ニュー・ウェイヴのススメ ③ ノー・ウェイヴ

SONIC YOUTH、SWANS、PUSSY GALOREなどなど、80年代のニューヨークからは、とんでもない毒毒モンスターがオギャーしましたが、そのパパとママをご紹介しましょう。ニュー・ウェイヴのススメ第3回は「ノー・ウェイヴ」。変態夫婦たちの夜の営みはパンパなかった!

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dec 23 2017, 3:05am

80年代後半。米国の地下で生まれた怪獣、珍獣、猛獣バンドたちが日本に来襲した。まぁ、びっくりしましたよ。こんな毒毒モンスターが、実はウジャウジャ這っていたなんて知らなかったんだから。それまでの洋楽シーンといえば、〈=英国音楽〉だったわけで、THE SMITHSが解散すれば、「ギャ〜ッッ!!」と嘆き、THE JESUS AND MARY CHAINが登場すれば、「ガガ〜ッッ!!」とノイズに溺れ、PRIMAL SCREAMがガレージロッキン化すれば、「ムム〜ッッ!!」と戸惑い、ロバ夫(THE CURE)が短髪にすれば、写真持参で床屋に駆け込み、「こんな感じにしてください」「あいよ! スポーツ刈りね!!」とされたように、ジャパニーズ洋楽ファンたちは、英国シーンに踊らされていたわけです。そう、米国なんてアウトオブ眼中。だって、当時輸出されていた米国インディー・ミュージックは、R.E.M.とか、THE DREAM SYNDICATEとか、10,000 MANIACSとか、OINGO BOINGOとか、TIMUBUCK 3とかとか。「おい、R.E.M.のヤツ、眉毛繋がってるぞ!」「ダッセー!!!!!」なんて、米国シーンは、コケにされていたわけです。

しかし、それは単に知らなかっただけ。インターネットもない時代だったから、あんなに馬鹿デカイ国のローカル音楽事情なんて、日本に入ってきません。1989年に公開された映画『悪魔の毒々モンスター 東京へ行く』(The Toxic Avenger Part II)では、関根勤が襲われましたが、奇しくも同時期、日本の英国黒服チームも、遂にモンスターの大群に囲まれてしまいます。SONIC YOUTH、SWANS、PUSSY GALORE、DINOSAUR JR、BUTTHOLE SURFERS、BIG BLACK、MUDHONEY、GODFLESH、MISSING FOUNDATIONエトセトラ、エトセトラ。ただ、これらのモンスターたちも〈英国経由→日本行き〉だったのがミソでして、英国のメディアで取り上げられるようになったから、日本にも入ってきたわけです。それほど当時の音楽シーンは、英国主導で回っていたんですね。そんな大群がいきなり大挙したもんだから、日本のメディアもしっちゃかめっちゃかに。そんな当時の状況がわかるエピソードとして、笑っていただきたいのが、バンド名のカタカナ表記。こんな感じで紹介されていました。

現在:プッシー・ガロア → 当時:プッシー・ギャローア
現在:マッドハニー → 当時:マッドハネー
現在:ダイナソーJR → 当時:ディノサウル・ジュニアー
現在:バットホール・サーファーズ → 当時:バトル・サーファーズ
現在:ミニットメン → ミニッツメン
現在:ニルヴァーナ → 当時:ニルバナ
現在:フガジ → 当時:フガジィー

フガジィーって可愛いですね。バットホールなんて、まったく違う単語になってるし。まぁ、しようがないっちゃ、しようがないんですけど、それほど、彼らの情報は、これまで日本に入っていなかったわけです。で、この辺のアーティストたちを漁っていくと、必ず辿り着くのが1枚のアルバム。「この作品がなかったら、SONIC YOUTHもSWANSもいなかった!」「これが彼らのルーツ!!」ってね。ハイ、長々とすいません。今回は、歴史的コンピレーション・アルバム『NO NEW YORK』を中心とするノー・ウェイヴ(NO WAVE)編です。

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BOØWYの「NO.NEW YORK」(こっちはドット〈.〉が付きます)を先に知っちゃっていたとしても、ヒムロックがひれ伏すぐらいキョーレツなアルバム『NO NEW YORK』がリリースされたのは、1978年の11月。タイトル通り、ニューヨークで活動していたバンド4組が収録されたオムニバスです。1978年といえば、既にオリジナルパンク・シーンは終焉を迎え、世はニュー・ウェイヴ真っ盛り。しかし、パンクで学んだ〈D.I.Y.〜インディペンデント〉精神は、しっかりと実を結び、若者たちはこぞって新しい音を奏でていました。もちろんニューヨークも然り。RAMONES、TELEVISION、パティ・スミス(Patti Smith)、リチャード・ヘル(Richard Hell)、BLONDIE、DEAD BOYS、TALKING HEADS、THE CRAMPS、ジョニー・サンダース(Johnny Thunders)などが、パンクシーンを牽引していましたが、これら先駆者たちも、当たり前になっていました。ただ、ロンドンのパンクシーンと圧倒的に違うのは、ニューヨークのパンクバンドは、消費されなかったところ。プロトタイプに拘ったロンドンのパンクは、いつのまにかファッションやメディアに振り回され、「じゃあ次!」と意気込んで、ニュー・ウェイヴに臨んだ感があったのですが、ニューヨークにはそれがない。まぁ、上記のバンドからわかるように、既に、この時点でパンクのプロトタイプに収まっていないんですよね。パティ・スミスは詩人だし、TELEVISIONにしても文学的。THE CRAMPSなんて変態夫婦だったんですから(笑)。あとやっぱ、馬鹿デカイ国ってのもデカかった。いくら大都市ニューヨークといっても、米国内ではひとつの街にすぎない。ニューヨークの音楽シーンが日本に届かなかったのと同じように、テキサスにもユタにもミシシッピにもワイオミングにも届かなかった。〈ニューヨーク・パンクのその後〉は、ニューヨークという都市のなかだけで、スクスクと成長しはじめたのです。ええ、変態都市です。そして、〈ニューヨーク・パンクの子供たち〉は、CBGBやMAX’S KANSAS CITYなどで、先輩たちのショーに影響され、特にTHE CRAMPSの毒とユーモアと即興性に影響され、こう思うのでした。「ああ、なんでもやっちゃっていいんだ! なんでもやっちゃおう! 既成概念に〈NO〉を叩きつけよう!」と。そう、〈NO〉を叩きつけられた〈ニュー・ウェイヴ〉。それが、ノー・ウェイヴなのです。

まずは、このノー・ウェイヴ・シーンの主役を紹介しましょう。ウィスコンシン州ミルウォーキー出身のジェームス・チャンス(James Chance)です。彼は、このシーンで、唯一ちゃんと楽器演奏(サクソフォン)ができるミュージシャンでした。なんたってウィスコンシン音楽院にいたくらいなんですから。しかし、こちらを中退すると、ジャズ・ミュージシャンを目指し、1975年にニューヨークへ移ります。サクソフォン/クラリネット奏者のデヴィッド・マレイ(David Murray)の元で学びながら、やはりパンクの洗礼を受け、自身のバンドを結成。JB(ジェームス・ブラウン:James Joseph Brown)への恋心をフリージャズで綴りながら、パンクモードで大胆に告白ました。ハイ、『NO NEW YORK』収録バンドその①、CONTORTIONSのできあがり。1977年のことです。

そのジェームス・チャンスですが、CONTORTIONSの前に、これまた超重要バンドを結成していました。それが『NO NEW YORK』収録バンドその②、TEENAGE JEJUS AND THE JERKS。プラプラしていた10代のパンク少女リディア・ランチ(Lydia Lunch)と彼が出会い、1976年にスタート。その後ジェームス・チャンスは脱退しますが、ジョリジョリ金属ノイズに勝るリディアの絶叫は、ニューヨークにがっちり響き渡りました。ちなみに〈ランチ〉という名前は、彼女がDEAD BOYSのランチ盗み食いしていたからだそうです。さらに諸説ありますが、〈ノー・ウェイヴ〉という言葉も、彼女が命名したといわれています。

そのリディア・ランチに影響を与えたのが、『NO NEW YORK』収録バンドその③、MARS。4組のなかでは、1975年結成の最古参バンドでありながら、1978年には解散。完全に楽器初心者で固められたといわれるそのサウンドは、止まらない痙攣発作ギターのなかを、安定しないビートと呪術的ヴォーカルが、ゴールを探り合っているような実験室パンク。解散から8年経った1986年に、ジム・フィータス(Jim Foetus)のリマスターによって、アルバム『78』がリリースされました。

そして、アート・リンゼイ先生(Arto Lindsay)率いるD.N.A.が、『NO NEW YORK』収録バンドその④でございます。1978年結成。『NO NEW YORK』の裏には、各バンドのメンバー写真がずらりと並んでいるのですが、ひとりだけ明らかにアジア系の女性が写っております。その人こそがイクエ・モリ。日本人女性。D.N.A.のドラマーです。しかし彼女は、完全ドラム未経験者だったというのだから驚き。それほど当時のシーンは、誰もが楽器を手にし、誰もがバンドを組むような状況だったのですね。(ちなみにこのシーンには、彼女以外に、もうふたりの日本人が大きく関与していました。レックとチコヒゲ。レックは、TEENAGE JEJUS AND THE JERKS、CONTORTIONS、チコヒゲもCONTORTIONSのメンバーでした。ふたりは『NO NEW YORK』のレコーディング前に帰国してしまいますが、のちに東京でフリクションを結成します)D.N.A.の曲は短く、1〜2分とコンパクト。これまた胃痛系ノイズギターと脱線ドラムと金切りヴォーカルのゴールデンお重三段弁当。アート先生、約20年後に中谷美紀の曲を書くとは思わなんだー。

さあ、ときは来ました。CONTORTIONS、TEENAGE JEJUS AND THE JERKS、MARS、D.N.A.の4バンドは、連んでライブを敢行していきます。アートギャラリー〈ARTIST SPACE〉では、この4バンドに加えて、グレン・ブランカ(Glenn Branca)率いるTHEORETICAL GIRLSや、パンクに刺激を受けた前衛音楽家リース・チャタム(Rhys Chatham)も出演するイベントが開催され、シーンは確立されていったのです。そう、当時のニューヨークは、ギャラリー・ブーム真っ只中! というのも、1975年に財政破綻寸前に陥ったニューヨークは、治安のわるさも手伝って、高納税者がこぞって街から離れていきました。それと入れ替わるようにやってきたのが、不法移民、そして若いアーティストたち。特に、低所得者居住区だったイーストヴィレッジには、音楽、映像、絵、彫刻、コンテンポラリーダンスなどなど、様々なジャンルのアーティストが集まり、完全にひとつの〈村〉ができあがっていました。そんな彼らが表現する場所こそが、ギャラリー。これまで、ライブハウスがメインだったミュージシャンたちも、もっと自由なスペースで演奏できるようになったのです。

さて、その〈ARTIST SPACE〉のイベントに、ひとりのVIPが来場していました。はい、ブライアン・イーノ(Brian Eno)大先生でございます。既にミュージシャン、作曲家、プロデューサーとして名を馳せていた彼ですが、彼らが放つ紛れもないフルチンサウンドに大驚愕。そこで、あるアイデアを閃めいたのです。「うむー、彼らのコンピレーション・アルバムをつくろう。俺がみつけたチンコを世に広めよう」。遂に『NO NEW YORK』プロジェクトがスタートしました。

1978年春、〈BIG APPLE STUDIO〉にて、レコーディングはスタート。プロデュースは、もちろんブライアン・イーノ。4バンドは、4曲ずつを収録しましたが、ブライアン・イーノは、ほとんど口出しせず、バンドは「せーの!」で録音に臨みました。あっさり完成した『NO NEW YORK』は、ブライアン・イーノ・パワーもあり、当初は大手〈ISLAND RECORDS〉からリリースされるハズでしたが、「いやいや、これはアカン。こんな実験的なの出せん」という、レコード会社側の冷静かつ適切な判断により、結局はISLAND傘下の〈ANTILLES〉からリリース。それでも最狂の変態コンピレーションは、1978年11月、遂に世に放たれたのです。

歌メロなし、荒れ狂うノイズ、つんのめるビート、無回転グルーヴ、そして、絶叫に満ち溢れた変態レコードに、世論の意見はまっぷたつ。「新しい声明」「震えるノイズミュージック」「シーンの重要な分岐点」など、好意的なものもあれば、「我慢ならない」「まったく魅力が感じられない」「オリジリティがない」「ヘタ」と、クソミソに叩かれるパターンも。セールス自体もイマイチで、予想したほど話題にならなかった『NO NEW YORK』は、今では考えられないほど、中途半端な立ち位置だったようです。それでも地元ニューヨークでは、CONTORTIONSを中心にムーヴメントは活性化。彼らは、もっと大きな会場で、雑音をぶちかましはじめたのです。

しかし、スタートがアレでしたから、終わりにするのも簡単。元々、ビッグミュージシャンになろうなんて、これぽっちも考えていなかった彼らは、あっさりとバンド解体作業に入ります。

MARS 1978年解散。
TEENAGE JEJUS AND THE JERKS 1979年解散。
THE CONTORTIONS 1980年解散。
D.N.A. 1982年解散。

更に〈ANTILLES〉は倒産し、『NO NEW YORK』のレコードも廃盤状態に。ノー・ウェイヴ・シーンは、あっという間にピークを迎え、あっという間に完結したのでした。ただ、その終わりは、ムーヴメントが飽きられたとか、消費されたといった類のものではなく、当事者自らが選んだ道だったわけで、そのへんが、英国を中心とする他のニュー・ウェイヴ・コミュニティとまったく異なります。それは、その後の彼らの活動を見れば明らかです。このあとの動きが、マジでヤバかった。

ジェームス・チャンスは、JAMES WHITE AND THE BLACKSを結成し、聞いたこともないフリーキー・ディスコ・サウンドを展開。現在も大御所として大活躍中。同じくCONTORTIONSだったジョディ・ハリス(Jody Harris)は、エレキ・インストのRAYBEATSを、パット・プレイス(Pat Place)は、BUSH TETRASで、なんと、ヒット曲を連発します。リディア・ランチは、8 EYED SPYを経てソロになり、女優としての活動もスタート。ニューヨークの裏女王として揺るぎない地位を獲得します。同じくTEENAGE JEJUS AND THE JERKSのジム・スクラビュノス(Jim Sclavunos)は、8 EYED SPYにジョインしたあと、SONIC YOUTHの作品や、憧れのTHE CRAMPSにも参加。そしてニック・ケイヴ(Nick Cave)率いるTHE BAD SEEDSのメンバーであると同時に、プロデューサーとしても成功します。アート・リンゼイは、ジョン・ルーリー(John Lurie)のLOUNGE LIZARDS、アントン・フィアー(Anton Fier)のTHE GOLDEN PALOMINOSなどを経て、AMBITIOUS LOVERSを結成。その後の活躍は、中谷美紀でおわかりですよね。同じくD.N.A.のイクエ・モリは、素人だったのにソロ活動を始め、とんでもない数の作品に参加。現在もラップトップ・アーティストとして、ジョン・ゾーン(John Zorn)らとともに大活躍。同じくド素人のキーボーディストだったロビン・クラッチフィールド(Robin Crutchfield)は、MARS の ナンシー・アーレン(Nancy Arlen)、TUXEDOMOON の スティーヴン・ブラウン(Steven Brown)、そして、あの映画監督ジム・ジャームッシュ(Jim Jarmusch)らを率いて、自らのバンドDARK DAY を結成。今もソロで大現役。そしてMARSのルドルフ・グレイ(Rudolph Grey)は、RED TRANSISTOR、BLUE HUMANSでの活動、更には小説も出しちゃってるんだから、もう、なんてみなさんパワフルなのかしら!

更に『NO NEW YORK』参加バンドが蒔いた種は、ノイズだけではなく、確実に新しい芽を生み出しました。ここからがまた多いので、すいません、しっかり摑まっていてください。

スペース・ミュータント・ディスコのVON LMO、ジョン・ケイル(John Cale)がプロデュースしたMODEL CITIZENS、そこから派生したTHE DANCE、BOREBETOMAGUSのドナルド・ミラー(Donald Miller)と超有名音楽ライターのレスター・バングス(Lester Bangs)によるSICK DICK AND THE VOLKSWAGENS、写真家バーバラ・エス(Barbara Ess)のY PANTS、アーサー・ラッセル(Arthur Russell)のDINOSAUR L、アーサー&ニューヨーク・ナイトライフの伝説的DJニッキー・シアーノ(Nicky Siano)によるFELIX、さっきも出て来たジム・ジャームッシュのTHE DEL- BYZANTEENS、画家ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat)+初期ヒップホップの大御所マイケル・ホルマン(Michael Holman)+DEATH COMET CREWのニコラス・テイラー(Nick Taylor)+たまにヴィンセント・ギャロ(Vincent Gallo)のGRAY、フランスからやって来たex ROSA YEMENのリジー・メルシエ・デクルー(Lizzy Mercier Descloux)、超御大ビル・ラズウェル(Bill Laswell)率いるMATERIAL、そして昔から今もずっとやってるDEFUNKTとかとか…。そして、彼等をサポートする、数々のレーベルも忘れてはなりません。ESG、LIQUID LIQUIDを輩出した〈99 Records〉、ジョン・ケイルの〈SPY Records〉、そして、リジー・メルシエ・デクルーのパートナーであるマイケル・エステバン(Michel Esteban)による〈ZE Records〉などなど。パンクの踏み台にして、エレクトロ、ディスコ、ガラージュ、ファンク、ジャズ、ヒップホップまで手にした軍団は、ノー・ウェイヴの輪をぐんぐんと広げ、確実にニューヨークのイケてる音楽シーンを築いたのでした。

ごめんなさい、もうちょっとおつきあいを。そんなチーム〈イケてる〉のなかで、80年代後半から日本にも上陸した毒々モンスターバンドへ大きな影響を与えた1アーティスト&2バンドを紹介させてください。

まずは、先にも述べたTHEORETICAL GIRLSのグレン・ブランカ。実は、このTHEORETICAL GIRLSも、当初は『NO NEW YORK』に収録される予定でした。ただ残念ながら、レコーディング直前に首チョンパ。しかしめげなかったグレン・ブランカは、ポストモダン・コンポーザーの草分け的存在となり、今や現代音楽家として、大空のてっぺんに君臨しております。その門下生には、SONIC YOUTHのサーストン・ムーア(Thurston Moore)、リー・ラナルド(Lee Ranaldo)、SWANSのマイケル・ギラ(Michael Gira)、HELMETのペイジ・ハミルトン(Page Hamilton)など、毒毒バンドのキーマンがずらり。更に彼は、レーベル〈NEUTRAL RECORDS〉を立ち上げ、記念すべきSONIC YOUTHのファーストアルバム『Sonic Youth』を1982年にリリースしました。ちなみに両巨頭のもうひとつになるSWANSも同年にシングル・デビュー。彼らの登場は、ノー・ウェイヴ第2世代の幕開けでもあったのです。

そして、『NO NEW YORK』参加チーム同様に、絶対チェックしなくちゃいけないのがSUICIDE。アラン・ヴェガ(Alan Vega)とマーティン・レヴ(Martin Rev)によるヴォーカル&シンセサイザー・デュオで、1977年リリースのファーストアルバム『Suicide』は、〈オールタイム歴史的名盤〉などの特集が組まれると、必ず顔を出すピコピコ重要作であります。ノイズ〜インダストリアル系の流れにも大きな影響を与えましたが、それと同時に、妖艶でグラマラスなポップセンスも抜群。パンク・ムーヴメント以前から活動し、リアルにパンクを体験し、そしてパンクその後もたっぷり吸い込みながら、完全に己の音楽道だけを突き進んだ唯一無比の存在なのでした。

最後に、もうひとつ挙げたいのがUT。1978年に結成されたノー・ウェイヴ・ギャルバンです。それほど評価されていないバンドですが、特筆すべき点は、1981年に彼女達が活動場所をロンドンに変えたこと。確実にニューヨークのリアルな空気を英国に持ち込んだのは彼女達です。そして1985年には〈BLAST FIRST〉というレーベルがロンドンでスタート。老舗インディ・レーベル〈MUTE RECORDS〉の傘下にできたこのレーベルは、当時の米国アンダーグラウンド・バンドのライセンス・リリースを目的にしたレーベルでした。ここからSONIC YOUTH、BUTTHOLE SURFERS、BIG BLACK、DINOSAUR JRなどが英国デビューし、その流れで日本にもこれらの作品が出回るようになったのですが、英国バンドとなったUTもBLAST FIRSTに所属していたんですね。リアルなノー・ウェイヴ・バンドだったUTが英国に渡り、その流れでノー・ウェイヴ第2世代、そして米国モンスターが世界に広がった。偶然だったかもしれませんけど、その後のオルタネイティヴ・ロック・シーンを考えれば、UTの功績はもっと褒めてあげていいと思います。

さて、このノー・ウェイヴ。アルバム『ノー・ニューヨーク』を中心に考えれば、本当にあっという間に終わってしまったシーンではありますが、あっという間に先に進んでしまったシーンでもあります。当時の評価を考えれば、『ノー・ニューヨーク』という作品は、めちゃくちゃ早過ぎたともいえるでしょう。実際、廃盤になってからの評価は、ぐんぐんと上がり、お宝盤として高値で取引されたり、『ニューヨーク・タイムズ』が選ぶ名作廃盤トップ10に、『ザ・ビートルズ・スーパー・ライヴ!(The Beatles at the Hollywood Bowl)』と並んで選出されたりもしました。更に2000年代に入ると、THE RAPTURE、!!!、LCD SOUNDSYSTEM、LIGHTNING BOLT、BLACK DICE、YEAR YEAR YEARS、LIARSなどにより、改めてノー・ウェイヴ・シーンの再評価が高まりました。要するに、『ノー・ニューヨーク』が産んだ無数の卵から、とんでもない怪獣、珍獣、猛獣、毒獣が見事に孵化したのです。そして、それは永遠に続く孵化なのです。ずっと、卵は割れ続けるのです。そんなノー・ウェイヴ・シーンを検証したドキュメンタリー映画『キル・ユア・アイドル』(Kill Your Idols, 2006)のなかで、リディア・ランチは、こう発言しています。

「過去は参考にしなかった」

この姿勢こそが、ノー・ウェイヴ。シーンの波なんか関係ない。そんなものには〈NO〉を突きつける。こんな素晴らしい教えがあったからこそ、やっぱり今も米国の音楽に惹きつけられてしまうのです。

ニュー・ウェイヴのススメ〈序章〉
ニュー・ウェイヴのススメ①〈ニュー・ロマンティック〉
ニュー・ウェイヴのススメ②〈ゴシック/ポジティヴパンク〉

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