オースティンを拠点に活動していた、誰もが愛した破天荒なミュージシャン、ダニエル・ジョンストンは、現地時間の9月10日朝、心臓発作で亡くなった。享年58歳だった。
「僕の話を聞いてくれ/歳をとっていくアーティストの話だ」
ダニエル・ジョンストンの「The Story of an Artist」はこんな歌詞で始まる。
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ジョンストンは天才で学識が深いミュージシャンとして広く知られていた。彼は多くのミュージシャンに影響を与えたソングライターであり、オルタナミュージックのメインストリームにおける方向性を導きながらも、本人はメインストリームから決然と距離を置いていた。彼の才能のルーツをひと言で特徴づけるのは難しい。彼は、メンタルヘルスの問題を抱えていることをオープンにしており、それは才能とも複雑に絡み合っている。いずれにせよ、彼が貴重で特別な〈何か〉を体現する存在だったこと、そしてどこか浮世離れした、それでいて魂がこもった彼の作品は非凡で、他の誰にも似ておらず、生き生きとしたエネルギーを内包していたこと、それに関しては誰もが頷くはずだ。
「誰もが言う 家族も友人も/“仕事しなよ/どうしてそんなことしかしないの?/どうしてそんなに変わってるの?”」
58歳という年齢での逝去は早い、というひともいるが、ダニエル・ジョンストンはいつだってどこか老成していた。歌詞では、子どものような世界観が表れている点が多々あったが、インタビューになると彼は皮肉屋で、自己をはっきりと認識していた。彼の初恋の女性で、彼女の結婚後もずっと固執していた、あるいは長らく恋をしていた(その表現は各々の言葉の定義によって異なるだろうが)ローリー・アレンを題材にすることについて、彼はインタビュアーにこう語っていた。ローリーは「1000曲のインスピレーション源になってくれた。そして僕は、自分がアーティストだと知った」
アーティスト、ダニエル・ジョンストンを語るにふさわしい物語は、これ以上他にない。ローリーへの想いは、彼を創作に駆り立てた唯一の情熱だった。そうしてできた彼の曲は、内省的で、往々にして憂鬱で、時に希望に満ちている。5歳児が書いたように思えるときもあれば、THE BEATLESの幻の最高傑作のように思えるときもある。ピアノかギターのみの極端にシンプルなトラックに、彼のチャーミングな鼻にかかった声が乗る。その歌は優しく語りかけるよう。リスナーは何十年にもわたり、彼独特の世界観に、とりわけ、いわゆる〈完璧〉ではない点が多々ありながらも、それを気にせずに音楽やイラストを制作、発表し続ける彼の姿勢に慰めを見出してきた。彼のキャリアのなかで比較的しっかりプロデュースされた作品であっても、リズムが安定しなかったり、音符の前後に不自然な間があいたり、メトロノームやチューナーを使っていないとわかる箇所は散見される。エイリアンやボクサー、神話上の生物、擬人化された物体を描く彼のイラストだって、正確な描写とはほど遠いし、奇妙奇天烈だ。しかしそこには観る者の心を掴む何かがある。彼の作品は、その後数世代にわたって、重要な工芸品のような存在となった。
彼はどこか年齢不詳な印象を与えた。歳をとっていなかったわけじゃなく、特定の年齢に当てはまらない雰囲気だった。1961年に生まれたジョンストンは、10代で音楽を作り始める。80年代後半から90年代初頭、現在言われているような〈アウトサイダー・アートのアイコン〉として登場。2005年のドキュメンタリー映画『悪魔とダニエル・ジョンストン』の監督、ジェフ・フォイヤージークによると、彼は数年間、地元のマクドナルドで働きながら、レコード屋にいそうなタイプやかわいい女の子の客のテイクアウトの袋にこっそり自主制作テープを滑り込ませていたという。地元オースティンのファンダムは、音楽オタクや芸術家気取りたちに瞬く間に広がっていき、彼のソングライティングの才能と、ひとをワクワクさせる破天荒さは、興味や賞賛の的として盤石の地位を築くこととなった。
「そして彼らはテレビの前に座って言う/“ねえ、これすごく面白くない?”/そしてアーティストを笑う/“あいつは楽しみ方を知らないんだな”」
インディロックやグランジの神々も、レコードオタクも、スケーターも、映像作家も、変人も、アール・ブリュット愛好家も、誰もが口を揃えて、ジョンストンは特別だった、と語る。2000年代に入ってからも、多くのひとびとが様々なかたちでジョンストンのことを知り、彼のファンベースは拡大を続けてきた。それらが証明するのは、90年代までの彼のアンダーグラウンドにおける影響が消えずにここまで残ってきたということ。たとえば、ジョンストンよりもメインストリーム寄りのアーティストが彼の曲をカバーした音源を聴いて、ジョンストンを知ったひともいるだろう。彼の人気曲のひとつで、忘れがたいほどに美しい「True Love Will Find You in the End」はベックにもカバーされているし、BUILT TO SPILLは、1996年のコンピレーションアルバム『The Normal Years』に「Some Things Last a Long Time」のカバー(最高!)を収録した。2015年にはラナ・デル・レイも同曲をカバー。それ以外にも多数ある。
あるいは2005年のサンダンス映画祭でドキュメンタリー作品監督賞を受賞した『悪魔とダニエル・ジョンストン』がきっかけだったかもしれない。また、1992年のMTVビデオ・ミュージック・アワード授賞式でカート・コバーンが着用していたTシャツからダニエル・ジョンストンの音楽へと行き着くこともいまだにあるようだ。ジョンストンはカートのようにはなれなかったが、カートは熱心にジョンストンの音楽を聴いていた。
ジョンストンを語るにあたり、双極性障害の話は避けて通れない。彼の心は大いに苦しんでいたと同時に(『Songs Of Pain』『More Songs of Pain』というタイトルのアルバムもあるくらいだ)、躁状態のときは予測不能な行動をとったり、驚くほど多くの作品を生み出していた。ジョンストンは、自らが〈神経衰弱〉と呼んでいた苦しい時期、数千曲の音楽作品に加え、それ以上の絵画やドローイングを生み出した。また、取り憑かれているのでは、と思われるくらいに悪魔に心酔していた。自分はお化けのキャスパーだ、と思い込んで精神科病院に入院した。そして入院中も曲を制作し続けた(特にマウンテンデューへ捧げる曲が有名)。父親と乗っていた飛行機の鍵を窓から投げ捨て、飛行機が林に不時着してふたりとも死にかけたこともある。しかし、そのエピソードに当惑するのではなく、自分と同じだ、と感じるファンもいた。『悪魔とダニエル・ジョンストン』の公開時に行われた〈Public Access〉のインタビューで彼が語っていたところによると、本作の公開後1週間のあいだに、「あなたの音楽が好きです。私も精神の病を抱えています」という内容の手紙を4〜5通受け取ったそうだ。
また、彼の徹底的なローファイサウンドが、グランジだけでなく、その後のアーティストたちにも多大なる影響を与えたという事実を無視することもできない。59ドルのラジカセを使用し、宅録らしさを際立たせるノイズが入ったそのサウンドは、THE MICROPHONESやCASIOTONE FOR THE PAINFULLY ALONEなど2000年代初頭のローファイバンドのサウンドに影響を与え、さらにチルウェイブ(例:初期の、窓の外から聴こえてくるかのようなリヴァーブ強めのWASHED OUT)やベッドルームラップ(例:リル・ピープやXXXテンタシオンなどのDIY精神、悲観的で繊細な歌詞)などのジャンルにまで脈々と息づいている。
「僕の話を聞いてくれ/歳をとっていくアーティストの話だ/名声や栄光を求めるひともいれば/世界を見つめるのが好きなひともいる」
現代のポップミュージックにおいては、大手レコード会社と、トップ10入りするような曲を毎年大量生産しているごく少数のソングライターたちが、キャッチーなアンセムを作るレシピをすっかり完成させている感がある。しかしジョンストンの作品が、立派なレコーディングスタジオ、オートチューン、深い歌詞を書く専業作家が絶対に必要なわけじゃないということを証明している。マックス・マーティンの大ヒットソングよりも、彼のミニマルな音楽のほうが、むしろ生々しい感情をありありと捉えている。
今の時代、オルタナの〈真剣さ〉はカネにならない。なったとしても、短命だ。ジョンストンの信奉者として世界で一番有名なカート・コバーンだって、ずっと前に亡くなった。今年のグラミーで最優秀ロックパフォーマンス賞を受賞したのはクリス・コーネルだったが、彼も亡くなっている。2018年の同賞を受賞したレナード・コーエンだってそう。私たちが知っている〈オルタナ〉ミュージック、つまり、個人が作詞作曲をし、パワフルな感情を歌い、楽器を使ったライブ演奏を特徴とする音楽を取り巻く状況は、良いわけではない。しかしジョンストンの死を世界が悼んでいる事実が、〈真剣さ〉にはまだ希望があるのかもしれないと思わせてくれる。
「True Love Will Find You in the End」で、ジョンストンは問う。自分から光の中に踏み出さなければ、真実の愛も自分を見つけてくれないのでは、と。確かに彼は、自分が夢見た恋を手に入れられなかったかもしれない。しかし、何百万人のファンが彼を見つけ、心から彼を愛したのは確かだ。
1994年、『Rolling Stone』誌はジョンストンの特集記事で「現代における最重要ソングライターのひとり」と称しつつ、彼の「不安定さ」も指摘していた。これは25年前のことだ。そんな〈脆さ〉を抱えた天才とともに、私たちは四半世紀も生きることができた。それを幸運といわずしてなんと言おう。自分がこの世界に生み出した作品がとても貴重であったという事実を、彼自身もわかっていたと思いたい。
「僕は成長するのを忘れてたんだ」と1994年のインタビューで彼は語った。「単純な人間だ。子どもみたいに、いつだって絵を描いたり、曲を作ったり、遊んでばかりいる」
私は願う。ダニエル・ジョンストンのいない世界でも、私たちがみんな、幸運な人生を生きられますように、と。
This article originally appeared on VICE US.