制作していた人工知能、ヨシのクッキーというゲーム、テトリス以外に開発しようとしていたゲームについて語ってくれた。

インターネットでアレクセイ・パジトノフと検索すれば、インタビューや記事がたくさん出てくることだろう。ただどの文章も、世界で最も売れたゲーム、テトリスについてしか書いてない。実際パジトノフに会ってみると、それ以外のことを聞いてみたくなった。

 

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彼の運転はとにかく荒い


まず、彼の運転はとにかく荒い。これは昨日今日の出来事ではないらしい。トーザイゲームスの代表を務めるシェイラ・ボウグテンは、1990年頃ブレットプルーフ・ソフトウェアに入社した当時からの付き合いで、パジトノフのことを色々暴露してくれた。

彼女が最初に任されたのは、パジトノフがアメリカでチームに参加出来るよう、彼の就労ビザを手配することだった。

「私がモスクワに行ったら、みんな運転が荒かったの。もちろんアレクセイも例外じゃない。狂ってるのかと思ってすごく怖かった。アレクセイに言ったの“ロシアで死にたくはないわ”って。それに対して彼は”死ぬ方がいいって言うんじゃないか?だってロシアの病院には入りたくないだろ?”」

当時のロシアは西欧人に対してかなり冷酷だった。ペテルブルグに向かうためモスクワ駅に着いたボウグテンと同僚のスコット・ツムラは、周囲を市民に取り囲まれ、荷物を取り上げられそうになったという。

「本当にカオスだった。アメリカ人の荷物の中には、彼らが欲しいと思うものがたくさん入ってると思ったのね。アレクセイは私たちが乗車するまで道を作るため、人々を押しのけてくれたわ。」


Pajitnov with his Fiat clone, 1993. Photo: Tozai Games

 

ソ連時代、過酷な労働環境の中で


当時モスクワの国立科学協会で働いていたパジトノフは、7時30分から8時の間に起床し、毎日深夜まで働いていたという。朝食にはソーセージと卵とカッテージチーズを食べ、10時に出社するまでに、掃除などの雑用をこなさなければならなかった。4〜5人が働けるほどのオフィスに15人の研究者が詰め込まれ、かなり窮屈だったという。パジトノフは笑いながら、こう言った。

「余裕は全くなかったよ。僕の机を3〜4人で使ってたんだけど、机が空かないから夜遅くまで残るしかなくて。」

当時は、あらゆる研究は軍事利用を前提とされていたため、研究者が自ら研究の可能性を想像することは出来なかった。しかし、当時の成果の中からは、いくつも「偉業」が生まれた。例えば、現在Siriに用いられている音声認識装置のプロトタイプだ。これは、大きな重力がかかるジェット機で手を使わなくとも飛行機に指示を出せるよう開発された技術だった。

一方で、悲しい結末を生んだ研究もある。同様の機械をKGBが盗聴用に用いたのだ。国家反逆的なワードや国家批判的な単語を探知した瞬間に作動する録音装置の開発に応用されたという。パジトノフの同僚は「もちろん、望んでいたわけじゃない」と述べている。

そんな環境の中で、彼は人工知能は自動音声認識装置の開発に勤しんだ。

 

政治に対する嫌悪感が生まれた理由


現在のパジトノフは政治に対して無関心だ。当時のロシアでは、ましてや国立科学協会で働いているからには、愛国的でなければならないという強制的な状態に違和感を抱くようになったのだという。

ボウグテンは一度、パジトノフと共に棺に入ったウラジミール・レーニンの遺体を見に、クレムリンに訪れたという。
「アレクセイはレーニンの横を過ぎるとき、かなり辛そうだった。」

何十年か前まで、ロシアの子供たちは修学旅行でレーニンのお墓参りをし、”崇高な遺体”を抱くことを義務づけられていたという。パジトノフはボウグテンにこう告げた。「僕はその日はいつも風邪を引いていたんだ」

「もちろん、そのことをオープンに話すことはなかった。当時の状況でそんなこと言ったら、どうなるか分からないでしょ。でもとりあえず、一緒に行ってみることにしたの。」

 

テトリス誕生の背景に、地道な努力



様々な技術を開発していったパジトノフは、自分で好きに使えるコンピューターを持つことが出来た。だからこそ、誰の視線も感じずに、人工知能や自動音声認識ソフトのテストとして、ビデオゲームを作ることが出来たのだ。初期の頃に作ったビデオゲームの中には、後にマイクロソフト・エンターテイメントパック:パズルコレクションとして発売されたものもある。もちろん発売時には、ソ連の中でこのゲームが作られたということは知られていなかった。後のテトリス誕生には、パジトノフの地道な努力があったのだ。

1984年、国立科学協会からテトリスが発売された。発売前より学者やコンピューターギークたちの間ではフロッピーディスクのコピーが出回っていた。タイルを積み上げていくこのゲームが多くの知識人たちを魅了していたのだ。プラトンのイデア論を思い起こさせるような、シンプルなデザインがこのゲームの魅力だった。

 

世界的ヒットの裏側にあった権利闘争


1988年、ラスベガスで開かれたコンシューマー・エレクトロニクス・ショーでブレットプルーフ・ソフトウェアの創始者ヘンク・ロジャースに見いだされ、翌年アメリカで発売が開始。世界を席巻するゲームとなった。推計7000万枚のソフト売り上げ、1億回のダウンロードを記録している。

ソ連はゲーム開発のための環境を提供したのは自分たちだとして、テトリスに関するあらゆる権利とすべての利益はソ連が持つべきだと主張。既にパジトノフは開発者として有名となっていたが、結局一介の労働者として、ブレットプルーフ社に合流することとなった。パジトノフは家族ととも、1990年にワシントンのベルビューに移住した。

それと同じ頃、モスクワでパジトノフと共にソフトウェア開発のスタートアップ企業、アニマテックを立ち上げたウラジミール・ポコヒルコもアメリカへの移住を決意。彼の名前がテトリスのクレジットに載らないこともあるが、商業的展開の成功は、ポコヒルコによるところが大きい。1990年にシカゴで合流した2人は、ボウグテンが手掛けた展示会でテトリスを発表。会場でアレクセイとウラジミールは楽しそうに踊っていたという。

 

「彼はいつでもその瞬間に生きている」


パジトノフが西側の暮らしに慣れるまでかなり時間がかかったようだ。ボウグテンが始めてスーパーマーケットに連れて行ったときは、「何個まで買っていいのか?」って戸惑っていたらしい。ボウグテンの助けを借りつつ、パジトノフは歯医者の予約を取り、駐車料金を支払い、早口で話すビジネスマンたちとも話せるようになった。

ある日突然、FBIがオフィスにいたパジトノフのもとを訪れ、KGBとの関係を問いただすということがあった。ソ連の極秘計画を聞き出そうと、パジトノフの妻の元にも行ったらしい。しかしFBIは、パズルゲームのことばかり考えている幸運そうな技術者に聞き出せる情報などないと悟ったのか、その後は顔を見せることがなかった。

ボウグテンによれば、彼はいつだって「その瞬間に生きている」。世界中の人を魅了しただけのことはある。彼はいつだって楽しそうなのだ。

 

「仕事はさっさと終わらせなきゃ」


ソ連が崩壊した1996年、複雑な法手続きを経てテトリスの権利を手にしたパジトノフは、マイクロソフト社のX-boxのプロトタイプ制作に取り組んでいた。ソ連時代と同じように、9時から10時の間に出社し午後1時半まで働いた後、ランチを取り、22時から23時まで働いていたという。12〜14時間も働くなんてアメリカでは考えられない。

「働くのに慣れちゃったんだね。働いている間はずっとこのルーティンだったよ。これが僕のライフスタイルなんだ。」「疲れるときもあったけど、そういう時は少しだけゲームをやるんだ。それで気付いた。仕事はさっさと終わらせなきゃって。」

パジトノフは、アイデアマンとしてプロジェクトの責任者を務めており、もうコードを書く必要はなかった。しかしX-boxの開発に邁進するマイクロソフトに対して、次のように語っている。

「僕はパズルゲームが好きだったから、不運だったのかもね。X-boxはパズルゲーム向きじゃない。そもそもシューティングゲームは嫌いなんだ。もっと静かなゲームを作りたかった…マイクロソフトは、ゲームの本質を掴んでない。専門家も足りないし、最適な人材も揃ってなかった。僕は会社で疎外感を感じていたよ。(X-boxを開発していた)最初の数年間は特に最悪だった。せっかくいい企画もあったのに、彼らはそれを全部打ち切ったんだ。僕の気持ちは粉々だったよ…彼らのプロジェクトに僕は必要とされてなかった。僕のプロジェクトに参加して欲しいメンバーもいなかったけどね。」

パソコン向けのパズルゲームが続々開発される中、マイクロソフトは戦争ゲームの開発に勤しみ、X-box史上最も成功したゲームソフトHaloが2001年に発売された。ようやくゲーム事業がやっと軌道に乗った頃だった。パジトノフはある決断をする。

「マイクロソフトの株とテトリスの著作権料とで、もう働く必要がなくなったんだ。マイクロソフトはもういいやって思った。」

彼はすぐに会社を辞めた。しかし2005年、マイクロソフトはX-box360用のパズルゲーム開発のため、パジトノフを呼び戻した。社員としてではなく、委託を受ける形でこの仕事を引き受けた。

「Hexicは結構面白かった。でもマイクロソフトは短期的な利益を得るためだけに、このプロジェクトを遂行しようとしていたんだ。もっと考えれば、寿命を長くすることだって簡単なのに。僕も僕の同僚も協力的だったけど、それじゃみんなの努力が水の泡だよ」

その裏では、彼の旧友ウラジミール・ポコヒルコに悲劇が訪れていた。1998年、日刊紙サンフランシスコ・コンソールが報じたところによれば、ポコヒルコは寝ている妻をハンマーで殴り、包丁で何度も刺したという。同時に息子も殺害し、最後には自らの首を斬って命を絶った。彼が何故事件を起こしたのか、真相は闇のままだ。

 

現在のパジトノフの日常

Pajitnov today. Photo: Tozai Games



今日彼は穏やかな日常を過ごしている。朝起きたら腕立て伏せと腹筋をして、コーンフレークを一皿食べる。毎日やってるゲームをした後は、Skypeでビジネス関係の人間や友人と会話をしてメールをチェック。それからファンタジーやノンフィクションの本を読んだり、テレビを見たり。一日の大半はゲームをして過ごしているという。現在進めているプロジェクトは特にない。

「頭の片隅にいくつかアイデアはあるけどね」

デザインをするときはパソコンを使わない。ノートと鉛筆があればいい。「夕方になると、テニスをしに出かけるよ。お酒を飲みに行くこともある。家でゆっくりテレビを見たり、本を読んだり。それが僕の日常さ。エキサイティングなことなんて、何もないんだ。」


 

Text by JAGGER GRAVNING
Translated by Kana Inamura