悲しいときほど笑えたり、絶好調のときほど足元をすくわれたり、善と悪、喜びと楽しみがあってこそ感情の起伏が実感できる。
Photos by Shinryo Saeki

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若き写真家が見る歪んだ世界 vol.15 佐伯慎亮

悲しいときほど笑えたり、絶好調のときほど足元をすくわれたり、善と悪、喜びと楽しみがあってこそ感情の起伏が実感できる。

写真集『リバーサイド』より

悲しいときほど笑えたり、絶好調のときほど足元をすくわれたり、善と悪、喜びと楽しみがあってこそ感情の起伏が実感できる。もっといえば、退屈を感じるからこそ充実していると感じるし、普通だからこそ異常がわかる。どんなにポーカーフェイスを装おうと、悟りを開いたつもりでも、あるいは、心を閉ざそうと、同じとき、同じ感情、ましてや同じ生は続かない。それらの凹凸を、恐れ多いが宇宙規模の視点で俯瞰して捉えたならば、すべて極々平坦な物事になるはずだ。

ドラマティックではなく、淡々とした日々だからこそ、そこで起こってしまう喜びや悲しみ、世の中の常を思い知らされてしまう。当たり前のことだが、それを意識せず、潜在的に染み付かすことができれば、きっと生き生きした日々を送れるのではないだろうか。

〈若き写真家が見る歪んだ世界〉第15回目は、お寺の息子という出自からか、生と死、無常、そして、ユーモアが織り交ぜられた混沌を表現する佐伯慎亮の作品とインタビュー。

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写真集『挨拶』より

写真を始めたきっかけは?

頭悪かったんですよ(笑)。

えっ?

「お前は普通の大学は無理だぞ。日本画で受験すればいいんだ」ってずっと親父に言われてて(笑)。中学から日本画をやっていて山陽新聞の賞をもらったり、かなり上手いって言われてたんですが、デッサンを描くのがめちゃくちゃ遅かったんです。とてもじゃないけど、大学受験の時間内だけで絵を完成させられないなって。

それで写真の道を選ぶんですね。

実家がお寺なので和歌山にある高野山高校に入ったんですけど、2年の夏に学校を辞めてしまって、画塾に下宿して通信の高校に行きました。

なぜ高校を辞めたのですか?

いや、いわゆる、こじらせてたんです、今でいう(笑)。当時兄が東京の大学に通っていて、GUNS N’ ROSESやU2とか、長渕とかを教えてくれて。そのひとつがNIRVANAで、めちゃくちゃハマっていったんです。あと、藤原新也さんの『東京漂流』って本も紹介されて、それまで広島の田舎で、寺のボンボンとしてヌクヌク育ったんで、世の中、こんなことになっているのかと衝撃的すぎて。それで高校なんか通ってる場合じゃないって辞めたんです。中学まではB’zばっか聴いてたんですけどね。NIRVANAと藤原新也のせいで、高校を辞めさせてもらいました。今では後悔していますけどね、B’zを全部手放したことを(笑)。

そのパターンですね(笑)。

そのうち、いろんな映画を観るようになり、塚本晋也監督の『鉄男』を観たら「これだ」、実験映像をやりたいと。それで京都造形芸術大学の短大に、実験映像の面白い先生がいて、そこにしようと思いました。映像やるなら、まず写真をやらなきゃとはじめたんです。

その当時はどのような写真を撮っていたんですか?

造形的に面白い感じですかね。電線とか、森山大道的な感じもあったかもしれないです。その頃、高校生のヒロミックスが出てきたり、アウフォトとかが流行ってたんですが、和歌山の田舎者の僕には、そういうものが撮れる環境じゃなかったんで、ただただ憧れていました。

では高校を辞めて、身の周りの気になる物事を撮っていたんですね。

あとは、高野山を撮っている大阪芸大の永坂嘉光先生を、高校の美術の先生が紹介してくれて。そしたら、「今度アメリカへ行くから君もきたら?」って、誘われてついていったんです。

大きな体験ですね。

本当に写真の虫みたいな先生で、要点でしか話さない独特な作家で、写真を撮るきっかけを与えてくれた恩師ですね。「クシュ、クシュ」っていう変な癖があって(笑)。大学生のゼミ旅行だったんですが、アンセル・アダムス(Ansel Adams)の弟子の方の暗室に行ったりしました。そこで「写真上手いよ」って先生に褒められて、大阪芸大の写真学科も受けるよう誘ってくれました。ただ、この頃はまだ写真にあまり興味がなかったんです。

では、あくまで映像学科に行くための手段として、写真だったのですね。

永坂先生は高野山の風景を専門に撮ってる作家で、ヒロミックスとか長島友里恵さんとか蜷川実花さんとか、そういう煌びやかな写真の世界とはまた違うというか、正直当時の自分としてはいまいち興味が湧かなかったんですが、一応受験したんです。先生に「写真は哲学だって言え!」って指示されて、「なんだそれ!?」、と思ったのを覚えてますね(笑)。ただ、面接でひとつだけ熱く語れることがあったんです。それが藤原慎也さんの『東京漂流』です。

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そのエピソードを話したんですね?

「好きな写真家は誰ですか?」って聞かれて、「藤原新也さんです」って答えて、「犬が人間を食ってる写真が衝撃的すぎて、いつかインドに行きたいと思っています」という感じで答えたら受かったんです。結局、映像学科には受からなくて、大阪芸大の写真学科に入学しました。

こじらせていてよかったですね(笑)。それにしても、写真をはじめて1年ほどで、よく大学に合格できましたね。

ラッキーでした(笑)。冷静に考えると良く受かりましたよね。

「hsw!」より

では大学に入ってから本格的に写真をはじめるんですね。

当時はさっき話した女性3人の木村伊兵衛賞作家とか、ホンマタカシさん、佐内正史さん、大森克己さんがいてっていう。それで大橋仁さんが初めての写真集『目のまえのつづき』を出すわけです。大学に入るとそういう写真に詳しい友達と話すのが楽しくて、当時出版社のリトルモアから出ている写真集は全部チェックするくらい、のめり込んでいきました。

なるほど。

写真史に登場するような作家の中ではアンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson)が大好きでした。でも決定的だったのが、友達の家でヴォルフガング・ティルマンス(Wolfgang Tillmans)を観るんですよ。『BURG』っていうネズミがちょろっと覗いている表紙の写真集ですね。美しさと造形的な面白さがあって、「あっこれや」ってほんまに思ったんです。翌々日、市内まで同じ写真集を買いにいきました。ユルゲン・テラー(Jeurgen Teller)とかも、その時観ましたが、「なんかファッションとかじゃないんかな」って。ヒロミックスの写真も好きだったんで、それでやたら人を撮るようになったんです。

ポートレート、もしくはスナップですか?

ポートレート的に撮ったりもしましたけど、自分の家に来る人をスナップ的に撮ってました。ビッグミニで。

ティルマンスもヒロミックスもビッグミニでしたよね。

そうですね(笑)。それを撮り貯めていって、大学の授業で編集してブックをつくりました。

その時は何を切り撮ろうとしていたんですか?

かっこ良さそうな〈雰囲気〉ですね(笑)。写真のテイストもティルマンスの影響が強くて、一冊目の写真集『Wolfgang Tillmans』にあるような写真を撮ってました。とにかく若い友達をいっぱい呼んで、ひたすら撮り続けました。

家に友達が集まる環境だったんですね。

当時、一人暮らしの学生マンションを改造して、自分の家でギャラリーを開いたんです。6畳の部屋が2つあって、真ん中に押入れがあったんですが、その奥の部屋を真っ白に塗って、手前の部屋をバーにしたんです。

内装を自由にいじれる部屋だったんですか?

全部大家さんに内緒で(笑)。もちろん市内にギャラリーはありましたが、全部自分たちでやっちゃおうと盛り上がって。陶芸の子や舞台美術の先輩が、そのアイディアを面白がってくれて、4、5人のチームでギャラリーをつくりました。

面白そうですね。

めちゃくちゃ面白かったです。玄関に玉砂利を敷いて、カウンターを造って、ビールを買ってきて、勝手に売って。写真だけでなくあらゆるジャンルを展示してました。他の学校の子とか、大学の先生も面白がってくれて展示しました。

自身の展示はしなかったんですか?

やってないですね。いつかはやりたいと思ってたんですが、そのうちにしんどくなっちゃって。例えば、寝るときは、みんなが土足で出入りするところに布団を敷いて寝ていたんです。だから、深夜3時まで人が喋っていて、次の日、朝早いから先に寝て、それで8時に起きたら寝る前にいた同じ3人が、まだ、喋ってるんですよ。そんな毎日が続くんです。あと、僕が苦手な人から「展示したい」って言われて。そうやって望まない人たちも来るようになっちゃって。

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それはしんどくなりますね。自身の展示をする前にギャラリーを辞めてしまうんですね。

今、思い出しましたけど、大学の課題でブックをつくったんですが、「スペシャルオレンジ」ってすげえ恥ずかしいタイトルをつけて(笑)。家のギャラリーの押入れを隠す布が、オレンジ色だったのでタイトルにしたんです。それを大阪のディグミーアウトカフェ(digmeout cafe)をやってるタンク・ギャラリー(tank gallary)の人に観せたんです。そうやってタンク・ギャラリーに通いつめているうちに、大学以外のちょっと年上の人たちとも知り合って、絵描きのKYOTAROさんとか、すごく仲良くなってグループ展を何度か企画でやらせてもらいました。また、野村浩司さんってカメラマンの展示の手伝いに借り出されて、壁とか塗ってすごく楽しかったんですけど、そのうちに人の手伝いをするんじゃなくて、「自分もこういう個展がやりたい」って悔しさが湧いてきて。野村さんは、もちろん僕が撮っている写真を観たことがないから、「俺はこういう写真を撮ってます」って観せたいって思ったんですよね。

野村さんは、主にミュージシャンを撮っている有名な方ですよね。

もう亡くなってしまったんですが、すごく優しくて、良くしてくれた方だったんで、野村さんに観せるために、表紙が家のギャラリーの玄関に敷き詰めていた玉砂利を撮った「hsw!」というブックをつくったんです。とにかくそれまでに撮った写真を編集して、東京の野村さんのところに持っていきました。そしたら面白がってくれて、「キヤノン写真新世紀で賞が獲れたら、本になるかもしれないから応募してみなよ」って野村さんも適当なことを言って(笑)。

それで応募したんですか。

その時点では応募の締め切りまで、半年くらい時間があったんで、もう一回全部つくり直して、ああでもないこうでもないって、好きな写真集を全部見直して、始まり方をティルマンス、終わり方を大橋仁さんの真似とかして編集していきました。

「hsw!」より

写真集『挨拶』、「hsw!」より

「hsw!」より

「hsw!」に掲載した写真は、どのような写真だったんですか?また、現在の佐伯さんのテイストは、この時点で確立されていたんですか?

人の真似でカッコ良いって思えるものが多かったです。ただ、そうやって撮っていたら、「これかも」って思えるのが撮れたんです。19歳のときに、大戦中にレイテ島で亡くなった人達の供養のための戦没者慰霊団員として、お爺ちゃんに付いてフィリピンに行ったんです。すごく厳粛な雰囲気で、僕も手を合わせて拝んでいたんですけど、それとは全然関係なく、アヒルが横切っていくのを見て、「おう」って、急いでにじり寄って写真を撮ったんです。それを現像してプリントしたら、いろんな感情が交錯する何かを1枚で表現できて、写真ってこういうことができるんだって実感したんです。「多分これはええ写真やろ」って。

スナップを撮っていたら、だんだん掴めていくんですね。

当時、周りにいる写真学生たちは、やたら悲壮なものを探して撮るみたいな流行りがあって、「お前普段、全然そんなんじゃないやん」っていうのが嫌で。だから、森山さんをはじめプロヴォークを真似して悲しそうにみえるように撮っている人等が全然好きじゃなかったんです。

そんななかで撮れたのが、このアヒルの写真なんですね。では、この写真のように、厳粛な空間だけど、どうにも抗えない自然の摂理みたいなものがあって、そこで生まれるユーモアなど、様々な感情が入り組んだ場面を撮りたいと思うようになるのですね。

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そう思ってからはそれだけを撮ろうとしたんですけど、やっぱり無理なんですね。結局、出会った瞬間に、撮りたいものに反応するしかないですから。

では、アヒルの写真を中心に「hsw!」は構成するんですね?

そうです。一番最後の一番ええところに。そのあとに、ちょろっと失恋の物語があって。

というと。

当時付き合っていた彼女とインドを旅行する話があって。ヒッピー系の女の子やったんで、旅したいなって話していたんです。それで誕生日にお互いの航空券を買ったんですけど、その時に振られたんです。めちゃくちゃ可愛い子だったんですけど、振られてしまって。彼女の写真が「hsw!」の最後の方に入っていて失恋のストーリーまで、勝手にできちゃって(笑)。

なるほど。

インドに行く日の明け方に「hsw!」を完成させて、空港で宛先とか書いて写真新世紀に送ったんです。それで、そのままインドに行こうと思ったんですけど、飛行機に間に合わなくて(笑)。

行けなかったんですか?

しょうがなく、一旦家に帰って、向こうで使う予定のお金で、もう一回チケットを取り直したんです。そしたら今度は家にパスポートを忘れて、また乗れなくて(笑)。それで、また家に帰って、NIRVANAの貴重なLPとかを全部売って、お金をつくってチケット取って。3回目の正直でようやくインドに出発できました(笑)。

すっごい執念ですね(笑)。なぜ、そこまでインドに固執していたんですか?

インドから帰ってきたら、実家の寺で修行することが決まってたんですよね。

写真をやっていけるのか実家を継ぐのか、選択を迫られていたんですね。

「俺は今写真をやっとるから、やりたいし楽しいし」って言っても、「修行もしてないのに、何を言ってるんだお前は!!」って親父も爺さんも全然聞いてくれないんですよ。もう修行しないと説得できないとわかったんで、するしかなかったんです。だから、余計必死だったんだと思います。ていっても全部、親にお金を出してもらってるんですけどね、学費から何から(笑)。だから本当、ボンボンの甘ちゃんというか(笑)。

なるほど。念願のインドはどうだったんですか?

付き合っていた彼女ともヴァラナシっていう街で再会できて、でもやっぱり振られてたんで一緒にいる理由もないからすぐに別れて。それで、この人のところに、傷心のまま会いに行ったわけです。

写真集『挨拶』より

もしかして、川岸の写真ですか?

そうなんです。あてもなく歩いてたら見つけて。その日からボートを借りて何日間か通ったんです。宿のそばで見ていた、焚き火で燃やされて、人の顔から沸騰した雫が垂れて水蒸気になって天に昇っていくのとはまた違って、この人は乾季で水かさが減ったから、その時に出会えた人で、川底の牛の骨やビニール袋と一緒にものすごい時間をかけてゆっくり自然に還っていってました。すぐ横には草も生えてきてて、犬も何匹かいました。とても心地よかったんですが、何日間か見てたら、「こんなとこおったらいかんわ」って、この人のところを去るって決めた日に、最後に1枚だけ撮らせてもらったんです。

この写真に、そんな経緯があったんですね。

とにかく暗い旅行でしたね。山本精一さんの羅針盤ばっか聴いてました。帰りは多少元気になってDaft Punkとか聴けるようになってましたけどね。それで日本に帰ってきたら、写真新世紀から手紙が届いていたんです。ポストで手紙を開けたら「優秀賞」ってあって、「やったー」ってジャンプして喜んだんですが、次の瞬間、着地すると同時に足元から後悔の念が襲ってきて。人の真似ばっかしたもので写真の賞を獲ってしまったっていう。4人くらい審査員がいたんですけど、荒木さんはなんとなく選ばないだろうから、飯沢耕太郎さんに好かれるようにって狙っていた自分のあざとさも含めて、後悔がめちゃくちゃ湧いてきて。

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成功と同時に挫折を味わうんですね。

そうなんです。ただ、新世紀を獲ったことで、写真家としてやっていく決心がついたんですけどね。また、その後、修行にいったというのもあるかもしれませんが、やっぱり写真の賞を獲れたことで、親父と爺ちゃんも、やりたいんだったらやってみたら。どうせ仏の道は常に開かれているから、いつでも戻ってこれるからって、認めてくれて。

では、写真表現でオリジナリティーを求めるようになるんですね。

とりあえず修行にいって、帰ってきて大学に復学しました。卒業制作で何をやっていいか全然わからなかったんですけど、とにかくなんでも撮っているうちに、このバイクに出会ったんですよ。大阪の公園の池でバイクを見つけたときに膝が崩れ落ちるくらいびっくりして。「インドと同じだ」って。自分がインドや修行で感じたことを写真で表すには、インドとこのバイクの写真を並べればいいんだって思いました。これを2枚並べるための修行として、いろんな写真をとにかくフラットにコラージュした作品を創るんですが、それが後の「平平平平(ひら・たいら・へい・ぺい)」っていう作品なんです。「人間とバイクを一緒にしていいのか、いいんだ」っていうのを体感するために、コラージュだけの作品をつくったんです。

写真集『挨拶』より

その卒業制作で新世紀での挫折は吹っ切れたんですか?

新世紀を受賞した「hsw!」には、インドもバイクの写真も掲載してなかったんで。あとは修行から帰ってきたら、大学の同級生のオシリペンペンズや巨人ゆえにデカイだったり、友達だった奴らがバンドを始めてたんです。「しんりょうも一緒にやろうや、ホラガイ吹けるんやろっ、そんなメンバーおったらおもろいやん」って誘われて。それでアウトドアホームレスってバンドをやりだすんです。それでペンペンズが注目されてきて、僕も大好きになっていって、でも友達だから余計悔しくて。悔しいからバンドは、ほとんど撮らなかったんですが、勝手に対抗心を燃やしていつの間にかギャグの写真ばっか撮るようになっていったんです。

「平平平平」より

「平平平平」より

「平平平平」より

大学を卒業してから写真とバンドを両立していくんですね。

小さい会場の床を写真で埋めまくったら面白いぞって、まずは写真展をします。シリアスなインドとバイクの写真をもっと面白くするためには、落差があればあるほどいいと思うようになっていて、ギャグの写真ばっかを集めて「狂気の今日昨日」っていう展示をしました。当時は、笑える写真作品が世になかったですからね。それからバイトしながら写真を続けて2年くらい経って、前回の展示で床に敷き詰めていたコラージュ写真を、ずっと部屋に放置してたのをビリビリ剥がして「平平平平」としてまとめ直したり、撮りためてた写真でもう一度「嘔吐マチック」っていう、ゲロをフューチャーした写真展をしました。そうやって写真でできることをやりきったら、写真を撮る気がなくなっちゃいまして。それで今度は「やっぱりバンドや」って思ったんです。当時は、JOJO広重さんのアルケミーレコードからペンペンズがリリースするってなって、あふりらんぽっていうバンドはSonic Youthの前座をやったりして、ZUINOSINってバンドが出てきて、関西ゼロ世代とか言われるようになって、楽しくなっていくんですよ。暇があればライブハウスに行くようになって、まわりに影響されて自分でもバンドとかもやりましたが、とにかく才能がなさすぎて、ボーカルしかできなかったです。そっからギターなど楽器を頑張れば良かったんですけど、そういう根性はないわけです。

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音楽も上手くいかなくなるんですね。

アウトドアホームレスってバンドは、ずっと同窓会バンドとして今でも楽しくやってますけどね。その頃は、JOJOさんとか三上寛さんの歌詞の世界が面白くて、笑えるし切実だし、そういう世界を写真で表現できたら最高だなって思ったりしてました。

写真もやりきった。音楽も上手く行かず。そんな時に何がきっかけで次に進めるのですか?

小林美香さんとサードギャラリーの綾さんがキュレイトした韓国人8人、日本人8人の作家で〈コミカル&シニカル〉っていう合同展をするのに、僕を呼んでくれたんです。その展覧会には梅佳代ちゃんと浅田政志くんも参加してました。それで、その展覧会に赤々舎という出版社の方がやってきたんです。新世紀の賞をもらった時にみせにいったんですけど、僕の名前を覚えていてくれたみたいで。そしたら「今出版社をやってるんだけど、本つくってみない」って誘われて。

いきなりですか?

「えっ俺の本ですか」って感じでした。ただ、すぐに本が出るわけじゃなくて、そこから3年くらい制作に時間がかかったんです。この展示が2007年で最初の写真集を出したのが2009年なので。

どんな本にしようと思ったんですか?

「嘔吐マチック」ってインドもバイクの写真も入ってるギャグ満載のブックがあって、それを写真集にできればと思ってました。

「嘔吐マチック」より

「嘔吐マチック」より

「嘔吐マチック」より

「嘔吐マチック」より

「嘔吐マチック」より

しかし1冊目の写真集『挨拶』には、ギャグの写真があまり入っていませんよね?

編集の方に、ことごとく外されたんです。「なにが面白いのか、わからない」って。「あれ、じゃなんで俺の本を出したいっていってくれたんだろう」ってずっと思ってました。面白さを超えた要素を入れたいって言われて、それに引っ張られて。それでも突き抜ける何枚か、一定のレベルを超えてるギャグのものだけが入ってます。いろいろ撮って持っていくんですが、「これいいじゃない」っていわれる写真が、自分的には「なんでこの写真なんだろう」っていうのが、ずっと続いて。ただ、とりあえず早く本に、型にしたいって気持ちばかり焦ってましたね。

しっかりコミュニケーションがとれないまま、写真集ができるんですか?

3年近く一緒に少しづつ取り組んでいたんですが、ある日電話がきて「9月に出そう」って7月にいきなりいわれて。それで今まで撮った写真を全部アートディレクターに渡して組んでもらったんですけど、最初のレイアウトが自分的にはしっくりこなくて。ただ、本の軸になるインドとバイクのレイアウトはこれだなっていう感触があって、他の写真を最後までめくらせる楽しさみたいなものを意識して編集の方と一気に2時間くらいで詰めていきました。

佐伯さんはちゃんと納得していたんですか?

まだまだ笑わせたいなっていう気持ちがありました。でも編集の方に「もう写真があるから、こう見せたい、ああ見せたいではなくて、どう並べてほしいか写真が愬えてるから、それを読み取るだけだから」って言われて。「あっ、なるほど」と思いました。ただ、確かにつくりながら本当にこれでいいんだろうかっていう気持ちはありました。

佐伯さんの理想より、全体的な印象が切ないというか、情的な感じが強調されていたんじゃないですか。

そうそう。そうなんです。だから僕の写真を知ってる人から「なんでこうなったの?」ってすごく言われて、仲の良い写真仲間は「絶対買わねぇっ、買いたくねぇ」って。ついこの前も昔からずっと写真を見てくれてた人に「新しい写真集が出たから言うけど、『挨拶』が出たとき本当に悲しかった。だから今回の『リバーサイド』が出て本当に良かったよ」って言われましたから。

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写真集『挨拶』より

写真集『挨拶』より

写真集『挨拶』より

写真集『挨拶』より

写真集『挨拶』より

写真集『挨拶』より

写真集『挨拶』より

それでも、この『挨拶』で佐伯さんを知ってファンになってくれた方もいるんじゃないですか?

どうしようもない虚無感とか、圧倒的な悲しみの中でも笑おうとする感じが好きだって、言ってくれる人もいますからね。僕自身『挨拶』にはものすごく思い入れもありますし、出た時には、もちろん全て納得していました。当時の僕の写真の根幹は、やはりそういう情的なもので、それを笑いで照れ隠ししようとしていたんだなと、今は思います。

なるほど。では『挨拶』を出してから、どのような活動をしていくんですか?

大きかったのは、『SAVE THE CLUB NOON』って映画を撮って、その映画に1年半くらい携わりました。

どのような経緯で『SAVE THE CLUB NOON』に関わるんんですか?

きっかけはNOONっていう摘発されたクラブのオーナーのインタビューをたまたま『カジカジ』の仕事で撮影したんです。それで話を聞いてたら、「今度イベントをやるから映像できる人紹介してよ」って言われて。

もともと知り合いだったんですか。

いや、その時はじめて会って。でもNOONってクラブにはよく行ってたんです。大阪ではまさに老舗ですからね。当時関西では、風営法で深夜1時を過ぎてお客さんが踊っていたら、そのクラブのオーナーが摘発されるっていうおかしな事件が相次いで、20軒くらいのクラブが摘発されてて。他にも、ライブハウスのベアーズとかにも電話がかかってきたりしていて、おかしかったんです。だから妙な危機感があったんです。

写真家として、あるいはミュージシャンの夫として、またはバンドマンとして、どういう立場で危機感を感じたんですか?

音楽への恩返しですね。僕とこの映画の監督の宮本くんにとってはずっと音楽が大切で表現の原動力になっていたので、NOONがなくなったら「この野郎」じゃないですか? だからそれを応援しなきゃな、っていう気持ちが大きかったです。震災の後、2012年くらいだったので、大阪に妙な流れが渦巻いているような気がしてて。福井の大飯原発が再稼働した時のデモに行って、その帰りに、「よしやるぞ」って決めたんです。それで、プロデューサーとして、企画、撮影、インタビュー、各アーティストとの連絡、資金集め、配給や宣伝などの裏方作業全般に携わります。

スチャダラパー、いとうせいこう、THA BLUE HERB、EGO-WRAPPIN’など、このイベントに出演したアーティストの声を中心にしたドキュメンタリーですけど、この映画を撮ったことで、佐伯さんの写真に影響していることはあるんですか?

何人かには写真を観てもらったりして、七尾旅人くんやハナレグミの永積さんは「すごい好き」って言ってくれました。NOONの裁判は勝訴して、関わった多くの弁護士さんには、この映画を糧に頑張れたって言っていただき、数年後には風営法の法律も変わって、プロジェクト的にはやりきりました。ただ、この映画製作の時間は自分の写真とは全く結びつかないんです(笑)。そういうフラストレーションは映画をつくっていてありました。すごい時間もかかって大変だったんで、どうしたもんかなって。ずっとこの映画のことばっか考えていたんで、この時期、自分の写真作品をほとんど撮れてないんです。カメラもずっと持ち歩いていたんですが、写真を撮る目で世の中を見れてないんですね。そうなってはじめて、やっぱり求めて見てないと撮れないんだなっていうのを気づきました。

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では、この1年半ほどは、自分の写真が撮れなかったんですね。

作品として残ってるのは、ほんと数枚です。

写真の仕事はできたのですか?

それはできました。だから、よく写真の仕事をはじめたら作品にも影響するっていうじゃないですか。僕もそうなるんだろうなって思ってたんですけど、全く実感ないですね。仕事は人に求められた物事を撮るから、それが作品になるってことは滅多にないですしね。

撮りたいものがはっきりしてるってことですね。写真の仕事はいつから始めたんですか?

『挨拶』をつくっているくらいに子供ができちゃって結婚するんです。それで、働かなきゃって、小さい広告代理店にカメラマンとして入りました。その前にバイトで、カメラマン・アシスタントの派遣会社に登録して、スタジオワークも8ヶ月くらいはやったあと、一番暇そうなスタジオを選んで入ったら、僕が見たときが、たまたま暇な日だっただけで、実際は朝8時半から深夜0時くらいまで、めちゃくちゃ忙しかったんですよ。だからそこを1ヶ月半で辞めて(笑)。

では、『挨拶』が出てから写真の仕事をはじめ、生活の変化もあり、作品自体はどう変化していくのですか?

撮りたいものは変わってないですね。でも何が撮れるかは出会わないとわからないので、本当にどうしたらいいのか、未だによくわかってなくて。普段家では3人の子供の子守しかしてないんで、なかなか進まないんです。

日常だとそんなにシャッターチャンスはないですよね。

そうなんですよ。

撮りたいけど自分が撮りたい物事が起こらない、もどかしさや焦りはないんですか。

たまに赤々舎のイベントに誘われて、東京の写真仲間とかと会うと、そういう気持ちがめちゃくちゃ湧くんです。ただ、家に帰るといつもの生活に戻るので。仕事した帰りに、ちょちょって撮ったり、実家の広島に帰った時に撮ったりします。撮りたいって気持ちはあるんですけど、どうすればいいのかわからないんですよね。だから最近の写真は、家族でどっか行くときに撮ることが多いので、いろんな場所の写真が多いんです。だから、いくしゅんは、ほんま天才だと思いますよ。

ちょっとした家族の中でのイベントで撮れてることが多いんですね。

嫁がミュージシャンなんで、ライブで各地を回るので、それに子守役でついていって、そのあいだに写真を撮る。「撮るぞ」って意識を家にいるよりも持ちやすいので。だから本当にサボってるんかなって思うんです。例えば、名越啓介さんとか本当にどうなってるんだろうってくらい、撮るためだけに行動するじゃないですか。そういうタイプじゃないんだなって自分のことを諌めるしかできない。

写真の技術を向上させるために、努力していることはありますか?

それはほとどんないですね。カメラも一台しか使ってないですし、お金もないのでレンズもなかなか買えてません。ただ、スタイリッシュに撮ろうとは常に思ってます。人の写真集はよく見ますが、技術的な視線ではあまり見てないです。今でも、藤原新也さんの影響が自然と出ちゃってるんですよね。後から気づくんですが。

写真集『リバーサイド』より

写真集『リバーサイド』より

写真集『リバーサイド』より

写真集『リバーサイド』より

写真集『リバーサイド』より

写真集『リバーサイド』より

写真集『リバーサイド』より

それは体に染み付いているってことだから、真似ではないと思いますけどね。そうやって、中断はあったにせよ、日々撮りためていったものが、8年ぶりに写真集としてリリースされました。『リバーサイド』で最も印象的なのは、やはりお母さんですね。

結果的にはそうですよね。

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日常で何かが起こらないと写真が撮れない。それが母の死っていうのは複雑ですよね。

亡くなる前の鼻チューブしててこっちを見てる写真は、悲壮感がありすぎるような気がしてたので絶対に写真集には入れたくないって、最初は思っていました。母ちゃんの死に対して、自分の身体のど真ん中のぽっかり感みたいなものを、亡くなった後もずっと引きずっていて。でも本をいっしょにつくる人には見てもらわなければいけないと思ってプリントしてました。この写真が亡くなる二週間前で、本ではそこから亡くなった日の夜、翌日の葬式の日の朝日、そして四十九日と続きます。

なぜ、お母さんの写真を収録することにしたのですか?

本をつくるときに、なかなかまとまらなくて、「まだ、なんか足りないね」って編集の方に言われて、「マジで」ってなったんですけど、「う~ん確かに足りへんか」って。ただ、この写真が撮れた時に、これで本ができるっていう風に思ったものがあるんです。

写真集『リバーサイド』より

写真集『リバーサイド』より

写真集『リバーサイド』より

写真集『リバーサイド』より

写真集『リバーサイド』より

上の奥さんと子供の写真ですね。それで収録することに決めたんですね。

こっちは大阪の朝日なんですが、撮りながら「あの日と全く同じだ」ってびっくりしました。今のこのブラインドから射してる朝日は、3年前の障子の隙間から射した、死んだ母と姉の手を結んだあの朝日と何も変わりない、だって太陽はずっと輝いているわけだし、地球はくるくる回ってるから毎日途切れるけど、光には時間軸って問題じゃないですもんね。そう思ってたら、母の死から3年を経て、この写真が撮れたことで、気持ち的にもぽっかり空いていたものが埋まっていくような感じがしたんです。

不思議ですね。

本当に写真で救われるってことがあるんだなって驚きました。この写真もそうですが、その後ポンポンポンって最後に足りないって感じていたものが埋まるように作品が撮れることになるんですよね。

『挨拶』のときのインドとバイクの写真のように、『リバーサイド』では、お母さんと奥さんと子供の写真を対のようにレイアウトしたんですね。

そうしようっていう頭は初めは無かったんですが、最後には自然とそうなりました。同時に本っていうのは出る時にしか出ないんだなって実感してます。

他にも自身が大人になるにつれて、起きる日常が切り取られています。切なさや悲しみ、生と死や、ユーモアなどが、同列に淡々と納められているように感じます。

悲しいこともあるけど面白いこともあるよねって。本当にこんな言い方でいいんですかね(笑)。

例えば完全にギャグ写真、完全に悲しいもので一冊をつくることもできたと思うんですが、そもそも、いろんな感情を写真に収めたい、本で言えば一冊に混在させたいって、望むのと同じってことですよ。昔のコラージュの作品も同様に、様々な要素を重ねていって、ひとつの画像にするっていう。

まさに、一緒です。

笑いと悲しみが同居してる写真が、個人的には特に印象に残ります。それが淡々とレイアウトされてるから余計に伝わる気がします。あっけらかんとしてるから、受け手側は自由にどっちとも捉えることができて。

写真の並びがだいたい時系列になってるっていうのも、淡々としてるように感じるんだと思うんです。また、普段の生活も子守に追われている毎日なんで、淡々としているんです。子供たちとの時間の中に見る、自分も昔見ていたはずの驚きや、どうでもいいような不思議な瞬間とか、子育てに奮闘する嫁さんとの時間だったり、気がつけばやはり家族を撮っていました。

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写真集全体として、佐伯さんの生活や考え方がダイレクトに表現されているんですね。読者にはどのように観て欲しいんですか。

「ええ写真やな」って思うから見てもらいたいですけど、「だってええ写真じゃないですか(笑)」。構図的にうまくピタッと切りとれる僕の写真の捉え方を見てもらいたいなって。絶対良い写真だと思うんですよ。特に最後の1枚(石と手の影の写真)なんか見たことないぞって。これに関しては本当に「ああこういうの撮りたいんだな」って思ったんですよね。だからずっと探してるのかもしれないですけど、どういうのを撮りたいかって。

じっくり写真だけを観てもらえればわかるから、あえて写真集には佐伯さんの文章なり言葉を入れなかったんですよね。

僕が書くと写真の内容をもう一度説明するみたいになってしまうので、大竹昭子さんに相談して、長い書評のような文章を帯に書いてもらいました。

タイトルは『挨拶』からの『リバーサイド』。

最初はずっと「コノキシ」ってタイトルだったんです。彼の岸と此の岸の。でもちょっと範囲が広すぎるし重いからどうかなとは思ってて。そこから、そういえば虫ばっか撮ってるなって気がついて「虫の気持ち」っていうタイトルになったこともありました。虫ってただいるっていうか、自分の写真行為ってそんな感じやなって思ったんです。ただいてて、当たり前のように花の蜜を吸に行くって感じで。でも最終的には三途の川からの「三途リバーサイド」→「リバーサイド佐伯_」→「リバーサイド」っていう流れです(笑)。三途の川辺に僕らは住んでるなっていう。

佐伯さんの写真を通じて、読者に伝えたいことはあるのですか?

そうですね、『リバーサイド』ってタイトルもそうですけど、死が身近にあると、みんなが実感できれば、もっと良い世の中になるんじゃないかなって想いは、やっぱりありますよ。

写真を観ていても感じますが、生や死について、常に意識し続けられるのが不思議です。そもそも寺で育ったんですよね。その影響ですかね?

自分じゃ、良くわからないですね。広島の何もない神石郡っていう過疎地で育ったんですが、うちの寺は加持祈祷で、お爺さんがすごかったんですよ。密教なんですけど、加持祈祷で癌患者を治すみたいな。『真言密教の奇跡』っていう本に、うちの爺さんが紹介されて、それを読んだ病気の方が頼ってきて。信者さんというか。ただ、僕にはすごく厳しかったですけどね。テレビも〈一休さん〉しか見せてもらえなかったですからね。また、実家が幼稚園もやっていて、般若心経は幼稚園児でも唱えてましたね。

お爺さんのところに相談に来ている人の、生死の狭間を見てきたからですかね?

学校だったんで、そういう人たちの表情をまじまじと見ることはなかったですが、癌って拝めば治るって思っていたところもあります。でも、母は癌で死んじゃうんですけどね..。あっ思い出しました!小学生3年生くらいだったんですけど、大阪の親戚の婆ちゃんが死んだ時に、僕にとってのはじめての葬式があって、ワクワクしたっていうかね。学校休んで兵庫に行けるっていうのと、親戚のうちに行けるっていう楽しみもあったからかもしれないですけど。普段あまり話さない父と一緒にスカイラインに乗って、100キロ以上飛ばして、ピンコンピンコン鳴りながら、広島から兵庫まで、一緒に車に乗っていくのがすごく楽しかったです。葬式で父の泣き顔を初めて見たショックは大きかったんですが、悲しまなきゃいけないんだけど何処かで楽しいと思ってしまっている自分がいましたね。その帰りも、もっと葬式を経験したいって思いましたからね。後から考えると、死に対する耐性を持ちたいっていうことだと思います。死を怖いものって思いたくないから、逆にいうと怖いものって思ってるからなんですけど。

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確かに、アヒルの写真もそうですが、リバーサイドでの居間の写真もそうですが、辛い場面とか悲しい場面での、思わず起こる笑いみたいな写真は、佐伯さんの特徴ですよね。

僕もみんなも、「こういう瞬間ってあるよな」、って葬式で思うはずなんですよ。

思います。思います。

飲んで飯も食って、疲れたなってときに。

なるほど。葬式は、家族や親戚が亡くなって悲しいけど、死者を想って笑ったりする場面もあって、くだけたりもするからこそ、葬式を経験することで、死が怖いものだけじゃないって感じさせてくれる。死に対する耐性をつけれる場面が、葬式だってことなんですね。仏教での教えでも生死について学ぶんですか。

仏教では生死、生老病死っていうのは逃れられない苦しみとして受け入れるモノっていう捉え方なので、確かにやってることはそういうことなのかもしれないですね。僕が修行して、一番良かったと思うのは、仏教は哲学なんで、なぜ生きてるのか、ここにいるのか、っていうのを1200年以上前から考えた人たちがいた。でも、それでもわからない。すごく平たく言うと、この世の中や宇宙そのものが存在する原因をどれだけ探っても、そこには、とにかくただ初めから宇宙がある、っていうような感じで。「阿字本不生不可得(あじほんぷしょうふかとく)」っていう心理として解かれてて、専門的にはもっともっと難しいんですが、僕は修行中、そのことに、なぜかすごく納得して。だから大丈夫っていうか、先人たちがそれだけ考えてもある意味「わからない」っていうんなら、もうそれは安心するばかりだなと。その安心感が得られたことが、僕にとっては仏教のいちばん良いところでした。

そもそも、修行は具体的に何するんですか?

僕が修行したお寺では1年のうちの4ヶ月間、加行(けぎょう)っていう厳しい修行があって、その間は朝早くから滝に入って、一座拝むんです。最初は1回大体1時間くらいかかるんですけど、それを1日3回繰り返すんです。行が進むことによって、一座が2時間、3時間と長くなっていくんです。いろんな印を組んで、仏さんを目の前に呼んでっていうのを感じながら、念持を持って仏さんの真言を、梵字をイメージしながら1000回唱えます。8月から始まるんですけど、12月になると、一日3回滝に入るのは冷たい便座に座る感覚をもっと拡大させた感じなんですが、体力的にキツイんです。いっぺん滝壺にドボンって肩まで浸かってしまえば良いんですけどね。ただ、滝にずっと打たれるんで痛いっていうか、ちょっとでも怪我すると全然治らないくらい、体力が低下していくんですよね。その間に掃除もしないといけないし、自分で次第経本を書かなきゃいけないんです。漢文を和訳するんですが、最初は何をやってるか全くわからないんで、どういう意味があるか仏教辞典とかで調べるんですよ。やってたら段々段々わかってくるんですけどね。ただ、忘れっぽいんで、今、口で説明できるほど覚えてないですけど(笑)。でも、やたら感動したんですよ。こんなものが1200年前からあるんだって。

真面目に修行したんですね。

空腹がずっと続いているのもあって、感覚が研ぎ澄まされていくのがわかりました。体力温存のため、とにかく最短距離を歩いてましたね。修行をしていたらある時、全部粒子なんだっていうのを体感した時があったんです。加行をずっとやっているので、瞑想状態とか酸欠トランス状態だったのかもしれないですけど(笑)、見えるモノや感じるモノ、周りの空気さえも全部粒子になっていて。自分と目の前のコップに何の違いがあるんやろうって。全部一緒だっていう。でも意識だけはあるなって、しかも心地好かったんです。修行すればそうなるわけではなく、それを体験するための修行ってわけでもないんですけど、でもそれを体感したんですね。意識さえも溶けていくから、だから、爺ちゃんは癌を治せるんだって。修行から帰ってきて「平平平平」を創りながら、あの体験を写真で表すならこういうことなんだなって思いましたね。

自分で聞いておきながら、なんですが、そんな話を聞いちゃうと、やっぱり実家の環境や、葬式や、仏教の修行の体験が、佐伯さんの写真から感じる「無常」って言葉を使うと、よりそっちに寄せているようですが、作品に繋がってるような気がしてならないですけどね。仏教写真家、佐伯慎亮(笑)。

そうやって言われたら、そうかもしれないですね(笑)。そうなんでしょうけど、でも、僕は仏教写真家ではないですよ。何も覚えてないくらい、坊主は本当に向いてないんで(笑)。それに、やっぱり自分じゃ、あまりわからないです。ごくごく自然なことなので。

写真集『リバーサイド』より

写真集『リバーサイド』より

写真集『リバーサイド』より

写真集『リバーサイド』より

写真集『リバーサイド』より

(プロフィール)

佐伯慎亮 (さえきしんりょう)

1979年広島県生まれ。大阪芸術大学卒。2003年にはキヤノン写真新世紀優秀賞を受賞。2009年には初となる写真集『挨拶』(赤々舎)をリリース。その後初となるドキュメンタリー映『SAVE THE CLUB NOON』を企画、プロデュース。2017年2作目となる『リバーサイド』(赤々舎)をリリースした。他に『MY BEST FRIENDS どついたるねん写真集』(SPACE SHOWER NETWORK、共著)などがある。2017年11月25日から12月2日まで、ギャラリー交差611(広島)にて写真展「リバーサイド」開催予定。