Black Lives Matterを本気で考えよう

歴史的瞬間となった〈Black Lives Matter〉運動だが、ハッシュタグはすでにトレンドから姿を消している。一過性の盛り上がりで終わらせないために、私たちは何をすべきか。
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translated by Ai Nakayama
Tokyo, JP
Black Lives Matterを本気で考えよう
Black Lives Matter Protesters in London. Photo: Alex Rorinson

ジョージ・フロイドが警官に拘束、殺害された事件を機に、ハッシュタグ〈#BlackLivesMatter〉が再び世界中から注目されることになり、黒人作家や思想家による〈正しい〉文献を読んだり、〈正しい〉ドキュメンタリーや番組を観たり、〈正しい〉情報に触れたり、〈正しい〉アカウントをフォローしたり、という動きが加速している。また、〈Black Lives Matter UK〉〈Resourcing Racial Justice〉などをはじめとする草の根運動を推進する各種団体/基金に寄付をしたり、若き黒人弁護士たちが発起人となった〈One Case At A Time〉のように新しい活動団体を立ち上げたりと、より目に見えるかたちで支援を行なっているひともいる。精神的なショックを被っている世界中の黒人コミュニティに、必要なメンタルヘルスケアを提供する活動も進んでいる。

数ヶ月にわたるロックダウンの解除以降、マスクと手袋を着けて街に出て、社会正義を求めるデモに参加するひともいる。必読図書リストをつくったり、マスクを手作りしたりなど、自分のスキルを発揮しているひともいる。自分の有している特権について初めて考え、家族や友人たちと難しい話題を語り合うようになったひともいる。この歴史的瞬間は、間違いなく変革を促す大きなきっかけになっていると私は思う。しかしいっぽうで、注意深く歩んでいくべきだとも感じているし、この連帯、関心、責任を伴う参加(特に白人たちの)が、いつまで続くのかについても信用しきれないのも当然だろう。

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2016年、私は英国内の警察の拘束による死亡事件をテーマにした自らの映像作品について記事を書いた。その作品は、2015年、シェク・バイヨがスコットランド警察に拘束され死亡するという事件が起きてすぐに撮り始めたもので、タイトルは『1500 & Counting』。1990年以来、イングランドとウェールズで、警察による拘束、接触のあとに亡くなったひとの数を表している。しかし今や死者数は1741名を超え、このタイトルの数字は、予想通りというべきか、すっかり更新されてしまった。これまで英国では、米国と違い、事件に関与した警官はひとりも罪に問われていない。

この作品についての記事を書いてから、私はインターネット上で嫌がらせや荒らしの被害を受けるようになった。加害者は主に怒れる白人男性だ。彼らは私にガスライティングや脅迫で攻撃し、警察官の悪質な行為をわざわざ記録するなんて、と憤慨していた。当時、まだ作品は完成もしていなかったというのに。

こういったことを、インターネットの片隅で起きている出来事、と片付けてしまうのは簡単だ。しかし、自分たち、そして自分以外の誰かの中に、警察など体制への批判を声高に叫ぶことへの抵抗があるという事実を認識することこそ、反人種差別への積極的な取り組みのひとつなのだ。私たちは、警察は私たちを「守ってくれる」と教わるが、私たち全員を守ってくれるわけではないのは明らかだ。

黒人には、〈疑わしきは罰せず〉の原則がほとんど適用されない。黒人は、無罪が証明されるまで有罪とされる。黒人が警官に殺される事件があるたびに、何度となく「でも彼らも殺されてもしょうがないことをしたんだろう?」という声があがってきた。死してなお、私たちは裁かれる。

私は、誰かが白昼に殺されなければ世間が動かないことに大きな困惑を覚える。白人警官が黒人の首を膝で押さえつける光景を見なければ、みんなが人種差別を「理解」できないことにやるせなさを覚える。

ジョージ・フロイドの殺害同様とても不快な事実だが、彼は最初の被害者ではないし、そして社会が基礎から根本的に変わらない限り、最後の被害者でもないだろう。ブレオナ・テイラーも、トニー・マクデイドも、トレイヴォン・マーティンも、タミル・ライスも、マイク・ブラウンも、サンドラ・ブランドも、ここでは挙げきれないほどいる被害者たちも、みんな同じだ。私は彼らの名前がハッシュタグになり話題に上っては、過去のひととなっていくことに疲れてしまった。

英国は米国に比べて倫理的にまだマシだ、という誤った思い込みは、普段は笑い飛ばせても、最悪な日には腹立たしいことこの上ない。クリストファー・オルダー、シェク・バイヨ、サラ・リード、ンゼー・ムハマドは、この国における警察の暴力、そして構造的人種主義の被害者のごく一部にすぎない。新型コロナウイルスのパンデミック中に起きた、ベリー・ムジンガの不当な死も決して忘れてはならない。駅職員の彼女はヴィクトリア駅での勤務中、男に唾を吐きかけられ新型コロナウイルス感染症で死亡した。

無関心や矮小化、そして隠された人種主義こそが、構造的差別の基礎だ。そしてそれが暴力をいざない、最終的に実際の暴力行為へとつながる。

今は全世界が問題を注視し、ようやく耳を傾け、行動に出ようとしているように見える。「これまで何をしてたの?」「どうして今?」と疑問を呈してきた私だが、それでも今回は世界を信用してみようと思う。人種主義的なシステムを終わらせるための全ての責任は、白人にある。あまりに長い時間、人種差別の解決は黒人をはじめとする有色人種に丸投げされてきたのだから。

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私はみんなに、これからもっと活動を増やし、受動的な〈同調者(アライ:ally)〉から自発的な〈共犯者〉になってほしいと願っている。自分の真価が試されるのはこの瞬間、この数日、この数週間の活動だけではなく、数ヶ月、数年、数十年という、より長期にわたる活動なのだと理解してほしい。ジャーナリスト、ネスリン・マリクの記事で書かれていたように、「(事件が起こったときではなく、事件と事件の)あいだに何をするか。本当に重要なのはそれだけ」なのだ。米国で1964年公民権法が成立してから56年、英国で1965年人種関係法が成立してから55年経った今もなお、私たちは「Black Lives Matter(黒人の命は大切だ)」と叫んでいる。

「変化」を求める空虚な叫びだけでは不充分だ。正義と変革の実現こそが求められている。

@Sianaarrgh

This article originally appeared on VICE UK.