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そこにいる死者──被災地の霊体験を聞きとり、記録する

「親しかった人の霊を見るということは、亡くなる前にふたりで暮らした時間の積み重ねと密接な関係があるのではないかと考えました。それで亡くなったおじいちゃんと信号で待っているおばあちゃんの人生を知りたくなりました。そういう取材も楽しいんじゃないかなと思ったんです」

東日本大震災の被災地に霊が出ているという。死に別れた大切な人との不思議なめぐりあいに、生きる力をとり戻した人がいる。いっとき孤独を忘れた人がいる。自分を責めてはいけないと思えるようになった人がいる。震災後5年以上たった現在も、死者と生者のあいだで紡がれる様々な物語。被災者のもとに通い、霊体験を取材し続けているノンフィクション作家、奥野修司さんに話を聞いた。

そもそも霊体験には興味がなかったそうですね。

僕は自分を“全身合理主義者”だと思っています。いま書いている本も、がんと分子生物学がテーマですから霊とはまったく関係がありません。ところが、2003年から末期がんの患者さんを取材するようになって変わってきました。彼らの多くが死の間際にスピリチュアルな体験をしていることを知ったからです。亡くなった肉親や知人が現れる「お迎え」です。この現象は僕の祖父が亡くなるときにもありました。昭和30年代ぐらいまで、お迎えは普通にあったんです。ところが、それを現在の医療の現場では幻覚やせん妄として処置されていることに違和感をもちました。しかし、医者でもない僕がお迎えについて書いたところで説得力に乏しい。それで医者の口から語ってほしくて捜しているときに岡部健* さんと出会いました。「お迎えって信じますか?」と聞くと「お迎え率って知らねえだろ」と返されて、ぐっと惹かれて取材を始めました。それで『看取り先生の遺言』** を書いたんです。人が亡くなるとき、例えば、肺がんの末期には体内の炭酸ガスが増えてきます。肝臓が悪くなるとアンモニウムイオンが増えてくる。ほかには一酸化窒素など、臓器によって様々ですが、何が増えても気持ちよくなるんです。それは生命に備わった安全装置じゃないかと思っています。お迎えも同じで、見た本人が気持ちいいんだったら、あることを否定せず、認めてあげればいいと思いました。

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『新潮』4月号に書かれていましたが、お迎えに興味があるのなら東日本大震災で被災した人たちの霊体験も取材して記録として残すべきだと、岡部医師から説得されたそうですね。

当時、お迎えは取材したいと思っていましたが、幽霊となると、ちょっとそこまでは……というのが本音でした。全身合理主義者としては、どう処理したらいいかわからなかった。そもそもノンフィクション自体、検証できる事実をとりあげる仕事なので合理主義で成り立っています。なので、合理主義から外れるのは危険だと思っていました。でも、亡くなる直前に岡部さんから強く言われたり協力者を紹介されたりしたので動いてみることにしました。とりあえず取材を始めれば何か出てくるだろう、走りながらわかってくるだろうと思って。岡部さんの奥さんが石巻のご出身だったこともあり、最初は石巻から南相馬のあたりまで取材しました。仮設住宅で取材して2人の方から聞いたのですが、霊を見たことを東京から来たお医者さんに話したところ精神病の薬を処方されたそうです。彼らは自分が精神病になったと思って、とても恥じている様子でした。見たことは事実なら、認めてあげればその人は凄く楽になるのに。それで被災地の霊体験のことを書こうと思ったんです。

霊体験の取材を続けるのはつらくないですか?

最初は怖い話ばかり聞かされていましたから、続けるのはつらいなと思っていました。家のドアを開けたらびしょ濡れの女の人が立っていた、とか。恐怖を集めても希望がないじゃないですか。それに真剣に聞けば聞くほど情念のようなものが移ってきて、こっちまでつらくなるんです。これは精神科の現場ではよくあることで、例えば患者からDVの体験を聞いていると、まるで自分までDVを受けたような感覚になってくる。僕自身も『心にナイフをしのばせて』 *で、殺人事件の被害者家族を取材したときに嫌というほどそういうことがありました。だから今回の取材はあまり乗り気じゃなかった。ところが石巻の大街道の信号のところにおばあちゃんが立っているという話を岡部さんから聞いて心を動かされまして──。

『新潮』には岡部医師の言葉として、こう書かれています。〈「石巻のあるばあさんが、近所の人から『あんたとこのおじいちゃんの霊が十字路で出たそうよ』と聞いたそうだ。なんで私の前に出てくれないんだと思っただろうな、でもそんなことはおくびにも出さず、私もおじいちゃんに逢いたいって、毎晩その十字路に立っているんだそうだ」〉。──読んでいて胸が締めつけられるような話です。

親しかった人の霊を見るということは、亡くなる前にふたりで暮らした時間の積み重ねと密接な関係があるのではないかと考えました。それで亡くなったおじいちゃんと信号で待っているおばあちゃんの人生を知りたくなりました。そういう取材も楽しいんじゃないかなと思ったんです。

石巻市は東日本大震災の被害がもっとも大きかった町で、4000人近くの方が亡くなったり行方不明になったりしました。

石巻の大街道というメインストリートはいつも混んでいるので、よく抜け道を通るんです。ところが2012年ごろ、いきなり飛び出してきた人を轢いてしまったのに、車から降りたら誰もいなかったという通報が相次いで、警察はその道を夜間通行止めにしました。解除されたのは2014年ぐらいですから、長く続きました。最初はそういう話ばかりが伝わってきて、親しかった人の霊の目撃例はあまりなかったんです。

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今回、本格的に取材を始めたのは何年ですか?

2013年ですね。2012年は他人の霊を目撃した話ばかりだったのが、2013年の夏を過ぎたあたりから大切な人の霊を見た体験談がぽつぽつと出てきました。あとから聞くと震災直後から霊を見ていた人もいましたが、2〜3年たって気持ちが少し落ち着いて、頑張って生きてみようかなと思えるようになってから見るようになった人が多いです。この世に現れたら、遺された親があの世に行きたがるだろうからと死んだ子が心配して、すぐには出なかったんじゃないかと取材で語った親御さんもいました。

できるだけ早く取材を開始すべきだと岡部医師に言われたそうですが。

家族を突然に喪った人は、自分は大丈夫だと納得させるために物語をつくります。そうすることで人生の断絶を修復しようとする。だから、激しかった喪失感が落ち着くにつれて霊体験は変わっていくんじゃないか。変わる前に聞いたほうがいいんじゃないかと岡部さんから言われていました。だけど実際に取材してみて、変わってもいいと僕は思ったんです。2013年に行なった取材は、話してくれる方も精神的に不安定で、さほど細かいことを聞けていません。それが2014年になって詳しく聞けるようになってきた。これでいいと思います。遺族にとっては納得することがグリーフケア* に繫がるんです。

現在まで何人ぐらいの被災者から霊体験の聞き取りをしましたか?

約30人です。そのうち原稿に書けるのが17人ぐらいだと思います。

取材に応じてくれる人をどうやって見つけるんですか?

いろいろ試しましたが知人の紹介がいちばんでした。いろんな人に声かけて、ひたすら待つ。僕がよく知っている人の紹介ということは、その人から見て大丈夫だろうということなので、より信頼性があるんです。

話されたことが事実かどうかをどうやって判断していますか?

判断するものはありません。その人が体験したことを証拠立てるものは何もないんです。嘘をつこうと思えばいくらでもつけますから、極めて危険なテーマではあります。実際に僕が聞いたなかでも、嘘だろうと思った話もありました。何度も会ううちに嘘をついているかどうかわかってきます。わからなかったら、取材をすべてやめていますよ。例えば、家族全員が見たケースなんかは信頼性が高いですよね。僕は自分が大丈夫だと判断できた話だけを原稿に書いています。

嫌いな人の霊が出てくるケースはありましたか?

これまで聞いたなかではありません。嫌な関係が根深ければ出てくるのかもしれませんが。

『新潮』の原稿でも触れられていた『遠野物語』* の第99話は、明治三陸地震(1896年)で妻子と死別した男が妻の霊に会った話です。妻の霊は結婚する前に親しかった別の男の霊と一緒にいて、あの世で結ばれており、「子供はかわいくないのか」と問いかけると妻の霊が泣きます。親しかった人の霊に会ったのに心あたたまる話ではありません。取材されたなかにも、そんな少し複雑な霊体験はありましたか?

ひとつだけありました。『遠野物語』みたいな体験をした人がいるということで紹介してもらい話を聞きました。その人は津波で奥さんを亡くした2カ月後に、奥さんと親しかった親戚の女性と再婚したんです。それを恨んで、その女性のところに亡くなった奥さんが出て、いろいろ訴えたらしいんです。原稿でどう扱っていいのかわからないので、いまのところ保留にしていますが。

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取材されたなかで、とくに印象深かった話をひとつ聞かせてください。

これは『新潮』には書いていませんが、津波で旦那さんを亡くされた看護婦さんに聞いた話です。大きな余震のときに、海水をかぶってボロボロになった遺品の携帯電話が突然光りだしたそうです。それ以降、旦那さんが夢に出るようになるんですが、それが4Kみたいにリアルなカラーで、手を繫いだら感触もあったそうです。そうなると、仮設住宅にひとりで住んでいても寂しくありません。なんかこう、一緒にいるみたいな感じで。不眠を訴える被災者は少なくありませんが、その方は「眠ったらお父さんと会える。だからすぐに眠れます」と言っていました。「一日8時間寝たら8時間お父さんと過ごせるから、全然寂しくないんです」と。被災地の不思議な体験としては、亡くなった方が夢に出てくることがとても多いです。それも現実と区別がつかないほどリアルな。

夢のほかにはどういうものが多いですか?

携帯電話にまつわる不思議な話も多いですね。携帯に電話したら亡くなったお兄ちゃんが出た、とか。たとえ被災地でも、そんな話をいまだにおおっぴらにできないんです。携帯で霊体験をした人が話をする集まりがあると聞きました。ほかには、音が聞こえたり、映像として見えたり。姿が見えるのでハグしたら、実体として感じられたという人もいました。

取材をするうえで心がけていることはありますか?

強いて言うと極力誠実に対応するだけで、ほかには何もありません。誰にも話せなかった体験をこの人になら話してもいいと思ってくれるかどうか、それはフィーリングの問題ですから。僕は仲間とカンパを募って毎年夏に被災地の子供たちを沖縄の伊江島に連れていっているんです。はじめは40人ぐらいで、いまはお金がなくなってきて20人ぐらいですが、12日間島に滞在するんです。被災からくる不安や緊張をとるのが目的で、帰ってくると子供たちは親がびっくりするほど元気になっています。そんな活動のなかで、話してくれる方に出会ったこともあります。

霊体験の聞きとりをしていることをその方に言ったんですか?

ある程度信頼関係を築けたと思った段階で、実はこういう取材をやっていますと伝えました。その方は子供を亡くしたお母さんで、ずっとふさぎ込んでいたので沖縄に誘いました。「実は私自身がそうなんです」と、あとから教えてくれました。沖縄はスピリチュアルな体験を受け入れる土地柄なので、それも影響したのかもしれません。

沖縄で聞いた霊体験のことが『新潮』に書かれていました。

『ナツコ 沖縄密貿易の女王』* の取材をする過程で、沖縄戦にまつわる霊体験をたくさん聞きました。例えば、捕虜収容所で酷い目に遭ったときに霊が出てきて助けられた、とか。もう少しちゃんと聞いておけばよかったけど……。阪神大震災のときは、なぜか誰も霊体験の聞きとりをしていないんです。沖縄にはユタがいたり、東北にはオガミサマ** やイタコがいたりします。取材を申し込んだときに「喋っていいかどうか、オガミサマに聞いてみます」と言われたこともありました。オガミサマを介して亡くなった方がいいと言ったので取材を受けてくれた方が何人もいました。また、津波で過酷な体験をした方の多くが、恐山に相談に行っています。でも関西の人たちには頼るべき土着の宗教がなかったんじゃないでしょうか。

3歳の子を亡くしたお母さんの取材で石巻のみなし仮設住宅* を訪れたときのことを『新潮』で次のように書かれています。〈仏壇には線香も線香立てもおかれているが、線香に火をつけた跡がわずかしか残っていないことが気になっていた〉。小さな仏壇の前で一瞬息を止める奥野さんの姿が見えるようです。

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いつもは仏壇に手を合わせてから取材しますが、そのときは線香をあげた形跡がなかったので、あげていいのか、手を合わせていいのかわかりませんでした。するとお母さんが、「死んだ息子は仏壇にいるんじゃなくて私のまわりにいると思っているので、どっちでもいいです」と言うんです。被災地ではそういうことがよくあります。納骨していない人も非常に多いです。

ずっとそばにいてほしいから。

そうです。

いつか仮設を出ていくとき、お子さんの霊と離れ難い気持ちにならないでしょうか?

どうかな。そのへんはよくわからないですね。

取材を受けた方たちの語り口が表現豊かで、震災前の町の様子や家族の生活などが目に浮かぶようです。聞きとりの際に心がけていることはありますか?

最初はとりあえず聞いてみる。その後、2度3度会ううちに関係性ができますから、リラックスして喋ってくれるようになります。聞かれたこと以外の過去の出来事を思い出したりする。1回目の取材で概要を把握して、2回目以降で肉づけしていきます。

霊体験の聞きとりを続けるうちに当初あった全身合理主義者としてのためらいは解消されましたか?

いまでも霊体験の話をノンフィクションで書くのはどうかという迷いはあります。編集者に相談したら「旅行記みたいな感じで書いたらどうですか」と言ってくれて、それもいいかなと思いました。『ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年』* と同じ編集者です。『ねじれた絆』のときは「小説みたいな感じでもいいんじゃないですか」とアドバイスされて僕も面白いなと思ったので書いたんですが、ノンフィクションはこうあるべきだという思い込みが強い人たちから顰蹙を買いました。

どうしてですか?

小説にしたほうがいいと言われたんです。あの本は講談社ノンフィクション賞と大宅壮一ノンフィクション賞にノミネートされましたが、どちらも受賞を逃しました。でも僕は、起こった事実を伝えるのがノンフィクションだとしたら、書き方は小説風であってもいいと思っています。例えば『ねじれた絆』で、赤ちゃんを取り違えられた双方の家族が体面したシーンを書くとき、そこで話された内容が事実であるなら小説の会話文のように書いてもいいと思います。ノンフィクションが売れない時代ですから、どうやったら読みやすくなるかを編集者と模索しましたが、否定されたわけです。今回もノンフィクションでは扱いにくいテーマですが、起こっている事実を伝えるのだからノンフィクションである、ということで始めたんです。

これまで影響を受けたノンフィクション作品はありますか?

実はノンフィクションを目指してこなかったんで、すぐには思い出せないけど……本田靖春さんの本は読んでいました。『誘拐』なんかを。あとは柳田邦男さんの『マッハの恐怖』とか。むしろ小説のほうを読んでいました。井上ひさしさんが好きでね。いつの間にか週刊誌の記者になって、ずっとやっていましたが仕事に疲れてしまって、もう嫌だなというタイミングで『ねじれた絆』を書いたんです。

本になるのが楽しみですが、取材はいつまでかかりそうですか?

枚数的には十分なので、あと1人か2人取材すればいいと思っています。目の前でご家族を亡くされた方には、まだ取材できていないんです。津波のときに手を握って屋根に引っ張り上げようとしたけど力尽きて、目の前でお母さんが流されてしまった人がいます。いろんな霊体験があることは知っているんですが、ご本人がまだ凄く不安定で。喋ってもいいと思っているときに取材の約束をして、指定の日に東京から会いにいくと、「今日はダメです」となる。その繰り返しです。難しいと思います。

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子供のころは将来どんな仕事をしたいと思っていましたか?

僕は医者になりたかったんです。

それで全身合理主義者なんですね。

いや、僕らの世代はみんなそうです。戦前の神秘主義の反動だと思うのですが、合理主義の教育を徹底的に受けたのが団塊の世代なんです。僕自身、UFOとか霊とか聞いただけで拒否感がありました。僕らみたいに合理主義の鎧を着ていると、スピリチュアルな体験をしたところでまったく気づきません。これから団塊の世代は大量に死んでいきます。合理主義者にとって、死とは無になることです。自分が無になるという観念が頭にこびりついてしまう。これは凄く怖いです。70歳を過ぎて体も弱り、日常のなかで死を意識するようになると、酒に溺れる人たちがたくさんいます。これからそういう年寄りがどんどん増えてくるでしょう。しかし、スピリチュアルな体験をした人の多くは、生まれたところに帰っていくような感覚になる。死とは命の転換であって無になることではないと思えば、さほど苦ではありません。それを「あの世があるか?」「霊は存在するか?」と言うからややこしくなる。そんなの証明できるツールを僕らはもっていないんですから。

奥野修司プロフィール
1948年生まれ、大阪府出身。立命館大学卒業。1978年より南米で日系移民調査を行なう。帰国後、女性週刊誌を中心にフリージャーナリストとして活動。1998年、「28年前の『酒鬼薔薇』は今」(『文藝春秋』1997年12月号)で、編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞受賞。2006年、『ナツコ 沖縄密貿易の女王』で、講談社ノンフィクション賞と大宅壮一ノンフィクション賞をダブル受賞。同年発行の『心にナイフをしのばせて』では高校生首切り殺人事件を取りあげ、8万部を超えるベストセラーに。2011年より被災児童を沖縄に招くティーダキッズプロジェクトを推進している。2014年度より大宅壮一ノンフィクション賞選考委員(雑誌部門)。