台湾を深く知るための裏散歩 ③ 歌舞伎町散歩・台湾マフィアがいた時代

台湾マフィアの実態に迫る『台湾黑社會』シリーズの生々しすぎる映像を観て、海の向こうの自分には無関係な出来事、と思う視聴者も多いだろう。だが、日本の裏社会を取材し続けると、決して無関係ではない、と実感する。

『台湾黑社會』でも、日本と台湾のヤクザの交流について触れている。通訳の台湾人女性が、撮影に先立ち渡した手土産が、日本のヤクザグッズだった。はっきりと撮影されていたのは名刺とバッジぐらいだが、それでも日本で簡単に手に入るモノではない。特に、個人を特定できる名刺は、ヤクザが差し出すだけで、威圧的な行為として警察に目をつけられもする。

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注目するべきは、こうした日本のヤクザグッズが、台湾マフィアにとってお土産としての価値があることだ。そういった何気ないシーンからも、日台黒社会の交流が看て取れる。

一方、日本ではどうかといえば、それぞれのヤクザ組織や個人の交流はあるだろうが、表立って語られはしない。特に、日本の一般市民が台湾の黒社会を肌で感じられる場所は限定される。なかでももっとも身近に感じられる場所といえば歌舞伎町である。

実は太平洋戦争後に現在の歌舞伎町がつくられた経緯には、台湾人コミュニティが関係しているのだが、このあたりの事情は、次回、詳しく紹介したい。

今回は、歌舞伎町で台湾マフィアがもっとも暴れていた時代について紹介する。

「歌舞伎のこのあたりに台湾のマフィアがいたの知ってる?」

歌舞伎町のキャバクラでこの手の質問をしても、今の20代はもちろん30代の娘も応えられないだろう。なにせ、台湾マフィアが日本で活発に活動を始めたのは1980年代に入ってからだ。

現在の歌舞伎町に通じている人に聞いても、当時を知る人はほとんどいない。

だが台湾マフィア史を紐解けば、なぜ彼らが日本を目指したのか、その理由ははっきりしている。そこには台湾で起きた〈一清専案〉の影響が大きい。

一清専案は、台湾人作家の劉宣良がサンフランシスコで竹聯幇の陳啓礼、呉敦、董桂森に殺害されのをきっかけに展開された暴力団追放キャンペーンである。この事件は、被害者のペンネームから〈江南事件〉と呼ばれている。

取り締まりの対象は、事件の首謀組織〈竹連幇」以外にも〈四海幇〉〈天道盟〉など、『台湾黑社會』にも登場する台湾三大マフィア全体に及んだため、特に、凶悪犯罪に手を染めていた連中がこぞって日本に密入国した。そして彼らが頼ったのが、台湾人コミュニティ(華僑)が確立されていた歌舞伎町だったのだ。

しかし、もともとが凶悪で台湾に居られなくなった連中であったのに加えて、異なる組織であったため、協調していけるわけもなく、対立するようになり抗争に発展した。

1987年以来、歌舞伎町やその周辺で銃撃事件が相次ぎ、死者も増えていった。しかも、逮捕者のなかには、台湾で10人以上を殺して国際指名手配を受けている組織構成員までいたのだ。いよいよ警察も本腰を入れて取り締まる必要に迫られたタイミングで、台湾マフィア側にとって最悪の事件が起きた。

1992年9月、歌舞伎町の路上で職務質問してきた警官を台湾マフィアのメンバーがいきなり射殺したのだ。犯人は台湾で〈小四殺手〉と称された〈芳明館〉の幹部・王邦駒で、その名前から「王邦駒事件」と呼ばれている。事件現場は、様々なフードイベントが開催される大久保公園のあたりである。現在は平和そのものといった風情だ。

台湾マフィア同士で抗争を繰り広げているうちはまだしも、日本人、それも警察官が殺害されたので、警察は取り締まりを徹底した。

その結果、台湾マフィアは、華僑からの支援を失い孤立を余儀なくされ、やがて衰退していった。

こうした事件の現場の面影を今に伝えているのが、風林会館前の「思い出の抜け道」のあるエリアだ。そこには、歌舞伎町でも残り少ない木造モルタルの建物が密集している。薄暗い街並みに、台湾マフィアの動きも活発だった80年代の雰囲気が残っているので、一見の価値ありだ。

ただし、ここは台湾マフィアというよりも、1994年に起きた快活林事件、別名〈青龍刀事件〉の現場として有名かもしれない。北京マフィアと対立する上海マフィアが北京料理店「快活林」を襲撃した事件で、使用された凶器が青龍刀だ、といわれたためにそう名付けられた。(現在では刺身包丁説が有力である)。一般客が巻き込まれたので、世間に広く知られている事件だが、台湾マフィアと直接の関係はない。

戦後最大の外国人勢力だった台湾マフィアが歌舞伎町から姿を消し、空白が生まれた歌舞伎町の外国人利権は、さまざまな国が握っていくことになる。

90年代初頭にイラン人マフィアが登場するが、日本の不景気が長引き撤退した。2000年代には上海や北京といった大陸系のグループが来日。窃盗などを中心に稼ぐ小グループが国内に生まれ、中国のほかの地方のグループも来日した。中国人犯罪集団が社会問題化するなか、近年ではアフリカ系グループも生まれている。

マフィアの男と女はセットで海を渡る。台湾マフィアに限った話ではなく、どこの国の組織でももそういわれている。実際、売春や水商売は、ドラッグや拳銃などの売買よりも簡単に稼げる。そのため、80年代には台湾から来た多くの売春婦が新大久保や歌舞伎町にいたという。また、中国パブも数多く開店した。

筆者が東京の裏社会を取材しはじめたのも2000年代に入ってからである。当然のことながら、台湾マフィアが跋扈していた当時を知るすべは限られていた。それでも、痕跡を求めて歩けば時折ぶつかることもある。

たとえば、〈ハイジア〉は、正式名称は東京都健康プラザハイジアで大久保病院を含む複合施設。かつてはその周囲から大久保公園のあたりは街娼のメッカだった。

このあたりも一時期は外国人売春婦が多い時期があった。

幾度となく取り締まりが実施され、施設側が柵を設置するなどすると、営業が困難になり、いまではこのあたりに立つ人はだいぶ減ってきた。それでも昔から変わらない場所もある。

「お兄さん、今夜暇?」

コリアンタウンやハラル横丁のある街として知られる新大久保。職安通りを挟んで歌舞伎町に隣接するエリアだけあって、街の勢力図の影響をもろに受ける土地柄である。そんな新大久保のラブホテル街の外れに街娼たちがいたのだが、筆者が裏社会取材を始めた当初、ときおり台湾人女性がいた。

「台湾から来たの?」

質問をすると嫌そうに「そうよ」と答えたが、立ち去る気配もないのでそのまま話を続けると、結果、気さくに立ち話に応じてくれた。彼女たちのなかには、辛うじて台湾マフィアの活躍していた時代を知っている人が混ざっている。

「昔は稼げたよ。でも男たちはみんないなくなった。私の旦那も今は日本人よ」

当時たまたま聞いただけだが、今となっては懐かしい思い出でもある。

いまでは台湾人の街娼を目にすることもなくなった。現在立ち並んでいる売春婦たちもその元締めの外国人マフィアも、台湾人が跋扈していた時代など知る由もないのであろう。

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【台灣黑社會】
AbemaTV Documentaryチャンネルにて。毎週 金曜23時スタート。
エピソード1〜3は6月23日放送。
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