うちの編集長、某コンビニでしか売っていないプリンのことをえらく気に入りました。しかし少量入荷のため、なかなか手に入りません。そこでコンビニ店長に直談判しました。すると、プリンは安定して入荷するようになりました。更に入荷するたびに、「今日も入ってますよ」と、店長から声をかけられるようになりました。そこから編集長は、入荷分プリンを全部買っています。食べまくっています。弊社スタッフにも配っています。でも追いつきません。店長にも「STOP」をいい出せません。この状態はいつまで続くのでしょう。日々の生活の中で、私たちはたくさんの人たちとすれ違います。でもそんなすれ違った人たちの人生や生活を知る術なんて到底ありません。でも私も、あなたも、すれ違った人たちも、毎日を毎日過ごしています。これまでの毎日、そしてこれからの毎日。なにがあったのかな。なにが起るのかな。なにをしようとしているのかな。…気になりません?そんなすれ違った人たちにお話を聞いて参ります。
※中村ジョー(なかむら じょー)さん(47歳):ミュージシャン久々のミュージシャンさんの登場です! 大堀さん以来かしら。よろしくお願い致します。大堀さんは、TAIKO SUPER KICKSっていうバンドをやってらっしゃるのですが、中村さんもバンドですか?ソロもやりつつ、今はバンドもあって、両方やっている感じです。中村ジョー&イーストウッズというバンドをやっています。おお! 杉山清貴&オメガトライブみたいですね! …ってことは、リーダーですか?リーダーというか(笑)。まぁ、そんな感じです。作品も出されているんですか?はい。ROSE RECORDSから出させていただいています。あ、サニーデイ・サービスの曽我部恵一さんのレーベルですね。はい。こちらはもう長くやってらっしゃるんですか?3年くらいですね。いろいろ紆余曲折がありまして(笑)。了解です! では本日は、その紆余曲折を訊かせてください。はい。よろしくお願い致します。現在は音楽活動をメインにやられているんですか?いえ、音楽だけじゃ全然食えないので、普段はウェブ関係の仕事をしています。一応フリーなんですけど、今は契約社員みたいな感じで会社に通っています。月~金とかで?はい、そうです。ライブとかレコーディングなどがある日は、会社を休めるんですか?一応10時~6時までは作業がありますので、音楽活動は、基本的に土日か、仕事後に合わせるようにしています。ROSE RECORDSからは、何枚くらい作品を出されているんですか?ソロのアルバムを3枚、イーストウッズでは2枚目のシングルを出したところです。メジャー・レーベルみたいに、契約枚数とかあるんですか?全然ないです(笑)。本当に友達みたいな感じですから。出来たら、「どう?」って聴かせて。タイミングが合えば、「じゃあ出そうか」って感じですね。曽我部さんとは、もう長いおつきあいなんですか?はい。もともとMIDIいうレーベルにおりまして、そこで同期だったというか。メジャー・レーベルじゃないですか!ええ、まぁ(笑)。僕はハッピーズというバンドをやっていたんですが、とあるイベントで曽我部くんと出会って仲良くなったんです。その流れからMIDIに所属するようになったんですが、そこから、まぁ…紆余曲折ですね(笑)。
申し訳ありませんが、その紆余曲折、ワクワクしてきました! では、お楽しみは後半に取っておいて、まずは、中村さんのご出身地から教えてください。はい。東京です。洗足というところです。お洒落!!全然、お洒落ではないですけど(笑)。洗足学園とかー。清楚なイメージがあります。洗足学園、今はもう川崎ですよ。え、そうなんですか。でも高級住宅地ですよね。まぁ、小和田雅子さんのお家があったりもしますが、僕が住んでたところは、そんなでもありません。洗足駅って、東急目黒線でしたっけ?はい。でも昔は目蒲線でしたよね? あれって、いつから変わったんですか?よく覚えてないですね。気付いたらなってました(笑)。洗足池はまた違うんですよね?はい、違います。なんだかあの辺ややこしいんです。更に北千束っていうのも近くにあるので、タクシーでは間違われてばっかりです。洗足は目黒区になるんですか?駅は目黒区なんですけど、僕が住んでるのは品川区です。ちょうど目黒区と大田区と品川区の中間くらいになります。小学校のときには、お金持ちのお友達がいたり。
Advertisement
意外とそんなこともなかったんですよね。ちょっとお金持ちっぽい子もいたんですけど、隣の西小山とか、旗の台とか、その辺って昔から工場的なところがあって、下町みたいな雰囲気もありました。中村さんのお家は? 雅子さま寄り?いえいえ、うちは普通です(笑)。洗足の子供は何をして遊ぶのですか?普通ですよ。まだ空き地もあったので、野球をしたりとか、ドロケイをやったり。小学校くらいの頃から音楽は好きだったんですか?別にそんなに聴いてはなかったですね。最初に聴き始めたのは、世代だと思うんですけど、アニメブームみたいなのがあったじゃないですか。宇宙戦艦ヤマトとかガンダムとか。カセットテープをテレビの前に置いて、主題歌を録音していましたね。ああ、やりましたね。録音してるときに限って、母ちゃんが話しかけるんですよね。はい(笑)。「黙れ、ババア!」って。ガンプラとかも買ってました?はい。買ってました。私もガンダム世代なんですが、まったくガンダムとか興味なくて。でも仲間はずれにされたくないから、しようがなくガンプラを買ったんです。で、友達に見せたら、「これガンダムじゃねぇよ! イデオンだよ! だっせー!!」と罵られたことをすごく覚えています。え…イデオンですか…。僕、大好きなんですよ! 今も携帯の待ち受けはイデオンですよ!ホラ、見てください! イデオンは僕の人生を変えたんです(笑)。予想外の展開になってきましたが(笑)、ではイデオンの魅力を教えてください。ガンダムは戦争アニメですよね。敵国がいて、連邦軍というのがいて、戦争をして勝つ…そんな話なんですけど、イデオンはもうちょっと未来の話です。いろんな植民地があって、いろんな星に住んでいる設定なんです。とある植民地の星に遺跡の宇宙船が埋まっていて、それを掘り起こしてると、バッフクランという異星人が偵察にきて、彼らには〈イデ〉という無限力の伝説があるんですけど、その遺跡は〈イデ〉ではないかと。そうしたらひょんなことから交戦するようになって、それをきっかけに遺跡の宇宙船が急に動き出して、植民地にいた人達が乗り込んで逃げ出す……そんな話なんです。ずっと異星人に船が追いかけられて、地球に戻ろうとするんだけど「君たちは、異星人が後ろに付いて来てるから地球に来ちゃダメだ」っていって入れてくれないんですよ。ずっと逃げ回ってる話なんです。すいません。これは誰が主役の話なんですか?一応、遺跡の船に乗った少年少女たちがいて、中にイデオンというロボットがいて、それを運転するようになります。その子たちが主人公ではあるんですけど、誰が主人公かというよりは、いろんな群像があるんです。(カメラマン:宮本さん)こんばんはー、遅刻しちゃってすいませんー。あ、中村さん、紹介します。カメラマンの宮本さんです。(カメラマン:宮本さん)宮本です。よろしくお願いします。よろしくお願いします。(カメラマン:宮本さん)何の話ですか?今、イデオンの話です。(カメラマン:宮本さん)イデオン?イデオン、知りませんか?(カメラマン:宮本さん)イデオンって何ですか?東のガンダム、西のイデオンみたいな感じです。全然、西じゃないんですけど(笑)。(カメラマン:宮本さん)赤い彗星的な?イデオンは本当にいいですよ。年に2回くらい見直しますもん。イデオンは、途中で打ち切りになったんですけど、ガンダムが映画化とかされて、アニメブームがあったので、イデオンも公開出来なかった部分を映画化したんです。それがものすごい完成度なんですよ。話も最後はもう壮絶な殺し合いになるんです。子供の首が飛んじゃったり、そんな話なんですよ。結局皆、死んじゃうんです。
Advertisement
(カメラマン:宮本さん)イデオンかー。イデオンの歌とかも好きなんですか?好きです! 「復活のイデオン」、「コスモスに君と」ですね!!じゃあそのレコードも買ったり?もちろんです!! すいません、熱くなっちゃって。本当に好きで、好きで(笑)。よくわかりました(笑)。ではどうしてイデオンからミュージシャンになったのですか?もちろん『ザ・ベストテン』とかも観ていましたし、歌謡曲も聴いていたんですけど、ちょうどその頃って、イギリスの音楽が流行り始めたじゃないですか。カルチャー・クラブとか?そうです、そうです。デュランデュランとか。中学でニューロマンティックを聴くようになって、これは格好いいなと。それでシフトして…イデオンからシフトですか(笑)。はい(笑)。塾の友達がビートルズを貸してくれたりして、それでだんだんいろんな音楽があるんだと気づいたんです。そしてよくある話ですけど、宝島とかを読むようになって。はい(笑)。本当によくある話ですね(笑)。はい。本当によくある話です(笑)。この世代は誰もが通る道ですね。部活とかには入ってなかったんですか?中学のときは美術部に入ってました。地味な感じの中学生で、銀縁のメガネとかかけてて。モテなかったんですか?モテてなかったですねー。女の子と付き合ったりは?一緒に帰るとか、その程度はあったと思うんですけど、特にちゃんと付き合うとかはなかったですね。でもニューロマより、やっぱ女の子の方が大事じゃないですか? デュランデュランじゃ抜けないし。それにあの頃ってアイドル全盛期ですよね?そうですね。私は森尾由美が大好きだったんですけど、中村さんは?僕は岡田有希子が大好きで(笑)。ああー。自殺のときは、本当にショックを受けました。写真週刊誌にもリアルな現場写真が載ってたり。ああー。覚えています。今では考えられませんよね。ええ。彼女の写真集も捨てました。怖くて持っていられなくなりました。多分そういうのもあって、あんまりアイドルとかにハマらなかったのかもしれないですね。じゃあ、中学時代は英国音楽にどっぷり?そうですね。あと、うちの祖父がすごいオーディオとクラシックのオタクだったんですよ。ドイツ語の教授だったんですけど、ちょっとアナーキーな人で、彼にはすごく大きな影響を受けました。隣に住んでたのでよく遊びに行ってたんですけど、クラシックばかりを常にチェックして、オープンリールのテープがあって、FMを録ったり、レコードを録ったりしてました。たまたまNHKの帯番組でビートルズの特集をやってたんですけど、それを勝手に録って、「お前、これ聴け」って貸してくれたりしていました。でも宝島にはビートルズ載ってませんよね?はい。ですから、当たり前のようにパンクにシフトしました(笑)。はい(笑)。こんな世界があるんだって。中学から高校に上がる頃ですね。
高校はどちらに?都立の九段高校というところです。いいところですね!その当時はグループ制、学区制だったので、どこを受けるかというのはいくつか決まっていまして。たまたまそこに入れました。宝島BOYになり、パンクにシフトし、高校からミュージシャン道がスタートしたんですか?バンドも始めましたが、このままじゃいけない、モテない、と思ったので、水泳部にも入りました。やっぱモテたかった(笑)。はい(笑)。水泳は小さいときに通っていましたし、チームプレーが苦手だったので、水泳なら大丈夫だろうと思って。
Advertisement
3年間がっつり泳いんだんですか?はい。そしてモテました?中学よりはモテたかもしれないですけど、それほどでもありませんでした(笑)。同時にバンドも始めていたので、どちらかというとそっちの方が。パンクバンドですか?そうですね。僕はウィラードがものすごく好きで。それでダムドとかも聴き始めるわけです。僕もウィラード好きだったんですけど、ダムドを聴いたときはショックでしたね。ですよね(笑)。「ウィラードの元ネタってダムドだったのか!」って(笑)。僕も聴く度にどんどんショックを受けました。同じだ、同じだ、みたいに(笑)。でも現在は唯一無二のサウンドになっててカッコイイですよ。最初のバンドは、どのように結成されたのですか?最初は、メンバー募集に応募したんです。高1ですね。『ぴあ』に、〈はみだしYOUとPIA〉っていう投稿コーナーがあって、そこでメン募みたいなのをやってたんですよ。「パンクバンドのボーカル募集」があったので、恥ずかしいけどハガキを送ってみたんです。そしたら家に電話が掛かってきて…携帯も無い時代ですから(笑)、「今度1回スタジオに入ろう」となって、新小岩で初めて会ったんです。他のメンバーは、どんな人たちでした?年はちょっと上だったと思います。パンクファッションで決めていました。でも僕は水泳部の坊主刈り、Tシャツ姿で(笑)。まぁ、自分はブルーハーツのヒロトのつもりでしたけど(笑)。はい(笑)。そのときはクラッシュのカバーをやったんですけど、「良かったね、また連絡します」と。もちろん、それから連絡はありませんでした(笑)。それで、自分で結成しようと?はい。たまたま高1のくせに合コンがあったんですよ。今考えると、どういうことなのかわからないですけど、居酒屋で。はい(笑)。高校生でも居酒屋入れましたよね。チャラチャラした子もいて、盛り上がってるんですけど、僕はあまり喋れなくて、どうしようかなって隅っこにいたら、もうひとり隅っこに座っている男子がいて。話したら、彼もパンクが好きだと。ギターを弾いていると。おおー! マーシーとの出会いですか!!まぁ(笑)。若林くんという子なんですけど、じゃあ今度一緒にバンドをやろうという話になって組んだんです。若林さんも九段高校だったんですか?はい。同じクラスではなかったんですけど。それでスタジオに入ったんですか?そうですね。ドラムとベースも誘って、高2くらいから本格的にやるようになりました。ドラムとベースはどこで見つけたんですか?同学年にいた友達です。若林くんはBOØWYとかのカバーバンドもやってて、ドラムはそこの子、ベースはもうひとりパンク好きな子がいたので、彼に頼みました。パンク好きが多い学校ですね(笑)。その子はわかりやすくて、シド・チェーンをしてました(笑)。そのときはまだコピーをしていたのですか?確か、ラフィン・ノーズ的なオリジナルをつくってた気がします。〈ラフィン・ノーズ的なオリジナル〉っていいですね!!ちゃんとつくるようになったのは高3くらいからですね。ブルーハーツのカバーはしていました。そのときのバンド名を教えてください。そのときは…ガスです(笑)。〈GAS〉って書いて…伝説の広島ハードコア・バンドと同じじゃないですか!いえ。〈A〉が、アナーキーマークでした。『TO-Y』って漫画にGASPってバンドがいたので、そこから取りました(笑)。
Advertisement
最高に楽しそうな日々ですね!!でも、名前は途中で変えたんです。え? なぜですか? 本家GASに怒られましたか?ブルーハーツのヒロトさんがブルースが好きで、だんだん僕も若林くんも、ブルースを聴くようになったんです。それで「GASだとパンク過ぎるから名前を変えよう」って。マディ・ウォータースに「Honey Bee」っていう曲があったんで、HONEY BEEというバンド名にしました。音楽性も変わったのですか?そうですね。ちょっとずつ変わっていきました。で、肝心の女の子です。GAS、HONEY BEEで、おイタしてたんじゃないですか?そんなことありません(笑)。一応お決まりなので、教えてください。初体験はGAS時代ですか?いえいえ(笑)。高校を出てからです。予備校のときですね。若林くんと美術系の学校に行こうと思って受験したんですけど、ふたりとも落ちちゃって、代々木ゼミナール造形学校というところに行ってたんです。そのときですね。若林さんとは、本当に仲が良かったんですね(笑)。そうですね(笑)。で、予備校に通ってたパンクスの女の子と?いえ、その子は普通だったと思いますよ(笑)。長いことお付き合いされていたんですか?全然お付き合いはしてませんでした。エッチだけ?はい。そそそそそそ。そそそそそそ(笑)。そういう時期でしたから。相手の人もバージン捨てたい、みたいなのがあったり。そういう成り行きでした。はい。はい(笑)。その後、美術系の学校に進学したのですか?はい。桑沢デザイン研究所というところにいきました。宝島BOYにとっては、憧れの学校じゃないですか! 超エリート! 超クール!!ただ僕は、もう落ちたくなかったので、ドレス科という倍率3倍くらいのところにしました。若林くんは10倍のデザイン科に受かったんですけど。それでもまた同じ学校に(笑)。ええ(笑)。ただそこで僕は、洋服を縫えないという事実に気付きまして(笑)。さすがに夏くらいになったらこれは間違えたなと。1年生の夏ですか?はい。進路を間違えたと思って、もう1回桑沢のデザイン科を受け直したんです。コツコツ勉強して翌年なんとか。おめでとうございます! じゃあ若林さんは1個上に?そうなんです。先に卒業しちゃって(笑)。バンド活動はどうなっていたんですか?ちょうどその頃、ハッピーズを始めていました。90年とか91年とかですね。若林さんも?はい。予備校の途中から若林くんとデュオで〈阿佐ヶ谷ハッピーズ〉という名前で、弾き語り的な、ハンチングを被ったブルースっぽいのやっていたんですけど、若かったからちゃんと出来なくて、バンド編成にしたんです。その頃からブルース、ローリングストーンズ、60年代の洋楽とかに興味を持ち始めていたので、そういう音楽性になっていきました。結構ライブとかもやられてたんですか?そうですね。その頃から月に1回くらいは。どこでやってたんですか?そのときは新宿のJAMですね。JAM、年内で閉店しちゃうんですよね。はい、本当に残念です。新宿JAMってモッズの聖地みたいなところがありましたし、憧れもありましたから。イベントとかで出演はしていたんですけど、ちょうど桑沢を卒業するくらいに、ちゃんとJAMのオーデションを受けて、割とすぐにブッキングしてもらえるようになりました。
桑沢を卒業して、普通に就職されたんですか?はい。僕は1度就職しました。
Advertisement
ハッピーズの活動をしながらですか?はい。でもすぐ辞めました(笑)。僕はデザイン会社に就職して、若林くんはセツ・モードセミナー、他の子はバイトとかしてたのかな? ただ、バブル末期くらいだったので、デザイン会社が忙しくて、全然家に帰れない感じで、これはダメだなと思ったんです。バンドも出来ないし、あと、絵が好きだったので、フリーでイラストもやりたいなって。それで1年も満たないくらいで会社を辞めちゃいました。その後は神宮前にあるパブでバイトをしながらバンド活動ですね。その頃のハッピーズの音楽性は、どんな感じだったのですか?リズム・アンド・ブルースとかをやりたかったんですけど、僕が英語を歌えなかったんです。そこで「日本のリズム・アンド・ブルースってなんだろう?」と考えて、グループサウンズ…GSっぽいものをやることになったんです。また、ちょうどそのときに、ザ・ヘアーっていう有名なモッズバンドも、リズム・アンド・ブルースから、GSっぽいサウンドをやるようになってたんです。ヘアーの佐藤さんがたまたま僕たちのライブを見てくれて、「一緒にやらないか?」って誘ってくれて。年齢は10歳くらい年上なんですけど、一緒にイベントをやるようになったら、お客さんがどんどん増えていきまして。おおー!更にモッズのイベントをやられていた黒田マナブさんが、〈ラヴィン・サークル〉っていうレーベルをやっていて、そこでヘアーとかも出してたんですけど、僕たちもそこからリリースすることになったんです。ヘアーの佐藤さんプロデュースで、シングルとミニアルバムを出しました。グイグイ来ましたね!!更にちょうど…更にが続きますね!!…はい(笑)。更に和モノシーンっていうのが盛り上がってきてまして、日本の昔のヒップなものを取り上げようという流れも出て来ていたんですね。ライターの北沢夏音さんという方がいらっしゃって、その方が〈自由に歩いて愛して〉っていう、和モノのDJイベントを始め、そのクラブシーンとかも僕らのライブと連動するようになり、『BARFOUT!』っていう雑誌でも、北沢さんが<自由に歩いて愛して>の連載を始めて、全国的にそんなシーンの認知度が広がっていったんです。うわー、たくさんの波が重なったと。そして曽我部さんというビッグ・ウェイヴですか?ちょうどサニーデイ・サービスが「青春狂走曲」という曲を出して、それは割と昔のフォークロック調の曲で、僕も面白いバンドがいるなと思っていたんです。その後、<自由に歩いて愛して>で共演したんですね。それで曽我部くんと話すようになって、飲んだら意気投合して、「一緒にやろうよ」と。最初は本当に軽いノリだったんですよ。曽我部さんがMIDIに紹介してくれたんですか?いえ、最初は曽我部くんのレーベル〈HAWAII RECORDS〉からのリリース予定だったんです。曽我部くんは、MIDI内にレーベルを持ってたんですね。ただ、MIDIのディレクターの方が、僕らの演奏を聴いて気に入ってくれまして、出来が良かったので「メジャーで出しましょう」っていう話になったんです。そこからシングルを切って、アルバムを出しました。祝! メジャー・デビューですね! その作品は結構売れたんですか?そんなに売れてないと思いますよ。当時で9000枚くらいじゃないですか。すごい!! それに世間が俗にいうメジャー・デビューというやつじゃないですか。バンド内は、どんな感じでしたか? 「俺たちメジャー・デビューしちゃったよ!」って?
Advertisement
何か皆冷めてましたね。もちろんメジャー・デビューしたのは嬉しかったんですけど、そんなにガツガツ行く感じではなかったですし、特に給料をもらっていたわけでもなかったので、皆バイトもしていました。ただ僕は、がっちりやっていきたいという気持ちはありました。音楽で飯を食っていこうっていう気持ちですか?そうですね。MIDIからは、アルバムを2枚出したんですけど、2枚目くらいからメンバーが抜けたり、他の仕事が忙しくなったりして、だんだんレコード会社と密な関係にあるのが、僕だけになってきちゃったんです。バンドとして、これはちょっと厳しいっていう話なりまして、結局僕が抜けるってことになって、ハッピーズは解散したんです。ただ、MIDIの方からは、「やる気があるんだったらソロでやらないか?」という話をいただいたので、そこで〈JOEY〉という名前でソロ活動に入りました。お父さん、お母さんは、何ておっしゃってましたか?うーん、どういってたかなぁ。そんなにいわれていなかったですね。とりあえずバイトもしてたので。そのときはまだ洗足のご実家ですか?まだ実家だったと思います。おじいちゃんは?うちのじいちゃんは、CDを神棚に飾ったりしてましたけど(笑)、親には申し訳なくて、あまり詳しいことはいってなかったですね。MIDIからJOEYは何枚アルバムを出したんですか?こちらも2枚出しました。以前出ていただいた向井さんは、メジャー・レーベル時代に「ああしろ、こうしろ」っていわれて大変だったとおっしゃっていましたが、中村さんはどうでしたか?そういうのはほとんどなかったですね。サウンドに関しても何もいわれたことありませんし、そこがすごくよかった部分ではありました。でも逆に売り出してもくれなかった(笑)。雑誌に広告くらいは打ってくれていたんですけど。サニーデイがそんなに宣伝しなくても売れていたので、そういう雰囲気もあったのかもしれません。では、まだバイトをしながら活動をされていたんですか?はい。そのときはレンタルビデオ屋でバイトをしていましたね。「いつになったら、音楽で給料もらえるんだろう?」って思いながら(笑)。印税は入っていたんですよね?はい。でも売上枚数を考えたら、1ヶ月も暮らせないくらいのもので。本当にお金は全然なかったですね。リハーサルのスタジオ代はもらえてましたけど、やはりキツかったです(笑)。事務所とかには入っていたんですか?入ってないです。じゃあ、ライブも中村さんご自身でブッキングをして?そうですね。MIDIからオファーもあったりしましたけど、基本的には自分でやっていました。バンドだったら、メンバーと話もできたでしょうが、ソロですものね。結構そのときは辛かったのではありませんか?そうですね。更に友達のゆらゆら帝国もMIDIに入ってきて、急に売れ出しちゃって(笑)。ああ、ゆらゆら帝国もー。「どうしよう? どうしよう?」と、すごく焦っていました。本当に何とか売れたいと思っていました。ご自身で〈売れてやる作戦〉は実行されたんですか?はい。1曲、シングルっぽい曲を書いて出したんですよ。これだったら売れるだろうと。でもそれも全然鳴かず飛ばずで、あらーと、がっくりしちゃって。自信作だったのですか?はい。会社からも「いい曲だね」っていってくれてたんですけど。何ていう曲ですか?「白いハイウェイ」という曲です。
Advertisement
落ち込みました?はい。かなり落ち込んでたんですけど、ディレクターから「また、ああいう曲書いてよ」っていわれて、それでカチン!ときまして。もう二番煎じはやりたくなかったんですね。それで、激しい音楽も好きだったので、どんどんサポートメンバーを正式メンバーにして、ハードなガレージスタイルに路線変更しました。ガレージパンクにシフト! パンクスピリットが、ウィラードが戻ってきちゃったと!ゆらゆら帝国が大きかったですね。その影響も受けました。さらに時代的にもそうだったじゃないですか、ミッシェル・ガン・エレファントが流行ったり、ガレージブームがあったり。だから元々ガレージパンクやサイケデリック的なものは好きだったので、そっちの方向に思いっきり変えちゃったんですよ。そしたら、更に全く売れなくてですね(笑)。ああ…お客さんは?全く付いてこなかったですね。当たり前ですけど、急に変わっちゃったから。「最近のJOEY、どうなっちゃってるの?」…みたいな?そうです。それでだんだんとお客さんが入らなくなりました。更にディレクターの方もMIDIを辞めて、他の事務所に移ったんです。「一緒に来る?」って話になったんですけど、断って、MIDIも辞めて、何とか自分たちでやっていくことにしたんです。それが何年くらいですか?2001年とかですね。では、そこからご自身で再スタートをされたと。いえ、それが、僕が指を怪我しちゃいまして、ギターが弾けなくなったので、もうひとりギタリストを入れて形態を変えてやりはじめたんです。でもどんどんモチベーションが落ちてきちゃいまして。これはもうダメだな、もう辞めよう、バンドを解散させようと。何やっても売れないしみたいな。それが2002年くらいですね。まだレンタルビデオ屋さんでバイトをしていたんですか?インターネット関係の仕事があるって教えてもらって、それまでパソコンも持ってなかったんですけど、色々教えてもらって、ウェブ関係の仕事をやるようになっていました。収入的にはそっちで賄える部分ができていたんですね。また、JOEYを始めた頃に、結婚したんです。なので、ちゃんと仕事をしないとっていう気持ちもありました。それで音楽はストップさせたんです。奥さんとは、どこで知り合ったのですか?ハッピーズのときに、お客さんで来てくれてた人なんですけど。JOEYがガレージパンクになったとき、奥さんは何ていってました?結構、音楽に厳しい人なので、サウンドが変わるたびに「また違うことをやって」って怒られてましたね(笑)。ライブでちやほやされたりすると「すぐ天狗になりやがって」って(笑)。今でも怒られています。素敵な奥さんですね(笑)。はい(笑)。
では、お休み期間を経て、音楽活動を再開されたいきさつを教えてください。全然知らない金沢の方から、「ハッピーズがすごく好きなので、弾き語りライブに来てくれませんか?」っていうメールが届いたんです。僕は弾き語りをしたことがなかったし、ギターも上手じゃなかったんですけど、ちょっとやってみたくなって、金沢に行ったんです。その〈JO-HOUSE〉っていうカレー屋さんだったんですけど、そこで弾き語りをしました。2003年頃です。大体音楽活動は1年くらい休んでました。店名が〈ジョー〉? たまたまですか?はい、まったくの偶然です(笑)。それでやらせてもらったら、ハッピーズだけじゃなくて、60年代の音楽が好きな方たちも来ていて、まだ聴いてくれる人がいるんだと実感して、素直に嬉しかったんです。演奏はめちゃくちゃだったんですけどね(笑)。
Advertisement
それは、おいくつくらいのときですか?30代前半くらいですね。それで「たまにやるくらいだったら弾き語りでもいいかな?」って、だんだんやるようになりました。売れる売れない関係なしに。そして、また曽我部さんと再会されるんですか?はい。下北沢の〈モナレコード〉が呼んでくれて、そこで弾き語りをやったんですよ。そしたら、たまたま曽我部くんが来てて、「ジョーくん、その曲いいね」っていってくれたんです。曽我部くんも自分でレーベルを始めた時期だったんですね。ちょうどROSE RECORDSからコンピレーションを出す予定があったので、それにも誘ってくれて。それから、また曽我部くんとやるようになりました。中村さんも曽我部さんも紆余曲折があって、また一緒に始められたと。素敵ですね。そうですね。曽我部くんに声を掛けてもらえなかったら、ここまでやってないと思いますよ。再活動に関して、奥さまは何かおっしゃってましたか?何もいってなかったと思います。「やりたいならやれば」みたいな(笑)。ソロ活動から、またバンドを始めたのはなぜですか?ソロアルバムを3枚つくったんですけど、ポップスっぽいものより、ちょっと暗い感じの曲を多めにやってたんですね。ライブでも静かな曲って、やっぱり盛り上がらない。少しずつ、「なんだかなー」っていう感じになっていたんです。そのとき、たまたま知り合いからCMソングのオファーがあって、まあ、それで何曲かつくったんです。そしたら、サブで作った曲が選ばれて、逆に割と明るくて、ハッピーズのときにやってたようなポップスっぽい曲は外されたんです。ただ、ソロのときは、ハッピーズっぽい曲はやりたくなかったので、やらないようにはしていたんですけど、やってみたらこういう曲もいいなあと感じたんです。こういうのを残してみたいなと。それでソロのサポートしてくれていたメンバーとか、知り合いとか、ハッピーズの初期から知り合いだったワックワックリズムバンドのメンバーにもお願いして、練習するようになったんです。そしたら今度はライブをやってみたくなった(笑)。レコーディングしてみたくなった(笑)。それでデモを曽我部くんに聴かせたら「出しましょう」ってなったのが3年前くらいですね。そこからなんとか活動を続けています。音楽をストップされたとき、現在のような状況を予想されていましたか?まったく予想していませんでしたね。まさか、ここまで音楽を続けているとは思ってもみなかったですし。現在は、どのように考えてらっしゃいますか? 「売れたいー!!」は、どうですか?さすがに今は違いますね(笑)。音楽で食べていこうとは考えていませんから。赤字にならなければいいくらいで。ただ単純に、たくさんの方に、僕たちの音楽を聴いてもらいたいという気持ちはあります。フジロックとかにも単純に出たいですし。なんでオファー来ないのかなぁ? って思ってます(笑)。プレッシャーもないですか?当時のプレッシャーとは違いますね。今は、新曲をメンバーに聴かせると、ダメ出しされたりするのがプレッシャーになっています(笑)。でも自分だとわからないので、メンバーがいるのはいいなぁって思っています。じゃあ今は完全にバンドとして活動していると?そうですね。でもみんな忙しいので、スケジュールを合わせるのが難しいんですけど。メンバーは何人いらっしゃるんですか?僕を入れて、8人になります。
Advertisement
うわー、大所帯ですね! スケジュール調整は、中村さんがやられているんですか?はい。お金の管理は?僕です。スタジオもおさえて。はい。大変ですね!はい。でも楽しいですよ。ちなみに、マーシーこと、若林さんは、現在どうされているんですか?今は外苑前の〈ヘンドリクス〉いうカレー屋さんで店長をやってます。若林さんとは会ってらっしゃいますか?ライブには全然来ないですけど、年に数回は会ってますね。今年の6月に、さっきいった〈自由に歩いて愛して〉っていうイベントが何年かぶりに復活したので、そのときは阿佐ヶ谷ハッピーズをふたりでやりました。おおー! ではハッピーズの再結成はないのですか?実は、これまでライブで4回やっています。東高円寺の〈UFOクラブ〉だったんですけど、そこの店長も新宿JAM出身で、後期ハッピーズのベースをサポートしてくれていたんです。確か、何周年かなんかの記念だったかな? それで誘われて、ベースとドラムはサポートだったんですけど、1度やったあと、大阪でも1回やりました。そのあとは、元々のドラマーが癌になってしまって、ちょっと調子が悪いと。それじゃあ、元気なうちにやってみようかと、今度はオリジナルメンバーで2回やりました。今後のハッピーズ復活の予定はないのですか?そうですね。そのドラムも亡くなったので、もうできないですし、正式な形ではやらないと思います。それでは最後に。これからの夢などがありましたら教えてください。バンドのこと、私生活のことも。ですから、元気に続けられればと思います。単純にもう47歳なので(笑)。身体が動くうちに、歌えるうちに、ってやつです。生活はもうわかんないです。なるようになれって感じです(笑)。今のところ、なるようになってますし(笑)。近々のライブ予定などはありますか?イーストウッズでの予定はないんですけど、ちょこちょこソロライヴとか入っているので、よかったらいらしてください。
※「Who Are You?」では、インタビューを受けて下さる方を募集しています。自薦、他薦、構いません。お名前、ご年齢、性別、お住まい、ご職業、応募の動機を明記の上、こちらまでお問い合わせください。