フェルナンド・リールが初めてスパンデックスの衣装を身にまい、「鋼鉄の処女」を名乗る猛者たちを目撃したのは、彼がまだ16歳の頃だった。父親の同僚に連れられて乗り込んだ、マドリッドのフェス「Rockódromo」で浴びせられた爆音、照明、スモーク、ヘアスプレー臭のメタル・イニシエイションで回心し、崇高なるメタル・ライフを歩み始めた。
そのギグは、若きフェルナンドにとって、人生のなかでも最高に強烈な体験であった。それ以来30年間、彼はメイデン・スペクタクルを何百回となく目撃することになった。正確には230回、メキシコやオーストラリアをはじめ、世界各地で頭を振り続けている。
「それが俺の休暇の過ごし方。15日間もビーチで気絶してるなんて想像もつかない。そんなのは時間の無駄だ」と彼は断言する。
フェルナンドの処女信仰は、1986年、バンドが数々の大仰なテーマを掲げ、シンセサイザド・ギターをちょろっとしか使ってないのに問題作扱いされてしまった『Somewhere in Time』に端を発している。世界中に散らばった何百万人のメタル・キッズ同様、フェルナンドはウネり駆けるベースラインや、バンドのキャラクター「エディ」が彷徨う世界に夢中になった。音源で膨れ上がった彼の想像力は、初めてのライブで破裂し、それ以来、IRON MAIDENの虜だ。
「ノックアウトされてから、スペインでのコンサートは全部観ている」。スペインでのライブを一度も見逃さないための、アホらしくも情熱的で素晴らしい愚行の数々を、彼は教えてくれた。例えば、スペイン国民に兵役が課せられていた時代、コンサートに遅れないよう、兵舎の窓から軍服で抜け出しもした。今でも、坊主アタマでヘッド・バンギングしてしまった過去を、若気の至りとはいえ、少々恥じているようだ。
母国でのギグを数回体験すると、フェルナンド・メイデン(スペインのメタルシーンでの通称)は数少ないギグでは物足りなくなってしまった。1988年、彼はパスポートを握りしめてロンドンに向かった。
「彼らの地元でギグを観るのは、新しいイニシエイションだった」
国が変わればライブの印象も変わる。ロンドンでの経験で、新たな扉を開いてしまったフェルディナンド・メイデンは、アイアン・メイデンを追いかけて世界を旅するようになる。彼は、世界各国でヘッド・バングするだけでなく、メイデン・ファンが羨む偉業も成し遂げた。「『Revelations(Flight 666)』を観たか。10秒間も俺が映ってるんだ」と自慢気だが、彼を見つけるのはなかなか難しい。
ヘッドバンギング・ツアーで皆勤賞を獲得するには、それ相応の資本も必要だ。そのためか否かは定かでないが、フェルナンドのライフ・スタイルはミニマルだ。「子供はいない。車もない。家のローンもない。だから好きに使える金はある。体調の問題もあって酒も飲まない。だから普段からあまり外出もあまりしない。普段はチケットの入手に専念している。ほとんどの場合、安く済ませるために空港で寝るようにしてる。インドとドバイを回ったんだけど、たった4日間だった」
フェルナンドの断捨離だけでなく、彼の上司も、彼がメイデン愛を全うできるよう、重要な役割を果たしている。休暇も融通がきき、フェルナンドが空港から直接出社しようとあまり気にしない。とはいえ、好き勝手に頭を振り回すのも年々難しくなっている。「以前はもっと簡単に休暇がとれたんだけど、今はツアーに出るなら早めに知らせろ、と上司がプレッシャーをかけてくる」
そんなフェルナンドに対する仲間の視線は冷ややかだ。キ◯ガイ扱いもされる。「みんな大人になった。結婚して子供もいる。俺はただ別の道を選んだだけだ」
「ガールフレンドだけが唯一の理解者だ」。よく一緒に旅行して、ライブ以外の時間に観光するそうだ。
フェルナンドによると、メイデン・フリークのなかには、彼より献身的なヘッド・バンガーもいるそうだ。「300回以上コンサートに行ってるスイス人もいる」と敗北を素直に認めている。
フェルナンドとスティーブ・ハリス、再び
これまでフェルナンドは、自らのヒーローに幾度となく接触している。ダブリンでは、バンドのギタリスト、ヤニック・ガーズと酒を酌み交わした。しかし、基本的には御本尊とは距離を置くようにしている。
「距離があるほうがいいんだ。がっかりしたくない。わかるだろ?」
フェルナンドは、シンガーのブルース・ディッキンソンの癌克服、カムバックに狂喜乱舞した。一時は存続が危ぶまれたIRON MAIDENだが、2015年にはニューアルバムも発表し、再びコンサートを再開したのだ。
「コンサートが退屈になったら、行くのをやめるだろう」
今のところ、その可能性は低そうだ。