サンフランシスコを拠点とするTARGET VIDEO(aka TARGET VIDEO 77)は、1980年代を中心にVHSというフォーマットでBAD BRAINS、BLACK FLAG、CIRCLE JERKS、X、DEAD KENNEDYS、FLIPPER、CRUCIFIX、THROBBING GRISTLE、DEVOなどなど、数え切れないほどのパンク〜〜ハードコア〜ニュー・ウェイヴ系バンドを収めたビデオをリリースしてきた。ここ日本でも、当時は輸入盤しか扱っていなかった外資系レコードショップの片隅を少しずつ侵食し、ニキビ面のジャパニーズティーンたちは、リアルな米国シーンの凄まじさにおったまげを喰らっていた。
そう、当時の洋楽といえば英国が中心だった。テレビでは小林克也が〈ベストヒットUSA〉なのにDURAN DURAN、CULTURE CLUB、WHAM!、KAJAGOOGOOを紹介し、それに物足りないゴスっ娘たちは〈フールズ・メイト〉で、THE CURE、BAUHAUS、THE SISTERS OF MERCY、マーク様(・アーモンド:Marc Almond)を、そして精子臭いメンズはモリ夫率いるTHE SMITHSあたりを追っかけていた。日本に入っていた米国音楽といえば、R.E.M.、THE DREAM SYNDICATE、10,000 MANIACS、そして「変な名前!!」で覚えたOINGO BOINGOなど、小汚くて野暮ったい人たちばかり。「アメリカってダッセー」なんて思いながら、黒服チームは優越感に浸っていたのである。
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そんな矢先に米国から投げつけられたのがTARGET VIDEOだ。明らかにR.E.M.ともVAN HALENとも違う、リアルな米国の現状が明らかになった。「え? ハードコアって、モヒカンじゃなくていいのか! ネルシャツでいいのか! なにをやってもいいのか!!」。ツルっ禿げのゴリラみたいなのが絶叫しまくる映像に黒服チームはマジでザワついた。そして、一部の黒服は、自らのシーンからの即時脱退を表明し、モンスターがウジャウジャうごめく悪の米国地下シーンにダイブしていった。そう、間違いなくTARGET VIDEOは、日本における洋楽シーンの構造を変えてしまったのだ。
今でも誤解されているのだが、TARGET VIDEOは、音楽ビデオレーベルではない。本来の姿は、自前のスタジオを構えたサンフランシスコの映像制作チームである。自分たちでアーティストを撮影し、自分たちで編集。そして、自ら企画したイベントで作品を上映。その延長にビデオパッケージがあっただけで、レーベルというよりも、バンド、アーティストに近い活動をしていた。主要メンバーは、大学で映像を学んでいたジョー・リース(Joe Rees)、ジル・ホフマン(Jill Hoffman)、ジャッキー・シャープ(Jackie Sharp)の3人。現在はほぼ活動をストップさせ、オフィシャルサイトも滅多に更新しないシルバー・ライフを送っているが、まだまだ3人はパンクスであった。はい、小生は会ったからわかるんです。
VICE Japanがお届けする新SVODサービス〈VICE PLUS〉は、これまでほとんどDVD化されず、超お宝になっていた膨大なTARGET VIDEOの秘蔵映像をシリーズ化し、その名もズバリ〈TARGET VIDEO 77〉として公開していく。それもジョー・リース自らが再編集した完全オリジナルの超貴重映像である。記念すべき第1回目には、パンク、ガレージ、ロカビリー、サイコビリーを乱行させた米国珍獣シーンのパイオニア、THE CRAMPSと、LAの早過ぎたミュータント・シンセサイザー・パンクバンド、SCREAMERSが登場。今後もジョー・リースは、失禁必至の映像をバンバン送ってきてくれるので、どうぞみなさま、ご準備くださいませ。
〈TARGET VIDEO 77〉公開記念として、オリジナルメンバーのひとりであるジャッキー・シャープ(Jackie Sharp)にインタビュー。エレガントな老夫人は、猛スピードでジャガーに乗ってやってきた。
TARGET VIDEOが始まったいきさつを教えてください。
ジョー・リースとジル・ホフマンが、オークランドで始めたんです。1978年の冬、ふたりはサンフランシスコのウィンターランド•ボールルームでSEX PISTOLSの撮影をしていました。そう、SEX PISTOLSのラストライブですね。でもその夜、TARGET VIDEOのウェアハウスが火事になってしまったんです。それでサンフランシスコのサウス・ヴァン・ネス・アヴェニューに移りました。〈万物の真理〉といいますか…いえ、万物とはいいたくないので、〈ロックの真理〉にしときましょう(笑)、SEX PISTOLS最後の日に、TARGET VIDEOのオークランド期も終焉したのは、偶然ではない気がします。私が加わったのはそのあとからです。79年の終わりか、80年初頭だったはずです。
サンフランシスコのオフィスはどんな感じでしたか?
ここでもウェアハウスを借りていました。3階建で、各フロアは約280坪。とても広かったですよ。そこで生活もしていましたし、たくさんのバンドが出入りし、寝泊まりもしていました。私たちのオフィスは1階で、トラックヤードを玄関にしていました。もともと壁は白でしたが、出入りするバンドがフライヤーやポスターを貼ってしまうので、壁はほとんど見えなくなりました。1階の奥には、緑と青のクッションフロアを敷いて、約30センチのステージもつくりました。そこではレコーディングもできましたから、BLACK FLAGがよく利用していましたね。
TARGET VIDEOのスタッフだけでウェアハウスを借りていたんですか?
いいえ。2階はファンジン『Damage』の編集部と、ジョーの編集スタジオがあり、数名がそこで寝泊まりしていました。3階は物置と居住スペースで、漫画家も住んでいました。映画、音楽、映像、ファンジンなど、メディアに携わるクリエイティブな人間が集まっていた場所なんです。
ビデオはどのように撮影していましたか?
最先端だったソニーの1/2インチ業務用ビデオカメラを使っていました。スタジオ撮影以外に、野外でもこのカメラを使いました。80年以降は、より高性能なカメラを入手したので、映像のクオリティーも上がりましたね。ただ、私たちはロケよりもスタジオ撮影が好きでした。スタジオでは照明や環境をコントロールできるし、撮影に合わせて音楽も再生できますから。
どうしてバンドを撮り始めたのですか?
ジョーがアートとして始めたんです。この質問には、彼が答えるべきですけど(笑)。ジョー本人は、「テレビでこのアイデアを観た」と語っていましたが、当時はミュージック・ビデオなんてありませんでしたから、UCLAの映像科で学んだ私にとっても、彼のアイデアは斬新でした。今では、みんなが映像を編集しているけれど、当時は映像編集なんて誰もしていませんでした。スーパー8mmフィルムや16mmで実験的な映像を撮っていた時代です。その後、ビデオが登場し、上書きが可能になり、フィルム代が安くなりました。ビデオがアートの敷居を下げたともいえますね。あと、クラブでのバンド撮影には、照明機材がたくさん必要でした。ジョーは大きな照明機材を持って現場に向かっていましたが、ライブのムードを壊すから「照明を落としてくれ!」とバンドから注意されていました。照明無しの撮影は本当に難しかったですね。ジョーは、サムという用心棒みたいなスタッフといつも一緒でした。オーディエンスはカメラなどを気にせず踊り狂います。カメラにぶつかっても気にしません。梯子によじ登るオーディエンスもいましたしね。
当時のサンフランシスコは、どんな街でしたか?
現在のような大都市ではなく、コンパクトで、土地も安く、クラブもたくさんありました。〈Deaf Club〉には、ろう者たちが働いていて、バーでは手話でオーダーしていましたね。あとゲイコミュニティーにも活気がありました。アーティストをはじめ、たくさんの若者たちがサンフランシスコに集まっていました。サンフランシスコ・アート・インスティテュート、カリフォルニア芸術大学など、アートスクール出身者が大勢いましたね。そんな土壌でTHE MUTANTSなど、たくさんのバンドが生まれ、街は磁石のように若者を惹きつけていました。もちろんパンク・シーンは、まだまだアンダーグラウンドな存在でしたから、キーラジオ局では、JOURNEY、FLEETWOOD MAC、エルトン・ジョン(Elton John)とか、そんなのばかりが流れていました。ブリトニー・スピアーズ(Britney Spears)がずっとかかっているようなものです。でも実際のストリートでは、JEFFERSON AIRPLANE、GRATEFUL DEADのようなロックンロールモデルが古臭くなりはじめ、BLONDIEとかDEVO辺りが注目されてきたのです。当時のDEVOは、まだまだキャリアの浅いバンドで、そうですね…ブレイクする前のNIRVANAといった感じだったでしょうか。メディアといえば、ファンジンが存在していたくらい。LAの『Slash』、サンフランシスコの『Damage』、ニューヨークの『New York Rocker』などから情報を仕入れていました。ファックスも普及していなかったですし、長距離電話の料金もとても高かったので、通常のコミュニケーションツールは手紙でした。それでも今以上に、友達はどんな人間なのかを理解していたように思いますし、それがクリエイティブな環境を生み出していたのも事実です。特にサンフランシスコは小さな街だったので、うまく成り立ったのかもしれません。サンフランシスコでは、坂を登り降りする必要がありますが、徒歩でどこにでも行けます。LAでは絶対無理ですものね。更にいうと、サウンフランシスコのパンク・シーンは、LAよりアート指向が強かったですね。
その後、パンクムーヴメントが本格的にやって来たんですね。
はい。海外の有名なパンク、ニュー・ウェイヴ系バンドも、ツアーでサンフランシスコに訪れはじめたので、彼らの空き時間に私たちは撮影させてもらうようになりました。当時は誰も映像をつくっていなかったし、MTVもなかったから、パンクロックが聴けるメディアは私たちの映像とクラブ、そしてインディー・ラジオ局だけ。私のルームメイトもDJでした。アンダークラウンドなラジオDJ、ゲイ・クラブのDJ、パンクロック・クラブの関係者、ファンジン、そして私たちがサンフランシスコのカルチャーを築いたんですよ。全部で200人もいませんでしたけどね。
日本でもTARGET VIDEOは有名ですが、大きく飛躍したきっかけは何だったのでしょう?
フランスの大手小売りチェーン〈fnac〉からアプローチがあったんです。パリのレ・アールにあるメインストアで、私たちの映像が上映され、長蛇の列ができました。パリっ子は、カリフォルニアのバンドが動く姿など観たことがありませんでしたからね。おそらくそれがきっかけとなり、私たちは映像ツアーを積極的に始めるようになったんです。それが〈TARGET VIDEOツアー〉ですね。そういえばツアーに出て不思議だったのは、なぜだがゲイ・クラブだけがビデオデッキを常備していましたね。一体どんなビデオを流していたのかは知りませんが(笑)。
〈TARGET VIDEOツアー〉は、どんな雰囲気でしたか?
ベルギーでの経験ですが、オーディエンスは6~7時間も座って映像を観てくれました。そして上映が終わると「もう1回観せて」と頼まれるんです。何度も何度もね。MTVの登場に相通じるパワーを感じました。
〈fnac〉で上映するまでは、自分たちの映像を正式に上映していなかったんですか?
米国では、クラブなどで数回上映していました。LAの〈Whisky a Go Go〉で上映したときには、主要ネットワークの関係者が集まりました。彼らはデヴィッド・ボウイ(David Bowie)や、ROLLING STONESがビデオを制作しているのを知っていましたが、自らミュージック・ビデオをつくった経験も、放送した経験もありませんでした。当時、そんな映像を流していたのはディスコだけです。だから、「このビデオをどうするつもりだ?」「どうやって制作したんだ?」なんて質問されました。私たちは関心がある人たちに観せていただけでしたから、ネットワークTVからコンタクトがあるなんて信じられませんでしたね。
その後、映像をビデオとしてリリースしましたね。そのきっかけも教えてください。
ジョーのアイデアです。当初は3つのライブ映像をひとまとめにして、コンピレーション形式にしていました。『Underground Forces』シリーズとかですね。更にバンドのビデオクリップや、本人たちが登場するTARGET VIDEOを鑑賞してもらって、その反応なども収録していました。またジョーは、関係のない軍隊のモンタージュなども加えて、作品をアレンジしていました。
今回お話を聞くまで、TARGET VIDEOは〈ビデオレーベル〉という印象が強かったのですが、そうではなかったんですね。
ビデオレーベルのように認識されがちですが、活動自体はバンドやアーティストに近いんです。レーベルというより、ジョーが率いたアーティスト集団です。私たちはTARGET VIDEOを〈クラブハウス〉と表現しています。友人、音楽好きが集まって楽しむ場所です。みんなで楽しみながらシーンをつくろうとしていました。ビールを飲んで、映像を制作して、パーティをして…。日本のPLASTICSもパーティに来ていました。TARGET VIDEOは、新しい形態のメディアで、クリエイティブなチャンスをみんなに提供していたんです。
現在も〈TARGET VIDEOツアー〉はやっているのでしょうか?
答えはイエス&ノーです。LAのダウンタウンで上映してまわるだけですから。ウェブサイトもありません。以前はブログをやっていましたが、積極的に更新していません。プロフィールもあまり出回っていません。ですから、VICE PLUSでスタートするこのシリーズは、TARGETのストーリーを広めるいい機会になるでしょう。個人的には、〈fnac〉で上映したようなツアーをやりたいです。現在も私たちは、ミュージアムや劇場での上映を重視していますからね。
たくさん撮影したなかで、最も印象に残っているバンドを教えてください。
その質問には答えられません(笑)。
たくさんあり過ぎるからですか?
いいえ。ほとんどが友人だからです(笑)。どのバンドも好きですから。なかには気難しい人もいますが(笑)。例えばイギー・ポップ(Iggy Pop)。普段の彼は素晴らしい人物ですが、撮影のときは機嫌が悪いんですよ(笑)。私はDEVOと仲が良かったので、彼らの撮影をよく担当していました。他にはBLACK FLAG。いつもTARGETに入り浸っていたので、メンバーの性格もよく知っています。最高の連中ですよ。DEAD KENNEDYSも毎日のように顔を合わせていました。私たちは、小さな世界で暮らす隣人のようでしたね。もちろん私の知らないバンドもいました。例えば、ロンドンで撮ったBAUHAUSとか。彼らのライブはとても印象に残っています。素晴らしいショーでした。
今もTARGETの映像を見返したりしていますか?
私自身は何百回と観ていますから、「ただのBLACK FLAGでしょ」という感じです。飽き飽きしています(笑)。もちろん、ヘンリー・ロリンズ(Henry Rollins)とはずっと仲良しだからジョークがいえるんです。ジェロ・ビアフラ(Jello Biafra)、FLIPPER、THE MUTANTSのメンバーもそう。イアン・マッケイ(Ian MacKaye)もナイスガイです。初めて会ったのはTEEN IDLESのときでしたから、可愛かったですよ(笑)。みんな今でも友人です。
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