しかし、同年に地元のPROPELLER RECORDSからリリースされたデビューアルバム『Can We Get Away With It?』は、ニュージーランドのトップ40で15位と大健闘。更に1983年には、DEAD KENNEDYSのニュージーランド公演でオープニングアクトを務めるまでに成長した。そしてバンドは意を決し、ロンドンでの活動をスタートさせたが、その後は何も起こらず。1986年に解散した。あれから34年。今や再発ブーム。AGNOSTIC FRONTやTHE ABUSEDなどをリリースしているニューヨークのRADIO RAHEEM RECORDSは、このニュージーランド産パンク・バンドにも目を付けた。「NO TAG」の再リリースである。(タイトルは「Oi,Oi,Oi」に変更)更にバンドも再結成。ギタリストのアンドリュー・ボークに話を訊いた。※当時は、SHAM 69やCOCK SPARRER、THE BUSINESSなどの英国産Oiパンク・バンドを聴いていましたか?あるいは一般的なパンクの方が好きでしたか?どちらも好きだったけど、間違いなくアメリカよりイギリスのOiの方を好んでいた。オークランドでも、パンクは聞く機会は結構多かったし、レコードも輸入されていたからね。ラジオでもかかっていたよ。Oiパンクは、ワーキングクラスに向けた音楽でしたが、その頃のオークランドはどのような状況でしたか?一般的な他の都市と同じだったよ。私はオークランドのノースショア出身だが、他の郊外より労働者階級が多かったとも、少なかったとも思わない。ただの郊外の街だった。ニュージーランドの国有テレビ局であるTVNZにも出演しましたね。そのときの状況を覚えていますか?TVNZからは、知り合いのパンクスを集めてくれ、って頼まれた。サクラだね。でも予想以上に集まってしまったんだ。用意していたビールは、あっという間に無くなってしまったのを覚えている。あと、テレビスタジオだったのでPAはなかった。そこで俺たちは、雰囲気を良くするために、ボーカルのモニタースピーカーを客の方に向けたんだ。でも曲の合間に、度々演奏をストップしなくてはならなかった。カメラの移動待ちだよ(笑)。おかしな光景だったな。普通のライヴ以上に緊張したね。他のパンク・シーン同様、オークランドもかなり暴力的なシーンにだったと聞いています。そこには何があったのでしょう? 人種差別? それともただの酔っ払い? 先住民であるマオリ族のパンクスもいたとか。確かにマオリのパンクスもいた。普通に溶け込んでいたよ。だから偏見とか人種差別なんて無かった。スキンヘッドの暴力もない。まぁ、酔っ払いだ。誰だって攻撃的な音楽をデカい音で浴びせられて、アルコールをたっぷり摂取すれば、必然的に暴力的になる。周りは勝手にそれを「パンクだから」って煽動してたんだ。ニュージーランドと言えば、FLYING NUN RECORDSが有名ですが、彼らとも交流はありましたか?一緒にライヴもしたよ。俺たちはみんな友人だったからね。俺たちは、パンクだけじゃなく、色んなジャンルのバンドとライヴをした。その方が楽しいし、素晴らしい出会いがある。今もそう信じている。ニュージーランドのシーンは、みんなで助け合って成り立っている。ツアーをするときも、FLYING NUNのバンドの家に泊まったりね。個人的な意見だけど、最高のニュージーランド・バンドは、THE CLEANだと思っている。
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