「まだハダーズフィールドにいた幼少期に壁ごしに聞いたベースの音が、私の一番古い記憶」。ノッティングヒルの<タバーナクル>で、2016年1月5日から17日に開催された『サウンド・システム・カルチャー:ロンドン(Sound System Culture: London)』展のキュレーターであるマンディープ・サムラ(Mandeep Samra)は回想する。「隣の人がよくブルース・パーティをやっていた。それにサブリミナル効果があったのかもしれない」
イギリスのサウンドシステム・カルチャーは、レゲエ史のなかで極めて重要な役割を果たしている。1954年のロンドンで、カリブ移民だった若き日の「デューク」・ヴィンセント・フォーブス(”Duke” Vincent Forbes)が単純なシステムを組み、スカやカリプソを大音量で流し始めて以来、イギリスのサウンドシステムはシーンの最先端を走り続け、ダンスミュージックシーンに影響を与え続けている。
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ハダーズフィールド、ブリストル、バーミンガム、ロンドンといった低音都市の社会史をひもとくエキシビジョン『サウンドシステム・カルチャー』は、今も昔も変わらず低音を響かせるミュージック・シーンを、より深く知る絶好の機会であった。
「もともと、ハダーズフィールドのエキシビジョンだったんだけど、自然に大きくなって各地を巡回するようになった」とサムラは教えてくれた。「ロンドンやブリストルみたいな都市ほどきちんと記録は残ってないけれど、ハダーズフィールドでは、音楽シーンが、町の規模には似つかわしくないレベルで盛り上がりました。この展示は、そこにいた人たち、特にアラワッククラブ(Arawak Club)やヴェンストリート(Venn Street)なんかで、このシーンをイチからつくったキャラクターたちの人生や経験を記録したんです。そこからブリストルやバーミンガムに広がってロンドンに至りました」
今にも崩れそうなウェストロンドンのテラスに、巨大なサウンドシステムとイリーガルなバーを準備して夜通し楽しんだ1950年代のプライベートなブルース・パーティー、カウント・シェリー(Count Shelley)のようなパワフルな60年代サウンド、そしてジャー・シャカ(Jah Shaka)やファットマン(Fatman)のような70年代ルーツ・レゲエの重量級システム、80年代の巨人サクソン(Saxon)を経て、システムは、ロンドン中の西インド諸島コミュニティに社会の注目を集め、イングランドのべ―ス・カルチャーに消えることのない足跡を残した。
「こういうシステムは、元々、コミュニティに必要だったから始まったみたいです」。サマラが解説してくれた。「カリブ移民の一世、二世は、パブやクラブに入れませんでした。彼らのダンスパーティは、コミュニティセンターみたいなところで開催されていました。ロンドンの展示では、いろいろなサウンドシステム関係者とコンタクトしたし、レゲエライター、レゲエ史家でもあるジョン・マソーリ* と一緒に、たくさん話を集めました。ロンドンには、どんでもない数のサウンドシステムがあったから、すごく手こずった。すべてを記録することは不可能だったけれど、エキシビジョンの内容には本当に満足してる」
マンディープ・サマラとタッグを組んだ、ジョン・マソーリは、サウンドシステム・カルチャーの生き証人だ。エキシビジョンを充実させるために重要な役割を果たした彼は、サウンドシステム・カルチャーから刺激を受けてきたのだろう。
レゲエについての一番古い記憶を教えてください。
1968年、15歳の頃に経験した、初めてのブルース・パーティです。ノッティンガムのかなり荒れたエリアでした。その頃には、カリブ出身の人が大勢いました。ジャマイカ移民と学校で机を並べたのは、私の世代が最初だったはずです。私にはガールフレンドがいて、その子のおじさんがブルース・パーティをよく開いていたので、私もよく顔を出していました。怖かったけれどエキサイティングでした。別世界でしたから。私は無中になりました。1973年か74年にロンドンに引っ越し、ノッティングヒル・カーニバルでファットマン(Fatman)、サー・コクソン(Clement “Sir Coxsone” Dodd)なんかが大きなシステムを始めた頃です。あの頃のロンドンにいれたのは、素晴らしい体験です。もうブルース・パーティに行かなくても、ホール、ちゃんとしたクラブ、コミュニティセンターで音が鳴っていましたから。私は、そういう場所に入れる年齢になっていました。ただ、ひとつ気づいたのは、ロンドンは人種差別的だったということです。ミッドランドより排他的なのは間違いありませんでした。それが、ロンドンにいる、ということなのだろうと思う部分もあります。ロンドンでは、いろいろなサウンドシステムの間で競争が激しかったし、当時流行ってた意識覚醒とやらに最初に目を向けたのも、彼らでした。
当時は警察からのいやがらせもかなりありました。その手の場所にいると、警察の手入れがあり、全員がボディチェックされ、システムを止めさせられ、クラブを閉鎖させられます。しかし、慣れるもので、それもイベントの一部になりました。若者が集まって楽しもうとすると、必ず邪魔したがる連中がいます。わかるでしょう。
私は、サウンドシステムのボリュームに興味があります。ジャー・シャカが全力でやるようなシステムを知ってしまったら、ルーツレゲエやダブを聴くならそれでなければ、と間違いなく感じるでしょう。ダンスパーティは、音楽を経験するには最高の方法なのでしょうか。
ルーツ・レゲエを経験するのに最高なのは間違いないでしょう。でも、それより深いところがあります。1950年代初期の「デューク」ヴィンセント・フォーブス(”Duke” Vincent Forbes)みたいな初期のサウンドをやってた連中が育ったブルース・パーティの会場ですら、ビルが揺れて天井から漆喰が落ちてきましたからね。そんな珍事も音楽の大事な一部です。サウンドシステム初期の連中はいろんな面で競いあっていました。一番いい誰にも知られてないレコードを見つけてくる、最高のMCにマイクを握らせる、一番クリアな音を出す、音を割らずに一番大きなボリュームで演る。サウンドのデザインとスペックにぴったりあった音づくりの腕前を誇示していました。
ボリュームは間違いなくいち要素ですが、70年代終盤は、それが重視されすぎていた気もします。初期のブルース・パーティは人と出会う場所でした。ダンスして自分たちで楽しむだけでなく、カリブ海に浮かぶ自らの出身地に関するニュースをシェアする社交場でもあったんです。人との交流も目的でしたから、必ずしも、デカいボリューム一辺倒だったワケではないんです。でも、70年代半ばになると、ジャー・シャカやファットマンみたいに、死ぬほど凄いボリュームで攻めてくるサウンドシステムが現れました。たいした経験でしたよ。サウンドを体感したんですから。
胸板が音をたてるんですね。
全身に音が入り込んだようなものです。ある意味、自分がスピーカーの延長になってしまうんです。それから、貴方も好きでしょうけれど、体を乗っ取られる快感は他では味わえませんからね。
80年代のイングランドのサウンドシステム・カルチャーについて教えてください。
1980年代は、この国のレゲエにとって最高の10年でした。ロンドンだけでなく、全国から才能ある連中がどんどん出てきました。ルーツをやるバンドがそこかしこに登場したんです。ジャマイカから届くカセット、「サウンドテープ」が人気になると、英語で教育を受けた、英国生まれの歌手が、突然、ジャマイカのサウンドの要素を取り入れるようになったんです。本物のストーリー・テラーの誕生です。ダブ・プレートの重要性が下がり、DJやシンガーのパフォーマンスが大事になりました。SaxonのようなサウンドシステムにMCやシンガーがいたんです。才能あふれる世代でした。
1984年にパパ・リーバイ(Papa Levi)の「Me God Me King」がジャマイカでNo.1になりました。後にも先にもこんなことはありません。すごいことでした。サウス・ロンドンのルイシャム出身の若者が地元のユースクラブで腕を磨き、ある日突然、レゲエ・サウンドシステムの本拠地であり、レゲエ・カルチャー発祥の地、ジャマイカでNo.1ヒットを飛ばしたんです。ジャマイカのDJやMCが形無しになり、英国生まれのスタイルを取り入れるの目のあたりにしたのは、実に誇らしい出来事でした。
イングランドでそんなムーブメントが起きたのは、どうしてでしょう。
まず、イングランドには西インド諸島からの移民が多いこと。次に、彼らが自らのカルチャーを持ち込んだこと。否定しようとは思いませんが、日常的な人種差別、制度的な人種差別はありましたが、決して排他的なコミュニティではなく、私の個人的な経験では、イングランドの子どもと西インド諸島の子どもには共通点がたくさんありました。友人としてシェアできるものが実に多かったんです。うまくやっていくのは簡単でしたし、人種を越えた関係もいろいろありました。それに、イングランドの労働者階級のコミュニティは、アメリカのソウルやロックをずっと愛してきました。いつでも音楽に対する愛情がありました。それは、私たちイギリス人が持つ強みのひとつなんです。
50年代以降は、カリブからの移民が定住した地域で、必ず音楽シーンが形成されました。70年代になると、施設も増ましたから、50年代よりもシーン形成は簡単だったはずです。今と違い、公営住宅に空きがあったし、コミュニティセンターでは、たくさんのパーティーが開催されていました。ユースクラブも多かったので、教会のホールも利用できました。音楽が花開き、溢れ出るスペースがいくらでもありました。多くのバンドが結成されたので、広がりにも勢いがありました。全てが順調だったワケではありませんが、今では考えもしないカタチで集まれる場所があったんです。
そうですね。それ以来ロンドンは大きく変わりました。今の世相では、会場の制限もありどん難しくなっています。これがサウンドシステム・シーンにどういった影響を与えたのでしょうか。
ひとつ例を挙げます。今では、カーニバルでシステムをやるにはとてつもない費用が必要です。住民からの苦情のおかげで、システムはある程度の警備を自ら賄わなければなりません。これには金がかかります。例えば、Sir Coxsone。誰も彼らがノッティングヒルでプレイするのに金を出そうとはしないが、システムを撤去するのにワゴン車、6-7人のテック、警備費用までなんとかしなければなりません。ゴミ拾い、といった後始末も自ら責任をもたなければなりません。とんでもなく金がかかるんです。
80年代のいっとき、ケン・リヴィングストンが議長をつとめたグレーター・ロンドン・カウンシル(GLC)があって、リヴィングストンはカリビアン・コミュニティやカリビアン・アートに好意的でした。GLCは公園や市役所でいろいろなショーを主催しました。とてもプログレッシブな時代でした。そういう意味では非常におもしろい時期でしたね。その後、サッチャー時代になって今と同じような抑圧的右翼思想が優勢になりました。それは音楽向きではありません。
ロンドンでの展示について教えてください。昔のサウンドシステム関係者を探し出すのは大変でしたか。
最初はロンドン中に呼びかけて、当時の写真を所有する人を見つけるのが主な仕事でした。有名なフォトグラファーの写真だけを使う気はありませんでした。システムの近くで撮った、公に発表されていない写真が欲しかったんです。そういった写真は、違うタイプのインサイトをくれる。それがあれば、ラッキーだし、素晴らしい展示ができる確信がありました。でも、すぐにわかったんです。昔、サウンドシステムに携わっていた連中のほとんどが、あまり写真を撮らなかったか、コンピューターに弱いか、もう亡くなっているか、そんなところでした。
初期サウンドシステム関係者の何人かは、何が何でも展示したかったんですが、どうしても写真が見つかりませんでした。ときにはこんなことも言われました。「当時自分で写真を撮っておけばよかったのに」と。白人の私が?、 ブルース・パーティで?、 ただでさえ、私は、警官だろ、と疑われていたんですよ。首からカメラをぶら下げていたら大変なことになっていたはずです(笑)。 70年代初期に、ところ構わずカメラを人の顔につきつける、なんて真似はとてもできませんでした。それに、当時のロンドンにいいカメラを持ってる人なんてほとんどいませんでした。今でいうところの、撮影、なんて個人がやる時代ではなかったんです。
だが、マンディープのような若い世代が、このカルチャーに興味を示し、リスク覚悟で今回のような展示にトライするのは素晴らしいことです。とてもポジティブに受け止めています。私は、このカルチャーが特別なものだったこと、今後も感動的であり続けることを皆に伝えてくれる、書籍、映画、エキシビジョンをもっと見てみたいです。世界中のサウンドシステム・カルチャーは、今や絶大な影響力を持っています。システムは、南米、アフリカ、極東、世界中のどこにでもあります。20年前にはこんなことになるとは思ってもみませんでした。