ノースカロライナ州チャペルヒルで結成されたSUPERCHUNKほど、〈インディーロック〉を体現しているバンドはいない。結成は1989年。そして90年代には、数あるバンドのなかでも革新的なギターロックを放つバンドとして存在感を高めた。彼らはセールス枚数が突出していたり、同時代のシーンに大きな影響を与えたわけではなかったが、常にブレない姿勢を保ちながら、新作の度に緩やかな進化を聴かせ、着実に成長するバンド像を提示していた。またSUPERCHUNKは、FUGAZI同様に強烈なDIY志向を持ちながらも、理想を力づくで推し進めるようなスタイルではなかった。メンバーのマック・マコーン(Mac McCaughan:ヴォーカル/ギター)とローラ・バランス(Laura Balance:ベース)は、バンド結成と同時にMERGE RECORDSを設立。レーベルを立ち上げた目的は、SUPERCHUNKや友人バンドの7インチシングルをリリースするためだったが、その後MERGEは成功し、ARCADE FIRE、NEUTRAL MILK HOTEL、SPOON、THE MAGNETIC FIELDS、DESTROYERなどのトップ・アーティストを輩出。現在もインディーロック界の名門レーベルとして君臨している。
SUPERCHUNKは、決してMERGEの看板バンドではない。しかし、そういっても差し支えないほどの偉業を残してきた。1990年代のSUPERCHUNKの活動はそれほどすさまじかった。なんせ、フルアルバム7枚、コンピレーションアルバム2枚、そしてインディーロックを代表するアンセム数曲(「Slack Motherfucker」、「Precision Auto」、「Hyper Enough」)を残したのだ。MERGEはこの数年、SUPERCHUNKの作品を次々とリマスター再発し、昔からのファンへのアピール、そして新規ファンの開拓に努めている。現時点での最新リマスター盤は、2003年に発売されたコンピレーションアルバム『Cup of Sand』で、これは2017年のRECORD STORE DAYに合わせてリリースされた。まだ再発されていないスタジオアルバムが残っているので、なぜこの『Cup of Sand』が選ばれたのかは不思議だが、メンバーのローラ・バランスでさえも、「なぜこのアルバムを選んだのかはわからない」と語っている。
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「廃盤になっていたから、再発する理由はなくはないでしょ」。MERGEのオフィスにいるバランスは、電話インタビューでこう語った。「SUPERCHUNKのカタログを少しずつ検討してながら再発を進めてきた。このアルバムは発売が2003年…ってことは、発売14周年? それは記念すべき年だ(笑)。うそ、冗談。なぜかわからないけど、とにかくこれが次に再発する順番になってた。認めざるを得ないけど、私たちの活動には論理的なプランがまったくないこともある」
正直なところ『Cup of Sand』が発売14周年だからといって、あえて今、このランク付け企画をオファーする理由にはならないし、〈なぜ今?〉感もあるかもしれないが、バランスはやる気を出してくれた。
「超難しい!」。彼女はそう嘆く。「今回の企画が決まったあと、先にアルバムを全部聴いてランク付けしようと思ったの。絶対悩むだろうから。なんとなく選んだものもある。いちばん好きじゃないアルバムは3枚のうちから選んだんだけど、そのアルバムに収録されている1曲がどうしてもいやだから、ただそれだけの理由」
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10.『スーパーチャンク(Superchunk):1990年』
なぜこれが最下位なのでしょう?
理由はふたつ。まず、このアルバムを聴いていると……というか、再発が決まってテスト盤を聴かなきゃいけなかったから聴いたの。そうじゃなければ絶対聴かなかった。で、アルバムを聴いていると「よくもまあこれを世間に発表できたね」って感じてしまう。予算が全然ない状況でレコーディングした作品。ノースカロライナ州のローリーにあるダック・キー・スタジオ(Duck Kee Studios)を使って、2日間くらいで終わらせた。間違えているところも下手なところもたくさんあるし、おかしな音になってる部分もある。今だったら絶対こんな音源でプレスしない。でも完璧かどうかっていうのは、私は気にしないのよね。今もそう。もし、レコーディング中に私がベースをとちっても、誰も気づかなかったら私も何もいわない(笑)。パンクロックっていうのは完璧を求めるタイプの音楽じゃないし、私は今でもパンクロッカーになりたいから。あともうひとつの理由は、「Slack Motherfucker」。この曲を二度と聴かないで済むなら、私はとてもしあわせ。この曲がどうもダメ。バカみたいだし、未熟だし。まぁ、でもこのアルバムの収録曲のうち、今でも5曲はずっとライブで演奏し続けているから、それはいいことだと思う。
この頃は既にMERGE RECORDSがあったのに、このアルバムはMATADOR RECORDSからリリースしていますね。なぜですか?
MERGEは7インチ専用のレーベル。カセットや7インチを数タイトルリリースしたけど、アルバムをリリースするリソースがなかったの。当時は流通システムも整えてなかった。7インチだったら、米国内のディストリビューター10社にデモを送って、それぞれに電話して、何枚欲しいかを尋ねればいい。そんなスタイルでやってたから、アルバムなんて自分たちには扱えないと思ってた。それに、ジェラード・コスロイ(Gerard Cosloy:MATADOR RECORDSの共同設立者)とマックが友人だったから。ジェラードはHOMESTEAD RECORDS* の経営に関わっていたし、私たちは彼をすごく尊敬していた。だからもしジェラードがやりたいっていうなら最高じゃない、そんなところ。
9.『アイ・ヘイト・ミュージック(I Hate Music):2013年』
大抵のミュージシャンは、最新作をランキングの上のほうに位置づけるものなんですが…。
ダメでしょ。でもこの作品にはあんまり想い入れがなくて。レコーディングには参加したけど、それ以上の想い入れを抱けなかった。レコーディングってそもそも好きじゃない。バンド活動としてはライブのほうが断然好き。まあ、私はもうライブ活動から離脱しているんだけどね。このアルバムは、かなりネガティブな感情とセットになってる。危篤状態だった友人を思い出すし、それがこの作品とは切っても切れない関係になってる。そういう関連性があるから好きになれないんじゃないかな。
このアルバムをひっさげたツアーにあなたは参加していません。ベースにジェイソン・ナードゥシー(Jason Narducy)を迎えたSUPERCHUNKは、どうでしたか? 変な気分になりませんでした?
変な気持ちになるとは予想していたんだけど、実際はそうでもなかった。長年待ったからね…。本当は、もっと早くライブ活動をやめるべきだった。耳の問題で長いあいだ悩まされていたから。メンバーにも、「もう少し音を小さくしよう」って話はしてたんだけどダメだった。ライブがすごく好きだったから、それをやめてしまうのは怖かったし、それに私がライブをやめることで、バンドが終わってしまうのを恐れてた。私がいなくなったら、バンドは続けられない、と判断をされるかもしれなかったから。だけど、ジェイソンが代役を務めてくれて私たちは本当にラッキーだった。私抜きで演奏するバンドを見て悲しくなるのも恐かった。きっと置いていかれたような気がして傷つくんじゃないかとね。でも、初めて私抜きのライブを観たとき…本当は観たくなかったけど、さすがに観なきゃダメかなと(笑)…、そしたら最高だった。責任から解放されたのもうれしかった。だって、25年もやってたんだから。やるべきことはやったかな、と吹っ切れた。別に子どもの頃からの夢だったわけでもなかったから。正直、誰かのためだった。今はもうそれをやり遂げたから、気持ちの整理もできている、そう気づいたの。
これがSUPERCHUNKの最後のアルバムになるってことは?
それはないでしょう。
8.『ヒアズ・トゥ・シャッティング・アップ(Here’s to Shutting Up):2001年』
活動休止状態になる前の最後のアルバム。この作品のレコーディングも嫌だったのを覚えてる。バンドのメンバーたちと時間を過ごすのがちょっとキツかった。みんな飲んだくれてるし、居心地が悪かった。スタジオで寝泊まりしてたんだけど、夜、私がベッドで寝てても、他のみんなはまだ起きて酒を飲んでる、みたいな。私は朝起きても、みんなはまだ寝てるから、朝の数時間は暇を持て余してばかりだった。私たちが活動を休止する必要があったのは、そういうところにも理由があったの。バンド内で、そういう不満が溜まっていた。でもこのアルバムをひっさげたツアーを終わらせるまでは、活動休止は決まってなかった。
しかもこのアルバムは、2001年の米国同時多発テロのすぐあとにリリースだった。ツアーはかなりキツいスケジュールで、まったく休みなし。ヨーロッパ・ツアーがあって、戻ってきて3日だけ休んで、6週間の米国内ツアーに出たり。誰も外に出ようともしなかったし、鬱状態だった。それまで出したアルバムに比べても、断トツで演奏していて楽しくないアルバムだった。どうしてかな? たぶん私は、SUPERCHUNKというバンドの力がなくなっていくのを実感していたからかな。もうバンドのピークは過ぎていた。ライブにもそんなにたくさんのお客さんは来なかったし、バンドに対する世間の関心が薄れているような気もしてた。あと、このアルバムはそこまでパンクじゃないし、エネルギーもない。キーボードをフィーチャーした作品だったからかな。だから、演奏していてもおもしろくなかった。
マックは、「みんなが抱いているSUPERCHUNKのイメージを吹き飛ばしたい」と語っていました。それはメンバー間の共通認識だったんでしょうか?
ある程度はね。マックは特に、違う楽器を使った違うサウンドをつくりたかったみたい。彼は同じ活動をするのに飽きていたの。まあ、確かに同じことばかりやっているのって健全じゃない。みんなうんざりしちゃうから。
当時は、THE GET UP KIDSとツアーを回っていましたよね? 個人的には変な組み合わせな気がしてました。実際どうでした?
もう最悪。THE GET UP KIDSなんて聴いたこともなかったし。みんなが薦めてきたから私も承諾したんだけど、本当に憂鬱だった。自分たちよりだいぶ若いバンドの前座なんて、おちぶれたような気分だった。本当に落ち込んだ。当人たちは何も考えてないのかもしれないけど、THE GET UP KIDS待ちのキッズたちが最前列に陣取っててね、明らかに、超退屈してる。頬杖をついて、「マジうせろ、こっちは好きなバンドを見たいんだ」っていう表情でね。あるいは完全にうつむいて寝たふりしてた。こっちは演奏しながら、「ふざけんなよ! 何で私こんなことしなきゃいけないんだろう。帰りたい。マジ最悪」って憤ってた。このアルバムにはそういう嫌な思い出も付きまとってる。
7.『インドア・リヴィング(Indoor Living):1997年』
過渡期のアルバムというか、はっきり焦点が定まってない感じがする。バンドもカタチを変えようとしているような、いろんなスタイルのあいだを行ったり来たりしてるような感じ。収録曲のなかには2~3曲、演奏していて楽しい曲もあるんだけど、好きじゃない。(小声で)あとこんなこというのは申し訳ないんだけど、ジャケットも好きじゃない。これマック作。描いたのは彼(笑)。
この時期の具体的な出来事は思い出せない。ツアーは、まさに『インドア・リヴィング』と『カム・ピック・ミー・アップ』のせめぎ合いというか、全部ごちゃまぜにした感じ。ツアーも長くて嫌だったんだけど、これだけは覚えてる。実はロサンゼルスでのライブ中、演奏しながら寝ちゃった。アルバムのどの曲だったかは覚えてないんだけど、長くてゆっくりした曲だった。ツアーを回る長いドライブでかなり疲れていたし、寝不足だった。お客さんもそんなに集まらなかった。そんななか、ステージに立ってたんだけど、ドライブ中に眠くなるような感じで頭がガクっとなったの。でも演奏は続けてたし、たぶん誰も気づいてなかったハズ。落ちそうになった頭をすぐに上げた。そうじゃなくちゃ倒れてた(笑)。思い出すなぁ…
ジョン・クック(John Cook)の著書『Our Noise: The Story of Merge Records』のなかで、SUPERCHUNKのヨーロッパでのレーベル、CITY SLANGの代表クリストフ・エリングハウス(Christof Ellinghaus)が、「マックのバッキングボーカルを、女性の声だと勘違いしていた」と語っていましたね。あれはおもしろかった。
そうね。マックの声についてはいろいろいわれる。特に初期のレコード。
6.『マジェスティ・シュレッディング(Majesty Shredding):2010年』
ここから選ぶのがさらに難しくなる。『マジェスティ・シュレッディング』は好き。レコーディングもライブも楽しかった。このアルバムの何年も前に書いた曲も数曲収録されてる。2009年に「リーヴズ・イン・ザ・ガター(Leaves In The Gutter)」っていうEPを出して、初期のSUPERCHUNKに戻った気がした。個人的にはよりわかりやすい、ストレートなスタイルのSUPERCHUNKのほうが好き。
9年もの活動休止期間があって、そのあとにリリースされた作品です。バンドのサウンドの方向性を決めるための話し合いなどありましたか?
うん。意識的に〈楽しい〉アルバムにしようと決めた。演奏していて楽しいアルバムにしようと。そういうアルバムを私は創りたかった。もう『インドア・リヴィング』みたいなのはイヤだった。絶対にね。寝たくないし! まあ、もうそれについて心配する必要はないんだけど。
このアルバムが発売されたときのインタビューで、あなたはツアーモードに入るのをちょっと尻込みしているような、そういう様子を見せていました。やはり家族を持つと、バンド活動のやり方も変わってきますか?
うん、間違いない。『マジェスティ・シュレッディング』をリリースしたときは、MERGEもあるし、家族もいるしで、もうバンに乗って6週間もツアーするのは無理だった。もうありえなかった。それにもうみんな中年になったし、肉体的にも耐えられない。2010年当時、私の娘は6歳だったから、家を空けるのは最長で10日間かな、そうイメージしてた。それ以上は調整できなかった。
この作品に対する評価はかなり高かったですが、驚きましたか?
そう…、評論家からの反応はよかった。でもそれだけじゃなくて、レコード業界の変わりように驚いたの。もちろん自分だってレコード業界にいるから、驚いたっていうのはおかしいけれどね。でも、バンドに対する関心の高さからしたら、もっと売れると予想してた。あれくらい注目されていれば、1997年、もしかしたら2000年でも6万枚は売れたはず。でも実際は2万枚だった。だから私は「マジか、時代は変わったんだな。もう誰もレコードなんて買わないんだ」って痛感した。どう頑張ってもあれ以上の枚数は売れなかったでしょう。
5.『カム・ピック・ミー・アップ(Come Pick Me Up):1999年』
ジム・オルーク(Jim O’Rourke)に共同プロデュースを頼んだこのアルバムのレコーディングは凄く楽しくて、おもしろくて、すごく勉強になった。レコーディングでは、ジムがいろいろと提案してくれた。シカゴのスタジオで録ったんだけど、シカゴっていう街自体も好きだし、シカゴに住んでる友達も好き。MERGE作品の流通をしてくれていたTOUCH & GO* がシカゴにあったから、友達がいたしね。
スティーヴ・アルビニ(Steve Albini)の所有するシカゴのスタジオ、〈エレクトリカル・オーディオ(Electrical Audio)〉でレコーディングしたんですよね? どうしてですか?
ジムが作業するのに都合がよかったのと、私たちもスティーヴのスタジオを使ってみたかったから。当時はまだかなり新しかったのよね。スティーヴは、私たちのセカンドアルバム『ノー・ポッキー・フォー・キティ』のレコーディングもしてくれていたしね。でもジムは、相当オーバーワークでかわいそうだった。ホント、朝10時から深夜までとか、かなりの長時間作業だった。それから彼は家に帰って、別の誰かのアルバムのミキシングをしながら、このアルバムのストリング・セクションのアレンジもしてくれた。それでまたスタジオに戻ってきて、みんなで作業を再開してたから、寝る時間あったのかな?
たぶん自身の『ユリイカ(Eureka)』とか他のプロジェクトも進めていたはずですよね。彼のプロデュースで、バンドは新しい領域に踏み出せましたか?
うん、間違いない。でもジムだけじゃなく、バンドもみんなそういう意識だったはず。マックは〈新しいこと〉をするっていう意識が強くて、たぶん『インドア・リヴィング』でもそうしたかったんだはず。それを、ジムはよりよいかたちで実現してくれた。まったく違ったサウンドを取り入れるっていうのは、不愉快だったり、気が滅入ったりするんだけどね(笑)。
私には聴覚障害がある。耳鳴り、聴覚過敏症がある。だから爆音だと、右耳が痛くなる。私はそれについて公にしているけど、それを公表できないミュージシャンもたくさんいる。私と同じくらいの障害を抱えている、特にギタリストは、全てのサウンドのボリュームが、いちばん上まで振り切れるくらいにしないとちゃんと聴こえないと信じてるミュージシャンもいる。そういうミュージシャンは、自分のレコードにもそれを反映させてしまうの。彼ら自身がいちばんよくわかっているから、そこに「ノー」という余地なんてない。そういう人たちに、「こういうサウンドにしなきゃ」って意見できる第三者なんていない。彼らの耳で聴いて、爆音が必要になったんならね。でも毅然としたプロデューサーなら、そんなふうにならないように調整できる。ジムはその点、サウンドのバランスを崩さないようにできる。マックがアルバムでキーボードを使ったら、キーキーうるさい響きになる。それが私はいや。お腹まで痛くなるから。でも『カム・ピック・ミー・アップ』のサウンドは好きなの。
当時私は、楽器を弾いていても苦痛じゃなかった。不安にならずに演奏できたし、曲もつくれた。バンドを始める前は楽器なんていち度も弾いたことなかったのにね。この世界に放り込まれて、みんなにくっついているうちにどうにかなった感じ。
ライナーノーツでは、ジムのニックネームが〈ハードロック〉になっていましたが、どういうことですか?
知らない。思い出せない。たぶんなんかジョークだったんだろうけど。ジムはいろんな話をしてくれたから、たぶんそのうちのひとつじゃないかな。面白い人。
4.『ノー・ポッキー・フォー・キティ(No Pocky For Kitty):1991年』
これも選ぶのが難しかった。残りのアルバムは全部1991年から1995年のあいだの作品なんだけど、その時期こそSUPERCHUNKのピークだと私は思ってる。『ノー・ポッキー・フォー・キティ』の頃は、私はまだ自信がなかった。ライブをやりながら、どんどん上達はしてたんだけど、「自分は何をしているんだろう」って悩んだりもした。収録曲のなかには大してよくない曲もある。何曲かはツアー中に書いた。いろんなことが矢継ぎ早に進むようなスケジュールだったから。このアルバムに収録するために、何曲か書かなきゃいけなかったの。
ツアーの終盤、スティーヴ・アルビニと3日間スタジオで過ごしました。ライナーノーツによると、〈右に座っているローラが、目をつぶってプロデュースした作品〉とのことですが。
そうそう。でもこの表現は、私へのあてつけでしょ。もちろんプロデュースなんてしてない。もしかして寝てたのかもしれない…わからないけどね。このアルバムのレコーディングの時期も、かなり大変でめちゃくちゃだった。というのも、私の友人のウェンディがツアーについてきてくれたんだけど、ちょっと精神を病んじゃって…躁鬱病だったんだけど、ツアーが始まるまで、私たちはそれを知らなかった。つらかったけど、彼女を飛行機に乗せて家まで帰さなきゃならなかった。空港まで彼女を送ったわ。飛行機に乗るところまで付き添わなかったのが今となっては信じられないくらい。そういう出来事もあったから、レコーディングにもそんな雰囲気が漂ってた。本当に心配だったの。このアルバムのレコーディングはたった3日間。スタジオはすごく豪華だった。スティーヴはオフの時間を利用して、パンクロックのアルバムをつくって。このアルバムのレコーディングにまつわる想い出はたくさんある。なんといってもスティーヴが本当におもしろい人だったから、完全に彼が主役だった。
スティーヴに、「ルートビアとか、ペパリッジ・ファームズ・チェスメンのクッキーとかを買ってこい」、なんていわれませんでしたか?
確かに、お菓子を買いに行くときに頼まれた気がする。あるいは自分で持ってきてたかも。覚えてないな。でもお菓子を買う余裕もないくらいの予算だったから、そんな姿すら想像できない。
このアルバムがリリースされたのは、NIRVANAが『ネヴァーマインド(Nevermind)』をリリースした1カ月後でした。その恩恵にあずかった部分もあると思いますか?
そうね、インディー・ロックが盛り上がっていた時期だし、NIRVANAはそのいち部だったからね。インディー・ロックっていうジャンルに対する興味がかなり高まっていて、それはNIRVANAが牽引したと思う。でもNIRVANAだけじゃなく、先駆者たちのおかげでもある。グランジ・ブームの立役者であるSUB POP RECORDSや、MUDHONEYの人気だってすごかったからね。
3.『フーリッシュ(Foolish):1994年』
このアルバムはファンからの人気も高いですよね。
そうかも。たぶん、歌詞が傷ついた感情についてだからじゃないかな。別れのアルバム。本当はもっと上位にしてもいいんだけど、私にとっても結構つらいアルバム。当時のレコーディングやツアーのときの落ち込んだ状況なんかを想い出しちゃうから、ナンバーワンにはできなかった。
あなたとマックが別れた頃ですよね。バンドは存続の危機に陥らなかったんですか?
分裂する可能性もあったけど、解散の話はなかった。このまま頑張ろうってことになった。MERGE RECORDSもSUPERCHUNKも、活動を止めるべきじゃないと思っていた。バンドは大切な存在だったからね。でもアルバムのツアーはかなりつらかった。毎晩このアルバムの歌詞を耳にして、何もいえなくて。私は何もいえないのに、マックはそこで全部歌ってるわけでしょ。涙を流しながらステージで演奏してた。マックが目を離している隙に、私のほうに向いていた彼のアンプの向きを変えたりしてたわ。
アルバムのジャケットに使われているあなたが描いた絵は、ふたりの別れについてですか?
ある程度は、このアルバムのテーマにインスパイアされているはずだけど、でも、もっと無意識だったかな。残念ながら、SUPERCHUNKのアルバムのために絵を描くときには、決まって時間がない。だから何度も練り上げた作品というより、もう、気の向くまま描いた(笑)。あと、AMERICAN MUSIC CLUBのアルバム…確か『Mercury』にもインスピレーションをもらったかな。中ジャケで女性の写真を使っていて、それがすごく好きだったから、私も肖像を使うようにした。でも、そんなモデルになってくれる人なんて自分くらい。ちょうどマイケル・ムーア(Michael Moore)監督のテレビ番組『Pets Or Meat』(1992)を観たところで、そこからウサギのアイデアが生まれた。何か足りない気がしたから。そんな感じ。本当バカみたいでしょ。
そうやって、このジャケットにいろんな事柄が描かれたんですね。
そう。まあ、もちろんそうなるだろうとは思っていたんだけど。少なくとも、意識的なプロセスとしては、みんなが考えているような感じではなかった。
『フーリッシュ』は、スティーヴ・アルビニがミックスをしています。ちなみに彼にも口から火を噴く方法を教えましたか?
うん。これって何度もできることじゃないの。飲み込まなくても、口に含んでいるだけで吸収されて、酔っぱらって、すぐに頭が痛くなっちゃうから。ジョン・レイス(John Reis:ROCKET FROM THE CRYPT、DRIVE LIKE JEHU、HOT SNAKESなどで活動。SWAMI RECORDSも運営している)と彼のガールフレンドから伝授されたの。最高でしょ。頭おかしいんじゃない、って感じだけど挑戦した。成功と失敗は半々くらい。当時の私は、タフを気取ってれば気分がよかった。火を噴くなんて最高にタフでしょ。151プルーフ(アルコール度数75.5%)のラムを使ってたからね。
最後に火を噴いたのはいつですか?
うーん……えー……確か1996年かな?(笑) たぶんうちのリキュール棚には、まだそのラムのボトルがあるはず。もう使い道がないんだけど。バナナのフランベに使おうかな。
2.『ヒアズ・ウェア・ザ・ストリングス・カム・イン(Here’s Where the Strings Come In):1995年』
このアルバムの収録曲は、ほとんど好き。このアルバムについては、全てのプロセスにおいて気分よくやれたし、自分のやってることにも自信が持てた。時間もかけたしね。レコーディングはワリー・ガゲル(Wally Gagel)に頼んだんだけど、彼はドラムスについては突出した耳を持ってる。ミキシングの際は、ウォリーがかなりいい影響を与えてくれたわ。おかげで最高のサウンドになった。
このアルバムの曲は、SQUIRREL NUT ZIPPERSのメンバーが所有するコンクリートブロック製の家で書いたというのは本当ですか?
ああ、変なの、私それ自体忘れてた。そうそう、SQUIRREL NUT ZIPPERSのメンバーだったステイシー・ゲス(Stacy Guess)の持ち家。よくそこで練習をしてた。何でそうなったのかはわからない(笑)。どうしてだろう? まあガンガン音を鳴らしても大丈夫なくらい広かったからかな。外観は超キレイなのに、なかに入るとすごく寒くて暗かったのを思い出す。草の多い場所で、私道の反対側には森が広がってた。
アルバムのジャケットもそこで撮影したんですか?
ううん、あれはチャベルヒルにあるうちの庭で、ポラロイド。
この頃、MERGE RECORDSでの業務がフルタイムになったんですよね。それであなたは、キンコーズの仕事を辞めた。
そう。キンコーズの仕事は本当に嫌だった。眠くなるし、退屈なの。おもしろかったのは、人と話せるところ。たくさん人が来てたから。プリンターに囲まれて、その機械がどういう仕組みなのか学び、そのなかの詰まりを取り除くおかしな仕事。よく考えたら割と楽しんでいたのかも。機械なんかがどう動くかを知るのが結構好き。オタクかも。
SUPERCHUNKとしても、かなり売れたアルバムですよね。
そうね。当時、過去最高に売れたアルバム。今はどの辺にランクインするかわからないけど、あの頃は、どの作品よりも売れた。
「Hyper Enough」は間違いなくアンセムです。あなたたちはこの曲のために、ラジオ用のプロモーターを雇いましたよね?
そう、ラジオ局に送るために特別にミックスした。ちょっと野心的だったけど、やってみる価値があった。やらなくても売れたと思うから、このミックスに効果があったかはわからない。それにラジオでのプロモーションもセールスには影響しなかった。ラジオでは、インディー・ロック系の専門番組以外ではあまり流れなかったから。このアルバムをナンバー2にしたのは、なんといってもいい曲が多いから。今でも好きな曲ばかり。
ラジオへのプロモーション用に「Hyper Enough」のコーヒーカップもつくったそうですね。まだ手元にありますか?
ふたつしまってある。オフィスの棚に飾ってる。使わないようにしたから、まだ壊れてない。
個人的には、SUPERCHUNKを代表する曲は「Slack Motherfucker」よりも「Hyper Enough」な気がします。
大賛成! 「Hyper Enough」は今でも全然聴けるけど、「Slack Motherfucker」はキツい。だってバカっぽいでしょ(笑)。「Hyper Enough」はもうちょい進歩してる。
1.『オン・ザ・マウス(On the Mouth):1993年』
これをナンバーワンにした理由は?
そうね、これも好きな曲が多いからかな。ライブで演奏するのも好き。このアルバムで初めてバンドとしての方向性が見えたし、結束力も高まったと思う。
このアルバムから、ドラムはジョン・ウースター(Jon Wurster)になりました。彼のおかげで、バンドが手に入れたものはありますか?
ジョンは、元ドラマーのチャック・ギャリソン(Chuck Garrison)よりも人当たりがよかった。だからツアーがもっと楽しくなったの。誰かをイライラさせないよう、気を遣わなくてすむようになった。チャックはすばらしいドラマーだったし、彼の生み出すグルーヴは最高。でも、ジョンはもっと精巧なドラマー。そこに気を使っていたみたいだし、キャリアを積んできたドラマーだから、そこに対しては真面目。演奏中、ジョンは私にコンタクトを送ってくれる。そうやって、ライブ中もバンドメンバーをサポートするようなコミュニケーションをしてくれるから、そのおかげでバンドが一体になれた。そういう面をバンドにもたらしてくれたのが彼。このアルバムで真の意味で私たちは〈バンド〉になれたし、曲についての理解も深まったはず。
プロデューサーはジョン・レイスです。なぜ彼と組んだのですか?
私たちはROCKET FROM THE CRYPTもDRIVE LIKE JEHUも、あと彼の最初のバンドであるPITCHFORKも大好きだった。いっしょにツアーして仲良くなれたしね。でも、正直なところ、このアルバムにジョンが参加してくれたのには罪悪感がある。彼はプロデューサーとして参加してくれたけど、タダ働きさせちゃったからね。最終的に町を離れるとき、サンディエゴまで彼を送り届けようとしたんだけど、「じゃ、ここで降りるわ! またね!」っていって途中で降りちゃったの(笑)。「やばい、絶対私たちにうんざりしてるし、怒ってるんだ……」って焦った記憶がある。その後、私と彼は、この件ついて未だに話していない。マックとのあいだで話がついてるのかもしれないけど。ホント落ち着かない……。
もし彼と話す機会があったら、SUPERCHUNKからプロデュース代が支払われたかどうかを私から聞いておきましょうか?
んー、支払ってないのは間違いない…いっしょにいるときの食費くらいは出したかもしれないけど、ホントに全く渡してない気がする。
どこかで、レコーディングスタジオにはおかしなポルノ・ビデオのコレクションがあったと読んだのですが。
あったあった。おもしろかった。何本か流していたんだけど、変なのばっかり。「何これ、ウナギついてんじゃん! これどうなっちゃうの?!」みたいな。おもしろくて夢中になるっていうより、好奇心で観てた。