Tsukiji fish market

築地に後ろ髪を引かれる者たちへ!! 築地市場の年代記

2018年10月11日、豊洲市場が開場した。築地市場が役目を終えてから、わずか4日という短期間での移転となった。しかし、83年間も続いてきた築地に対して、語り尽くせない想いを抱える人々も大勢いるだろう。そこで、築地の歴史が詰まった書籍『築地市場クロニクル完全版1603~2018』の著者、福地享子に話を聞いた。築地が歩んできた道のりとともに、築地最終営業日のフォトレポートをお届けする。

by Yuichi Abiko; photos by Manabu Numata
21 October 2018, 10:19am

築地市場の場内に一軒の書店があった。魚をテーマにした書籍やムック本など、まさに、築地ならではの品揃え。そこで働く店主に「築地のことが最もわかる本はありますか?」と尋ねると『築地市場クロニクル完全版1603~2018』を紹介してくれた。
取材をともにした写真家の沼田学も声を合わせるように「そうですよね。この本に全部載ってますから。福地さん面白いですよ」と教えてくれた。早速その場で書籍を購入し、読破した。そして、この本の著者である福地享子さんに、築地が歩んだ歴史について、そして今回の移転について、話を聞いた。福地さんが務める築地の資料室、銀鱗文庫の豊洲移転作業でで大忙しのなか、彼女は時間を割いてくれた。

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『築地市場クロニクル完全版1603~2018』では、銀鱗文庫におさめられた膨大な資料をもとに、1603年江戸に魚河岸市場ができてから、現代までの歴史を紐解いています。江戸幕府が開かれた1603年に、大阪の名主、森孫右衛門が、江戸幕府に納め、余った魚を日本橋で販売したのが、豊洲、築地の前身である魚河岸の誕生だった、と書籍に記していますよね。そして、明治に入り文明開化のさなか、1923年に起きた関東大震災をきっかけに、日本橋から築地へと市場が移ったとあります。そのときと、今回の築地から豊洲への移転への経緯が似ている、と著書には書かれいます。具体的には、どういった経緯が似ているのでしょうか?

豊洲開場の直前での移転見直しから、いろんな問題がありました。まず、移転見直しについて、築地で働くわれわれにいっさいのアナウンスがないまま、いきなりテレビを通して、小池都知事の会見で知らされたんです。確かに4、5日前からあるかもしれないと噂は耳に入っていたけれど、とにかく2016年8月31日、会見の前には、なにも聞かされていなかった。
そのことが引っかかっていて、今度は、選挙直前に「豊洲は守る、築地は残す」なんて発表して、さらに、市場問題プロジェクトチームの小島敏郎座長が、築地の再整備のポンチ絵までつくって、みんなの前で説明したんです。あのとき、異様な雰囲気になっちゃって、ほとんどの人が、移転反対なんだけど、移転しなくてはならないんだ、と思ってるときに、いきなり再整備が可能だとボンと突きつけて、しかも、絵までつくって講堂でみせたんです。
女将さん会の人たちが移転したくない、といってたように、当時は、移転反対の人が、もっとたくさんいたんです。「もう移転しかない、と思っていたのに、今小嶋先生のお話を聞いて、まだ築地でやれるとわかって、本当に今日は嬉しいです」とあっちこっちで、みんな拍手やら、涙ぐむほど感動しちゃってるわけ。そういう調子だったんです。
だけど、結局選挙が終わると「えっ」ってなっちゃたでしょ? 築地で働く1万人の思惑とは関係なく、政治判断で、築地を取り壊して、豊洲に移転するって決めたわけだから。
大正時代に日本橋から築地に移転するさいも、渋沢栄一は、日本橋をロンドンみたく金融、経済の街にしたかったわけです。だから、渋沢は、日本橋に魚河岸があるのがシャクだった。「魚河岸は、権現様御遺訓を背に江戸時代の株仲間が、強固な組織をつくって、日本橋1番の場所を占めてのさばってる」と国会で話している記録が残っているくらい。移転、移転、移転って言いながら、今度は、丸の内が〈一丁論敦(イッチョウロンドン)〉と称され、金融街として賑やかになっていくと、日本橋は魚河岸がないと困るって言い出して…。
この日本橋から築地、築地から豊洲、2回の移転をみたらわかる通り、1万人のあずかり知らぬところで、政治の思惑で二転三転するところが、すごく似ていたな、と思います。

また、本を読んでいてビックリしたのですが、築地も海軍の跡地に建てられていますよね。豊洲の地下水の汚染問題とも似ていると思いました。

当初は、芝浦に魚河岸をつくる予定だったんだけど、大震災がきちゃって。海軍の施設は、前々から移転が決まっていたから、急遽築地で開場したんです。最初、臨時市場をやっていた場所は、海軍の火薬とか爆弾を扱う試験場で、相当恐ろしい薬品を使っていたはずです。

福地さんは、市場の歴史、建造物、そして働く人々と直接触れあってきて、総合的な視点をお持ちですよね。その視点から、築地は限界だったと思いますか?

70年、80年前の尺度でつくってるから、どうしても衛生面っていうのは…。特に、衛生面の基準が高い海外との貿易を対等にやっていこうとするとダメですね。温度管理など機能面を考えると、豊洲市場に移らなきゃいけない。だけど、住めば都じゃないけど、そういうのは、みんな感じていますよ。

福地さんは、今回の移転について賛成、反対、どのようなご意見をお持ちだったのでしょうか。

私は、市場問題プロジェクトチームの小嶋さんが話す内容に、すごく同意してたんです。豊洲は未来都市のような街づくりの構想があり、市場は、年々取引量が減っているため、これ以上の発展が望めないのは明白で、それが豊洲にあると都市開発という点でマイナス。築地にある現在の市場は、夜中トラックをガンガン飛ばしたり騒音や、停める場所などの交通の問題、周辺地域との関係も含めて、充分に成り立っているわけだから、築地に市場を残し上手に再整備すれば、東京都全体としてメリットがある、という話に、すごく納得がいったんです。だから、私は市場が豊洲に移転したのは、土壌汚染の問題とは関係なく、都市開発という視点から失敗だった、と今でも思っています。
それに、これから築地を再開発するっていっても、もう、小手先の再開発しかできないでしょう。東京には、多くの複合施設があるけれど、築地でできるのは、水辺を使った複合施設くらいで…。例えば、日比谷公園くらいの広さと豊かな緑があれば、それはそれで、文化的な複合施設ができるかもしれないけど、ここは、お金を産むための再開発をしなくちゃいけない。文化度の高い施設なんかつくれっこない。だから、市場が豊洲に移転して、30年後、50年後、どういう答えが出るか、わからないですけど、疑問がありますよね。

では、移転した後でも、再び築地に市場を戻すがべきだ、というお考えですか?

現実的には、移転してしまったら、もう戻れないでしょう。みんな、移転するのに、相当のエネルギーを費やしてしまったし、お金も使い果たしてしまっただろうから。10年後、20年後に、戻るのはありえないだろうし、50年後になると、市場の機構自体が変わっているかもしれない。今は卸売業者があって、仲卸業者があって、それを司る農水省があって認可がないと営業できない。国主導でやってるわけです。それが、50年後まで続くかどうか、甚だ疑問。もともと中央卸売市場をつくる構想は、近代化のひとつとして明治から始まるんです。で、あの頃に考えた郵便事業とか鉄道事業が民営化になってますよね。市場だけは、食べるものだからか、非常に保守的だし、ゆっくりと考えてやらなきゃいけない問題だから、ポンポンポンとは進まない。

だけど、中央卸売市場の制度自体に、だんだんと歪みもみえてきているわけだから、50年後、どうなるかわからない。車や私鉄が発展したから、国鉄だけが赤字になるほど頑張らなくても良くなった。大きな宅配業者ができると郵便局だけが頑張らなくたって良くなる。例えば、市場で考えてみても、イオンみたいな大きな業態は、直接、取引をしているわけで、市場を通してないんです。市場経由率は、水産でいうと50%から60%くらい。つまり、4〜5割は、中央卸売市場が頑張らなくても、ちゃんと流通しているわけです。その現実を考えると、単純に豊洲か築地かという以前に、現状のシステムを考え直す必要があると思います。

確かに、消費者も、昔は魚屋さんで買っていて、それがスーパーや百貨店になって、今はネットで購入できる時代です。流通は確実に変化していますよね?

物事、スピード時代になってきてるけど、この中央卸売市場というシステムは、プリミティブな時代に、非常にうまく機能していたシステムですよね。例えば、国力を持って、日本の端から鉄道をひいて、すごい物量の食料を引っ張ってくるとか、当時は、すごい力を発揮していたと思うんです。そんな素晴らしいシステムから、80年が経ち、今は、もっといろんな物流の知恵があるわけです。豊洲に移転して、しばらくは、今のままでやっていくのだろうけど、次のステップを考えると、現状のシステムでいいのか、ということになる。

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なるほど。未来について考えるうえでも、市場が歩んできた歴史を探るのは面白いですね。では、改めて築地の歴史について聞いていきたいのですが、築地に移転したのが1935年。まもなくして第二次世界大戦に突入します。戦時中、築地が果たした役割も大きかったですね。

戦争で、産地の漁師さんがいなくなるわけだから、船も少なくなる。そこで築地の人々が、あちこち出向いて、魚をとりにいく。それも、中央卸売市場って公的な市場だから、可能になった。民営化になったら、そこまでやれるかですよね。営利が最優先になったら、有事のときに、赤字覚悟でどこまでやるか。生き死に直結する事業体だから、そうそう簡単にはできないですよね。

また戦後直後に築地の話は、個人的にとても興味深かったです。特に、クジラやマグロの話が面白かったです。

戦後、日本が、あまりの食糧難で、みんなが飢えているのをみかねて捕鯨を許可したのは、もともと米国だからね。
あと、本には書けなかった裏話があって…。粉ミルクとか硬いトウモロコシみたいな食料も、米国は日本に大量に食糧支援として渡してたんだけど、当時、米国では、どちらもペットの餌だったわけ。家畜用。だけど、日本人はそれを柔らかくして、パンにしたりして食べていたんです。「米国では、日本人は戦争に負けたのに、家畜の餌まで要求してくる国だ。これ以上、助成金など支援する必要がない」と大騒ぎになるんだけど、まさか、人間が家畜の餌を食べてるなんて理解できないから、文句を言うわけです。そんな経緯もあって、日本が自力で食料を確保できるように、米国が捕鯨を解禁したんです。
さらに、他の国からも捕鯨が、今とは違う理由で理解されなくて…。オーストラリアは「敗戦国なのに、立派な捕鯨船を持っていて、どういうことか、捕鯨船を賠償金としてよこせ」とか言ってきたり。
そういう困難を乗り越えてクジラを捕りにいく。クジラをとって日本に帰ってくるニュースは、日本国民にとって大きな朗報で「あと何日したら捕鯨船が帰ってくる」と新聞が盛んに報じてます。こういう有事のときの中央卸売市場は、大きな威力を発揮してました。

確かに著書にも、約1千万人が餓死したかもしれない、とありました。国民にとって、築地市場に集う食料は、まさに希望であり、クジラは日本国民を救った食料だったのですよね。マグロの話も面白かったです。

マグロは、今でも築地の華だけど、ずっと築地の華だったんです。わたしも資料を読み返していて「えっ」と驚いたんだけど、とにかく米国へ輸出するツナ缶の需要が、戦後すごかったみたいです。復興してから、日本人は、本マグロしか刺身で食べない時代だったから。今ではそんなことないけど、ビンチョウマグロなどは、全部、米国のツナ缶用になっていました。だから、今でこそ、日本はマグロの消費大国ですが、ちょっと前までは米国のツナ缶需要が大きかったです。

また、第五福竜丸の事件を築地からの視点で捉えているのが興味深かったです。汚染された魚が場内に埋められた、とありました。

今では信じられない話だけどね。また、風評被害で、マグロが危機を迎えます。セリで値がつかなくて中止になったり、マグロだけでなく魚全体が低迷します。それを魚肉ソーセージの原料としてマグロを使い、その商品が大ブームとなり、風評被害を払拭します。

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書籍を拝見して他にも様々な発見があったのですが、福地さんが、膨大な資料を調べていくなかで、特に印象的だったトピックをいくつか教えてください。

やっぱり、戦後、GHQの施設として、ランドリーとして使用されていたことかな。ランドリーになる前は、もやし工場にして、戦後の食糧難を支えていたからね。
あとは、築地の建物を造るとき、その裏に、どれだけの叡智が隠されていたか、調べていて面白かった。扇型と形容されるけど、わたしは、海に向かって弓矢を引いているようにみえるんです。世界に向けて矢を放つっていう、雄大な心意気を感じます。やっぱり建物は、最も大きなトピックかな。

天井のドラゴンの背骨や、ピンコロ石、鉄路、バウハウスを思わせる本館など、著書でも多くのページを割いていますね。

あとひとつ、トピックを挙げるとしたら、開場するときの産みの苦しみかな。震災後、日本橋魚河岸時代は問屋さんが群雄割拠してたわけで、今でいう小さな卸会社が、何百件もあって商売をしてたんです。それを、卸会社と仲卸という、今のシステムに整理するのは、それはもう至難のわざだったはずです。国が強い問屋をつくりたいから、みんなが協業して1社にしようって。結局、いつもいつも魚河岸って意見がまとまらないように、ああだ、こうだ、あって、それでも最初は2社まで絞ってスタートします。また、あの頃は、一般市民の関心も高くて、1社だと独占になり魚が高騰する、と不買運動を起こします。市川房枝さんとか、女性活動家たちが、旗をふって築地市場をボイコットする、と主婦に働きかけて30日、40日も築地の魚を食べるのをやめてしまう。
それでも、強引に国が卸会社を1社にします。そのときの国のやり方は、今以上にすごかった。ましてや戦争に向かってるわけで、戦争に向けて、中央卸売市場も卸会社を1社にして、命令系統をひとつにすることで、効率化を図りたかったんでしょう。

そんな築地での歴史を引き継ぎ、豊洲に移転します。銀鱗文庫も、豊洲に移ります。豊洲では、どのような活動をしていこうと考えているのですか?

銀鱗文庫の資料室としての役割が、まず、あります。それが今までは機能しづらかったから。豊洲では、沼田さんのような作品を展示するスペースをつくったり、今まで以上に、銀鱗文庫が資料室として回っていくように力を入れていきたいです。

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このように、築地が歩んできた歴史が詰まった書籍『築地市場クロニクル完全版1603~2018』。そして、豊洲に移転した銀鱗文庫でも、築地の資料に触れることができる。築地を想う人々は、福地さんの書籍とともに足を運んでみるのもよいだろう。そして、ここからは、写真集『築地魚河岸ブルース』の写真家である沼田学が記録した、築地最終日の模様をお送りする。

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